桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址 (京都市右京区)  
ruins of Suminokura
桓武天皇勅営角倉址 桓武天皇勅営角倉址
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 嵯峨天龍寺角倉町の保養所「花のいえ」の門前左脇に、「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址(かんむてんのう-ちょくえい-すみのくらあと・りょういおうていあと・へいあんしょきちゅうせんしきゅうし)」の石標が立つ。
◆歴史年表 平安時代、第50代・桓武天皇(737-806)は、京洛の四隅に官倉を設けたという。西にはこの付近に、「角倉」を置いたともいう。以後、地名の「角倉」の由来になる。(詳細は不明)
 870年、葛野の鋳銭所で新銭を鋳造し、櫟谷宗像神社に奉納された。(『日本三代実録』)。「平安初期鋳銭司」は、嵐の麓辺にあったとされる。平安時代には、新しい鋳銭を造る度に、必ず当社に奉納する慣わしがあった。(詳細は不明)
 江戸時代、1606年、了以(1554-1614)は、大堰川開削工事を行う。了以、その子・素庵(1571-1632)は、舟運管理のためにこの地に邸宅を建てた。なお、角倉家の祖・徳春は、この地に住み、家名「角倉」の由来になったという。
 1629年、儒学者・林羅山(1583-1657)の撰文に「勅営角倉」と刻まれている。(大悲閣「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」)
 近代、1929年、現在の石標が立てられた。
◆桓武天皇 奈良時代-平安時代前期の第50代・桓武天皇(かんむ-てんのう、737-806)。山部(やまべ)、柏原亭。父は白壁王(のちの第49代・光仁天皇)、母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。皇位継承者ではなかった。764年、従五位下に叙される。766年、従五位上大学頭になる。770年、父の即位により親王宣下、四品。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子になる。775年、井上内親王、他戸親王は死に追われる。780年、伊治呰麻呂(いじ-の-あざまろ)の反乱が起こる。781年、3月、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。5月、藤原小黒麻呂征夷戦勝の報告を許さなかった。784年、6月、長岡遷都の工事が始まる。11月、平城京より長岡京に遷都した。785年、9月、造長岡宮使長官・藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追い、乙訓寺に幽閉させる。10月、親王を淡路に流す途中で親王は亡くなる。11月、安殿親王(あてのみこ)が立太子になる。789年、蝦夷大使・紀古佐美の軍を東北に派遣し、蝦夷の指導者・阿弖流為(アテルイ)に衣川で敗走する。(第一次蝦夷征伐)。791年、蝦夷大使・大伴麻呂の軍を派兵する。(第二次蝦夷征伐)。793年、葛野に行幸した。新京宮城(平安京)の造営が始まる。794年、10月、新京に再遷都した。11月、山背国を山城国に改め、新京を平安京にした。797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、胆沢、志和を確保した。(第三次蝦夷征伐)。800年、7月、神泉苑に行幸する。早良親王に祟道天皇を追尊した。804年、再び田村麻呂を征夷大将軍として、第四次の蝦夷征討が準備された。遣唐船発遣、805年、公卿に徳政相論を行わせ、造宮職を廃した。806年、3月、藤原種継暗殺事件連座者を復位させた。その翌日に亡くなる。 山陵は当初、宇太野(うだの、右京区宇多野)とされたが、4月、紀伊郡柏原山陵(伏見区)に柏原山陵に改められた。70歳。
 百済王氏出自を官人などに重用する。坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。律令政治の振興、財政緊縮、地方官粛清、徴兵制度の廃止、土地制度改革、良賤制度の改訂、最澄や空海を保護し、既存仏教を圧迫した。祭神制度の整備などを行う。
◆角倉了以 室町時代後期-江戸時代前期の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉了以(すみのくら-りょうい、1554-1614)。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨生まれ。土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)の長男。母は中村氏の娘。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)トンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。
 薬物の輸入に尽力した。土木工事の技術に長けた。琵琶湖疎水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。61歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都・山城寺院神社大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址 〒616-8382  京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町,公立学校共済組合嵐山保養所「花のいえ」前
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