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招善寺 (京都市北区) Shozen-ji Temple |
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招善寺 | 招善寺 |
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![]() ![]() 「浄土宗 招善寺」の寺号石 ![]() 「南無阿弥陀仏」の名号碑 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 山門 ![]() 「本念山 招善寺」の山号寺号札 ![]() 山門 ![]() 本堂 ![]() 本堂、扁額「本念山」 ![]() 本堂 ![]() ![]() 本堂 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() ![]() 庭園 ![]() ![]() ![]() ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼 ![]() ハクモクレン ![]() ベイスギ ![]() 蹲踞 ![]() ![]() ![]() ![]() 墓地への門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 御土居、参考文献 『建築家秀吉』 |
招善寺(しょうぜん-じ)は、丘陵地に建つ。境内は大宮御土居遺構に南隣し、後に「御土居の守り寺」と呼ばれたという。境内は時代劇などのロケ地としても度々登場している。山号は本念山という。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来を安置する。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 安土・桃山時代、1591年、付近一帯に豊臣秀吉により御土居が築造される。 江戸時代、1702年頃/元禄年間(1688-1704)/1690年代、招善寺は現在地に開創されたという。 宝永年間(1704-1711)以前、当寺は御土居を管理し、幕府に納税していたという。 ◆庭園 本堂前に東面して、枯山水式庭園がある。白砂に、曲線刈込のサツキに囲まれた、複数の石組により構成されている。 ◆樹木 ◈庭園の東南隅、鐘楼近くに巨木のハクモクレン(開花は4月上旬)がある。モクレン科モクレン属の落葉高木であり樹齢400年という。2003年5月に京都市指定の保存樹になった。近年では樹勢に衰えが見える。 ◈本堂近く、蹲踞脇の高木のベイスギは、ヒノキ科クロベ属の常緑針葉樹になる。 ◈庭園のサツキ(開花は6月)、山門手前では紅葉も見られる。 ◆御土居・招善寺 招善寺境内は、大宮御土居遺構に南隣している。御土居は北東から南西方向に残されている。 安土・桃山時代、1591年に豊臣秀吉により御土居は築造された。その後、江戸時代前期、1702年頃/元禄年間(1688-1704)/1690年代に招善寺は創建されている。 少なくとも、江戸時代中期、宝永年間(1704-1711)には、寺は御土居を管理し、幕府に納税していた。「御土居の守り寺」の異称もあったという。 付近では、御土居土塁を壊すと祟りがあるとの伝承があったという。 ◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一(1571-1632)が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。 ◆年間行事 除夜の鐘(12月31日)。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「お寺の風景と陶芸」、『御土居堀ものがたり』、『ブッダとは誰か』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『洛中洛外』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『豊臣秀吉事典』、『御土居跡』、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、延命地蔵大菩薩の駒札、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、『建築家秀吉』、ウェブサイト「御土居跡-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」、ウェブサイト「コトバンク」、OpenStreetMap Japan ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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