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| 寛文新堤 (京都市下京区) Kanbun New Embankment |
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| 寛文新堤 | 寛文新堤 |
![]() 団栗橋下流、寛文新堤とみられる布積護岸(奥の上段部分)、その下に谷積護岸(中央)、手前はみそそぎ川 ![]() 二条大橋下流の布積護岸(奥の上段部分) ![]() 【参照】布積護岸の例 ![]() 「西石垣(さいせき)通」(下京区)の通り名 ![]() 西石垣通 |
寛文新堤(かんぶん-しんてい)は、江戸時代前期に、鴨川の上賀茂-五条大橋間に築造された。以後、河川敷での夕涼みなどの娯楽の場、遊興的な新地も生まれた。 ◆歴史年表 江戸時代、1669年、板倉内膳正により寛文新堤の築造が開始される。 1670年、工事は終了した。 1674年、鴨川洪水により東堤の大部分が流出した。 1676年、鴨川洪水により東堤の大部分が流出する。 近代、1935年、「鴨川大洪水」後に、鴨川西岸にみそそぎ川が整備される。 ◆板倉 重矩 江戸時代前期の大名・板倉 重矩(いたくら-しげのり、1617-1673)。男性。幼名は長命、通称は又右衛門、内膳正(ないぜんのかみ)。父・板倉重昌(しげまさ)、母・林吉定の娘の長男。1637年、島原の乱で父・重昌と共に九州へ赴く。重昌は戦死し、重矩は戦功を上げる。軍律に違反し一時逼塞させられた。1639年、三河(愛知県)深溝(ふこうず)藩主・板倉家(2代)を継ぎ、三河中島藩主に転じた。大坂定番を経て、1665年、老中になる。1668年-1670年、京都所司代になる。1669年-1670年、鴨川に寛文新堤を築いた。1670年、老中に再任される。1672年、下野(しもつけ)(栃木県)烏山藩主・板倉家初代になる。57歳。 所司代として朝廷からも厚い信任を得ていたという。 ◆寛文新堤 「寛文新堤」は、江戸時代前期、1669年に板倉内膳正により築造が開始される。1770年、終了している。このため、京都では「板倉堤」とも称された。 鴨川での洪水防御の方法として、堤防による高水工法が採用された。主に氾濫防止のために、最高水位を計算して行う工事の予定だった。 建設区間は、鴨川の上賀茂-五条大橋間で、4200間(7.6㎞)の両岸の護岸が整備されている。東岸(左岸)の堤防の高さは1間(1.8m)、天端2間(3.6m)あり、西岸(右岸)の堤防は高さ2間(3.6m)、天端6間(10.9m)だった。西岸の方が護岸規模が大きく強化されていた。 西岸は今出川より下流部、東岸は二条より下流部では石積(石垣) になっていた。その上流部は基本的には土積であり、前面には蛇篭(じゃかご/じゃこ、石籠)が設置されていた。これは川の護岸工事のために、粗く編んだ長円形の竹・鉄線製の籠の中に栗石・砕石などを詰め、河土砂の防止・水流制御などに用いた。 建設費用は、場所によって異なり、公儀負担した部分は「公儀石垣」、町の負担部分は「町石垣」と呼ばれた。建設工事は、全87区間に分けて実施され、各区間毎に入札が行われ施工者が決められていた。(「中井家文書」) 公儀石垣の延長1003間(1.8㎞)、町石垣の延長2210 間(4㎞)あった。東岸での石垣は二条より下流部にあり、すべてが町石垣になっていた。(「賀茂川筋絵図」)。また、公儀石垣は、今出川口-荒神口間の西岸746間(1.3㎞)と橋梁・御用水樋口などを管理した。町石垣は、西岸の荒神口-五条大橋間の1190間(2.1㎞)、東岸の二条口-五条橋間920間(1.6㎞)を管理していた。(「川方勤書」) 東岸の二条通より上流部については石積ではなかった。今出川通までは蛇篭が設置されていた。西岸では道と交差する部分を除き、今出川通-五条通間のすべてが石垣になっていた。そのうち今出川通-夷川通間は公儀石垣だった。今出川通より上流部の「賀茂川」は全て土積で、西岸には上賀茂まで蛇篭が設置され、東岸にはなかった。なお、当時の大橋の架橋は五条大橋・三条大橋のみであり、ほかのすべては仮橋だった。このため、河川敷に向け道路は傾斜が付けてあった。(「賀茂川筋絵図」) 寛文新堤の建設以後、鴨川・周辺に変化がみられた。安土・桃山時代、1591 年に豊臣秀吉(1537-1598)が築造させた御土居の撤去が進み、跡地は道路・町家に変わっていく。他方、河床へ降りやすくなり、河床も浅かったため、河川敷は芝居見物・夕涼み・飲食などの場に変化した。また、かつての河川敷が堤内地に組み込まれ、遊興的な新地などが開発された。 寛文新堤の築造後、鴨川での洪水は減少せず、むしろ増加したという。その要因として、一定の洪水対策の機能も果たしていた御土居の撤去が進行した。築造により川幅が狭められ直線化した。上流部から流出した土砂の堆積により河床が上昇した。西岸と東岸の堤防構造が異なっていた。当時の自然環境の変化なども考えられている。 ◆新堤の遺構など ◈鴨川西岸、四条大橋の西詰南の南北通に「西石垣(さいせき)通」がある。西石垣の「垣」を略して「西石(さいせき)」とも呼ばれた。また、鴨川西岸の斎藤町(下京区)を俗称として「西石垣町」と呼んだ。(『京町鑑』、1762年) 対岸東岸の宮川町通は、江戸時代前期、1666年に開通している。宮川町一丁目を俗称として「石垣町」とも呼んだ。(『京町鑑』)。または「東石垣町」(「京大絵図」、1629年)、略して「東石(とうせき)」とも呼んでいた。「石かき丁」(「京大絵図」、1686年)とも記されている。「石かき町」(『京鏡』1694年)ともある。また、東西をあわせ「石がけ」とも呼ばれたという。 これらの「石垣」・「石」の字は、いずれも寛文新堤に由来している。 ◈団栗橋-松原橋の西岸、みそそぎ川沿いなどに、寛文新堤の遺構とみられる布積(ぬのづみ)護岸が残されている。この石垣は、後に築かれたみそそぎ川の護岸の奥に残されており、現在は天端部分のみが僅かに見えている。なお、みそそぎ川護岸の天端部より50㎝ほど高くなっている。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都・鴨川 「光と影」からみる実像』、ウェブサイト「京都・鴨川の「寛文新堤」建設に伴う防災効果-立命館大学」(上記本の再掲)、『京都・鴨川と別子銅山を歩く』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」 |