浄妙寺跡 (京都府宇治市)
ruins of Jomyo-ji Temple
浄妙寺跡 浄妙寺跡
   Home    Home
 木幡小学校の西門脇に、「この附近 藤原道長建立 浄妙寺跡」の標が立てられている。
 平安時代から室町時代に、藤原北家の菩提寺である浄妙寺(じょうみょうじ)が宇治市木幡(こはた)にあり、木幡寺とも呼ばれていた。小学校敷地の東に「ジョウメンジ墓」と通称される墓地があり、古くより浄妙寺との関わりが指摘されていた。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 
 平安時代、藤原北家の墓地は木幡の地に営まれた。
 1004年、陰陽師・安倍晴明、賀茂光栄により「木幡三昧堂(浄妙寺)」堂舎の位置が定められる。(『御堂関白記』)
 1005年、藤原道長により、父母、藤原基経以下、藤原氏一門の菩提を弔うために浄妙寺が建立される。道長は頻繁に木幡に足を運ぶ。本堂の法華三昧堂が建てられる。康尚作の普賢菩薩が安置された。寺号扁額、鐘銘は平安時代の三蹟の一人能筆家・藤原行成が書いたとされる。10月19日、供養がおこなわれる。以後、寺は摂関家墓所を守る寺として繁栄した。
 1007年、多宝塔が建立され、釈迦、多宝二仏を本尊にした。普賢、文殊、観音、勢至の4菩薩が安置された。方形の三昧堂(法華三昧堂)と多宝塔は隣接して建てられ、この頃、南門、西門、鐘楼、僧坊、橋殿なども新たに整備された。平安時代に、浄妙寺は平等院とともに摂関家の重要寺院にされた。
 1020年、無量寿院阿弥陀堂が建立される。
 鎌倉時代以降、別当職は聖護院宮家に移り、寺運は次第に衰微する。
 室町時代、1462年、徳政一揆により御堂、木幡執行坊が焼失した。(『碧山日録』)。以後、廃絶したとみられている。
 近代、1937年頃、宇治市木幡御蔵山西南麓の茶畑から浄妙寺に関わるとみられる「青磁水注」が単独で出土した。
 1941年、林屋辰三郎は論文「藤原道長の浄妙寺について」中で、浄妙寺の推定場所として現在地名を挙げる。
 現代、1967年、小学校建設に伴う発掘調査により、浄妙寺三昧堂の方形基壇、川跡が発見される。
 1990年、発掘調査により浄妙寺の三昧堂跡、多宝塔跡とみられる遺構が確認される。
 2003年-2004年、校庭改修工事に伴い発掘調査が行われる。平安時代-鎌倉時代の築地跡、溝跡などが見つかる。
◆藤原道長 平安時代中期の公卿・藤原道長(ふじわらの-みちなが、966-1028)。摂関兼家に生まれる。法成寺殿と称した。991年、権大納言に任じられた。995年、ふたりの兄の死後、兄の子と後継争いをする。姉・詮子の支援により内覧となる。右大臣・氏長者、996年、左大臣に昇る。1005年、父母、藤原基経以下、藤原氏一門の菩提を弔うために浄妙寺が建立される。1016年、外孫・後一条天皇即位に際し1年ほど摂政に就く。長女の彰子を一条天皇の中宮とし、その二人の孫を天皇に立てるなど、権勢をふるい、1018年、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠んだ。平安京内の数カ所に土御門殿など豪邸を構えた。1019年、法印院源を戒師として出家、行願(後に行覚)と称した。1020年、自邸の土御門第の東に法成寺(御堂)を造営する。1028年、臨終に際して、阿弥陀堂の阿弥陀如来の手に五色の糸をかけ、糸の端を握って息絶えた。
◆発掘調査 現在の小学校体育館北西に三昧堂、その東隣の段差上に多宝塔が建てられていたとみられ、それぞれの基壇が見つかる。
 1990年の2度目の発掘調査により、3間4間の三昧堂の方形大型亀腹基壇(高さ80㎝、創建時の推定の高さ100㎝程度、一辺15.7m)が確認された。基壇上に礎石はなく、根石が置かれていた。
 多宝塔は3度焼失し、ほぼ同じ位置に再建されたとみられる。1005年の創建時は檜皮葺と推定され、その後、焼失した。12世紀前半、河内系瓦葺により再建された。その後、再び焼失し、13世紀後半に中世瓦葺で再建される。これも、1462年の一揆により焼失し、その後、再建されることはなかった。
 2003年よりの発掘調査により、平安時代-鎌倉時代の築地跡、溝跡、瓦、須恵器、土師器が見つかる。境内の南に東西に流れていた小川跡があり、その北6mの地点に築地塀が築かれていた。築地は東西にあり、幅1.2m-2mの2本の側溝に挟まれた、幅3.5mの基礎があり、基底で推定幅1.5mの板葺の築地塀があった。その東と西にも門が付けられ、三蹟の一人能筆家・藤原行成(972-1028)筆の扁額が掲げられていたとみられている。
◆青磁水注 水差しの「青磁水注(せいじ すいちゅう えっしゅうよう)」(重文)は、1937年頃、宇治市木幡御蔵山の西南麓の茶畑から完全な形で出土した。
 中国の五代-北宋期(10世紀)、浙江省の越州窯(えっしゅうよう)製と考えられている。付近は、道長が建立した浄妙寺の旧境内地か、隣接した地域と考えられ、一門の遺愛品、副葬品とみられている。
 胴に円筒形の口頸部、笹葉形の把手、注口、肩の両側に輪状の耳を付ける。北京故宮博物院に類似品がある。釉色は酸化焔焼成、朽葉色、高さ21.8cm、口径9.5cm、底径8.0cm。京都国立博物館所蔵。
◆源氏物語 『源氏物語』「柏木」巻では、柏木が亡くなり、柏木の委託を承った夕霧は、その妻・落葉の宮を見舞い惹かれる。柏木は木幡に葬られた。
 藤原道長は、その地に菩提所の浄妙寺を建てた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『宇治遺跡群』『発掘物語 宇治』、宇治市歴史まちづくり推進課「浄妙寺跡(宇治市木幡赤塚4)発掘調査現地説明会資料」・「木幡浄妙寺跡発掘調査報告1992」『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『紫式部と平安の都』 、ウェブサイト「京都国立博物館」、ウェブサイト「コトバンク」

 
関連・周辺     周辺     関連道元生誕の地・松殿山荘茶道会(宇治市)        
浄妙寺跡 〒611-0002 宇治市木幡赤塚4番地 

 Home    Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光