一条院跡 (京都市上京区)  
Ruins of residence of Ichijoin
一条院跡 一条院跡
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「源氏物語ゆかりの地」の京都市の説明板


「源氏物語ゆかりの地」の京都市の説明板


一条院跡(中央の赤紫色の部分)、その右に別納、上に一条通、左に大宮大路、「源氏物語ゆかりの地」の京都市の説明板より

平安時代の土器類、京都市埋蔵文化財研究所、「源氏物語ゆかりの地」の京都市の説明板より

一条通
 上京区の名和(なわ)児童公園の西側に、京都市の源氏物語ゆかりの地の説明板、「一条院跡(いちじょういん-あと)」がある。
 平安時代中期に、この地に里内裏の一つである一条院があった。
◆歴史年表 
平安時代
、この地に伊尹(これただ、924-972)の邸宅があり、異母弟・為光(942-992)に引き継がれる。
 後、佐伯公行(さえき-の-きんゆき、?-?)が買得し、東三条院(第64代・円融天皇の女御・藤原詮子[せんし]、962-1001)に献上した。女院は子・一条天皇の御所として修造する。第66代・一条天皇(980-1011)の里内裏になる。
 999年、内裏焼失後も一条天皇の仮皇居になる。東の別納(べつのう)は藤原道長(966-1028)、その子・中宮彰子(しょうし、一条天皇皇后、988-1074)の直廬(じきろ)の宿泊所に使用された。
 1011年まで、第68代・後一条天皇(1008-1036)、第69代・後朱雀天皇(1009- 1045)、第70代・後冷泉天皇(1025-1068)の里内裏として使用された。
 1058年、焼失している。
◆藤原伊尹 平安時代中期の公卿・藤原伊尹(ふじわら-の-これただ/これまさ、924-972)。一条摂政、諡は謙徳公。右大臣・藤原師輔(もろすけ)の長男、母は盛子(武蔵守・藤原経邦の娘)。妻は惠子女王(第60代・醍醐天皇皇子・代明親王の娘)。941年、昇殿を許された。950年、妹・安子が第62代・村上天皇皇后になり憲平親王(第63代・冷泉天皇)を産む。951年、村上天皇の勅命により、内裏後宮にある昭陽舎(梨壺)に初めて撰和歌所が置かれた。別当を任じられる。伊尹を含む「梨壺の五人」が任に当たる。955年、従四位下、頭中将、959年、安子が守平親王(第64代・円融天皇)を産んだ。 960年、従四位上、参議、965年、正四位下、967年、従三位、権大納言に進む。968年、正三位になる。娘・懐子は、第63代・冷泉天皇の女御になり、師貞親王(第65代・花山天皇)を一条第で産む。969年、安和の変で主謀者とされた叔父・師尹に加担し、大納言に進み、近衛大将を兼ねた。970年、右大臣に進み、藤原実頼の没後、摂政、氏長者になる。971年、正二位、太政大臣に任じられた。『後撰和歌集』の編纂に加わる。伊尹の死は、参議の座を争り負けた藤原朝成の生霊によるとされた。家集『一条摂政御集』。49歳。贈正一位。
 和歌に優れた。百人一首に「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」がある。大内裏の北に邸宅「桃園」があり、孫・養子・行成に伝えられ後に世尊寺になる。
 天安寺(右京区双ケ岡・法金剛院の前身)の境内に埋葬された。
◆佐伯公行 平安時代中期-後期の公卿・佐伯公行(さえき-の-きんゆき/きみゆき、?-?)。姓は宿禰(すくね)。972年、見蔵人所出納、974年、権少外記、少外記、元蔵人所出納、976年、大外記になる。977年、外従五位下、愁訴により従五位下、能登権介を兼ねた。987年、遠江守、従四位下、信濃守になる。東山・清閑寺を再興し、996年、第66代・一条天皇により御願寺(勅願寺)に列せられた。藤原為光の娘・寝殿の上から一条院を購入し、東三条院(藤原詮子)に献上した。東三条院の口添えにより、998年、前信濃守、播磨介になる。1010年、出家した。
 前伊予守正四位下。
◆藤原為光 平安時代中期の公卿・藤原為光(ふじわら-の-ためみつ、942-992)。諡は恒徳公、後一条太政大臣、法住寺太政大臣。藤原師輔(もろすけ)の9男、母は雅子内親王(第60代・醍醐天皇第10皇女)。伊尹は異母兄。970年、参議、973年、従三位、権中納言、975年、中納言になり、977年、従二位、大納言に昇る。984年、春宮大夫として仕えた居貞親王(第65代・花山天皇)が即位し、娘・忯子(しし)を入内させる。985年、忯子が急逝し、986年、花山天皇は出家した。(寛和の変)。右大臣に任じられる。987年、従一位に進む。988年、妻、娘の死を悼み法住寺を建立した。991年、太政大臣になる。日記『法住寺相国記』。51歳。
 贈正一位。邸宅の一条院は姪・詮子に相続された。
◆東三条院 平安時代中期-後期の女御・東三条院(ひがしさんじょういん、962-1001)。藤原詮子(せんし/あきこ)。太政大臣・藤原兼家の娘、母は藤原時姫。幼少期を東三条殿で過ごす。978年、第64代・円融天皇の女御になり、980年、従四位下に叙せられる。東三条邸で懐仁親王(第66代・一条天皇)を産む。だが、関白・藤原頼忠の娘・遵子に后の座を奪われ、父・兼家と共に里邸の東三条邸に篭り、天皇の召還にも応じなかった。986年、一条天皇の即位により、皇太后の宣下を受けた。991年、円融法皇が没し出家した。皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じ女院号の最初「東三条院」を授けられる。1001年、四十賀(よそじのが、40歳になった祝い)が行われた。別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で亡くなる。40歳。
 宇治陵(宇治市)に葬られた。
◆一条天皇 平安時代中期-後期の第66代・一条天皇(いちじょう-てんのう、980-1011)。第64代・円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘・東三条院詮子(せんし)。984年、従兄・花山天皇の皇太子になり、詮子の父・兼家らの謀により、第65代・花山天皇が内裏を抜け出家したため、986年、7歳で即位した。(寛和の変)。兼家が摂政になり執政し、その死後は子・道隆、その弟・道兼が摂関になる。後、その弟・藤原道長が内覧の関白になり権勢を振るう。1000年、中宮に道隆の娘・定子がいたが、道長は皇后とし、道長の娘・彰子(しょうし)を入れて中宮とし、「一帝二后」という前例のない事態になる。彰子は、第68代・後一条天皇、第69代・後朱雀天皇を産む。天皇は、1011年、病により退位、出家した。
 文芸、音楽に秀で笛を能くした。宮廷女性文学の最盛期にあり、紫式部、清少納言らの女房が後宮で活躍した。32歳。
 陵墓は円融寺北陵になる。
◆後一条天皇 平安時代後期の第68代・後一条天皇(ごいちじょう-てんのう、1008-1036)。敦成(あつひら) 。京都の生まれ。第66代・一条天皇の第2皇子。母は藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ、上東門院)。土御門殿で誕生した。1008年、道長の意により一条天皇皇太子・敦康(あつやす)親王ではなく、外孫・敦成親王が第67代・三条天皇の皇太子になる。1016年、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、9歳で即位した。敦良(あつよし)親王(第69代・後朱雀天皇)が皇太子になる。摂政は外祖父・道長による。1年ほどして、道長の長男・頼通(よりみち)が摂関になる。1018年、道長の意により、11歳で道長の娘・叔母・威子(いし)が入内し皇后になる。天皇は珍しくほかの妻を持たなかった。この時、道長の3人の娘が同時に后位に就く。ほかに、太皇太后(一条天皇中宮彰子)、皇太后(三条天皇中宮・妍子(けんし)になる。(天下三后)。威子の中宮になった祝いの宴で道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだ。1019年、刀伊の入寇(といのにゅうこう)、1028年、下総で平忠常が乱が起こる。1036年、高倉殿で亡くなった。29歳。
 陵墓は菩提樹院陵(左京区)になる。
◆後朱雀天皇  平安時代中期の第69代・後朱雀天皇(ごすざく-てんのう、1009-1045)。敦良(あつなが)、法名は精進行。京都の土御門殿で生まれた。第66代・一条天皇の第3皇子、母は太皇太后・彰子(上東門院、藤原道長の娘)。生後1カ月余で親王宣下を受けた。1017年、三条院の皇子・敦明親王の東宮辞退後、9歳で同母兄・第68代・後一条天皇の皇太弟になる。1021年、道長の娘・嬉子(よしこ)が敦良親王に入る。1025年、嬉子は親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産み、直後に亡くなる。1036年、後一条天皇が没し、践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、28歳で即位した。彰子の弟・藤原頼通が引き続き関白になる。1037年、三条天皇皇女・禎子内親王(母は道長の娘・妍子)を皇后にし、関白頼通の養女・嫄子(一条天皇皇子・敦康親王の娘)を皇后とした。1040年、荘園整理令を発議した。1045年、病により皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位した。頼通の反対を押し切り、尊仁(たかひと)親王(第71代・後三条天皇)を皇太弟に定め、院政への道を開く。1055年、天皇の御願により、円教寺内に新堂として円乗寺が創建された。
 藤原氏の全盛期で、政治の主導権は道長から子・頼通に引き継がれた。すでに摂関家の全盛期は過ぎていた。興福寺、延暦寺の僧徒が強訴し、京中では放火が頻発した。『後朱雀天皇御記(長暦御記)』を著した。京都で没した。37歳。
 火葬塚(北区)がある。陵墓は円乗寺陵(右京区)になる。
◆後冷泉天皇 平安時代中期の第70代・後冷泉天皇(ごれいぜい-てんのう、1025-1068)。名は親仁(ちかひと)。第69代・後朱雀天皇の第1皇子。母は贈皇太后・藤原嬉子(きし)(太政大臣・道長の娘)。母は出産直後に亡くなる。1036年、12歳で親王宣下を受ける。1037年、立太子、1045年、父の死に伴い21歳で即位した。兄・藤原頼通が引き続き関白になり専権する。1051年、陸奥で豪族が反乱した前九年の役が起こる。1055年、御願により円乗寺が建立された。1067年、浄土思想の広まりにより、藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸した。3日間滞在し、頼通を准三宮に叙した。封300石などを授けた。高陽院(かやのいん)中殿で亡くなる。
 後冷泉天皇天皇を最後に、100年間続いた摂関政治は弱体した。新立荘園停止の気運が高まる。妃に第68代・後一条の皇女・章子内親王、頼通の娘・寛子、教通の娘・歓子が入った。だが、いずれも子に恵まれず、藤原氏は外戚の地位を失う。日記に『後冷泉院御記』19巻(遺されていない)。『後拾遺集』『金葉集』などに入歌。44歳。
 陵墓は円教寺陵(右京区)になる。
◆藤原道長 平安時代中期-後期の公卿・藤原道長(ふじわら-の-みちなが、966-1028)。御堂殿、法成寺殿。藤原氏北家の関白・太政大臣・藤原兼家の5男、母は藤原中正の娘・時姫。幼少期を東三条殿で過ごした。986年、父・兼家が第66代・一条天皇の摂政になり、987年、従四位から従三位になる。左大臣・源雅信(宇多源氏)の娘・倫子(正妻)と結婚する。988年、左大臣・源高明(醍醐源氏)の娘・明子(本妻)と結婚した。991年、権大納言に任じられる。995年、兄の関白道隆・道兼が相次ぎ疫病により没し、道隆の子・内大臣・伊周(これちか)と後継争いをする。姉・詮子(東三条院)の支援により内覧、右大臣、氏長者になり政権の首座に就く。996年、伊周の失脚により左大臣に昇る。1000年、長女・彰子が一条天皇の中宮として後宮に入り、一帝二后の制を始めた。1005年、祖先供養のために、宇治木幡に法華三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建てる。1012年、2女・妍子(よしこ)を第67代・三条天皇の中宮とした。1016年、彰子が産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位に際し、道長は1年ほど摂政に就く。1017年、摂政を嫡子・頼通に譲り、実権は握り続ける。従一位、太政大臣になる。皇太子・敦明親王(三条天皇第1皇子)の辞退を図り、彰子の産んだ敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太弟とした。1018年、太政大臣を辞した。娘・威子が後一条天皇の中宮、その同母妹・嬉子が皇太弟(後朱雀天皇)の妃になる。道長は「望月の歌」「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠む。1019年、院源を戒師とし出家し、行観(すぐに行覚に改め)と称した。1020年、篤く仏教に帰依し、土御門殿の東に阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺(御堂)を造営した。1025年、娘・嬉子が親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産んで亡くなり、1027年、娘・妍子(三条天皇中宮)も相次いで亡くなる。この頃、道長は背中にできた癰(よう)に苦しむ。1028年、最期は、法成寺の九体阿弥陀堂に病床を移し、顔を西方浄土に向けて亡くなる。23年にわたって日記をつけ、後に『御堂関白記』と名付けられた。62歳。
 政治家としての優れた政策はなく、関白には就任していない。娘4人の彰子(一条天皇中宮)、妍子(三条天皇皇后)、威子(後一条天皇皇后)、嬉子(後朱雀天皇妃)、盛子を入内させた。3天皇の外戚になり、「一家に三后」を成し、藤原氏全盛の摂関を築く。詩、歌に優れ、漢詩は『本朝麗藻』、和歌は『後拾遺集』以下の勅撰集に入る。中宮・彰子の側近に才媛の女房を集めた。紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を持つ。道長については『大鏡』、『栄花物語』に記されている。平安京内に土御門第、東三条殿、枇杷殿、二条殿、一条殿など豪邸を構えた。
 遺骸は愛宕郡の鳥倍野で荼毘に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。現在は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原彰子 平安時代中期-後期の中宮・藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長の長娘、母は源雅信(まさのぶ)の娘・倫子(りんし)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。
 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(973頃?-1014頃?)、和泉式部(976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。
 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。
◆一条院
 平安時代中期に、この地に里内裏の一条院(平安京左京北辺二坊一町・四町跡)が置かれた。平安京北東に隣接していた。一条南、中立売北、堀川西、大宮東になる。
 この地に、藤原師輔(908-960)の子・伊尹(これただ、924-972)の邸宅があり、その死後に異母弟・為光(942-992)に引き継がれた。後、佐伯公行(?-?)が、為光の娘・寝殿の上から8000石で購入している。公行は一条院を姪・東三条院(第64代・円融天皇の女御・藤原詮子、962-1001)に献上した。
 東三条院は子・第66代・一条天皇(980-1011)の御所として修造する。里内裏になる。内裏は東西2町あり、西側1町が御所として用いられた。東側に別納(べつのう)があり、財政、物資を調達を担当した。999年の内裏焼失後、一条天皇の仮皇居になる。内裏の再建後も一条天皇は主な居所として使用した。
 東の別納は藤原道長(966-1028)、その子・中宮彰子(一条天皇の皇后、988-1074)の直廬(じきろ、内裏にあり、摂関・大臣・大納言などの宿直・休息所)の宿泊所に使用された。彰子に仕えた紫式部(973頃?-1014頃?)は一条院にあり、日記中に内裏として描いている。
 その後、平安時代後期1011年まで第68代・後一条天皇(1008-1036)、第69代・後朱雀天皇(1009- 1045)、第70代・後冷泉天皇(1025-1068)の里内裏として使用された。
 平安時代後期、1058年に焼失している。その後については詳細不明。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の源氏物語ゆかりの地の説明板、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 一条院跡 〒602-8238 京都市上京区梨木町 名和児童公園   
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