大将軍神社 (京都市東山区) 
Taishogun-jinja Shrine
大将軍神社 大将軍神社
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拝殿











本殿


本殿





ご神木のイチョウの大木


 大将軍神社(たいしょうぐん-じんじゃ)は、「東三条社」とも称される。 
 主祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)、相殿に平安時代の関白・藤原兼家(ふじわら-の-かねいえ)を祀る。
 方除け、安産の神として信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、794年、平安京造営の際に、第50代・桓武天皇が大内裏鎮護のために、都の四方四隅に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つとされる。「南大将軍」ともいわれたという。素戔鳴尊の四方の和魂(にきたま/にぎみたま)を「大王」といい、四隅の荒魂(あらたま/あらみたま)を「大将軍」といったともいう。この地は、京の七口の一つ三条口の要地に当たり、邪霊の侵入を防ぐ意味で重要視されていた。
 1077年、「東三条ノ森」「鵺(ぬえ)の森」に、第72代・白河天皇により建立された六勝寺の一つ、法勝寺の鎮守社として大将軍社が祀られていたともいう。
 現代、2018年、9月、台風21号により拝殿が倒壊した。
◆藤原兼家 平安時代中期の公卿・藤原兼家(ふじわら-の-かねいえ、929-990)。法興院(入道)、東三条殿、法号は如実。藤原師輔の3男。母は武蔵守藤原経邦の娘・盛子。同母弟に道兼、子に道長。968年、兄・兼通を超えて従三位、蔵人頭になり、969年、参議を経ずに中納言になる。左大臣・源高明が失脚した安和の変が起きた。970年、右大将、972年、大納言になる。長兄・伊尹(これただ)の没後、兄・兼通は内大臣関白になり、兼家は右大将のままだった。977年、兼通は臨終にあたり従兄・頼忠を関白とし、兼家を治部卿に左遷した。978年、兼家は、頼忠の恩恵により右大臣に任じられた。986年、第64代・円融天皇の女御・詮子(せんし)(兼家の娘)の子・懐仁親王(第66代・一条天皇)を帝位に就けるため、第65代・花山天皇の譲位を画策した。外孫である一条天皇の即位により頼忠は太政大臣、兼家は右大臣摂政になる。兼家は右大臣を辞し、三公之上に列せられ摂政のみになる。摂政が初めて独立し強い権威を持つ。東宮には娘・超子が産んだ第63代・冷泉天皇皇子の居貞親王(第67代・三条天皇)がなった。989年、頼忠の死後、兼家は太政大臣、990年、関白になる。病のために出家し、関白を子・道隆に譲る。その後、亡くなる。62歳。
 従一位。一条天皇即位の後、外祖父として摂政、関白太政大臣になり権力を振るう。以後、摂関はその子孫に限られた。9人の妻がおり、道長らの母・時姫、『蜻蛉日記』を著した道綱の母などがいる。豪邸の東三条第、二条京極第を営んだ。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原道綱母 平安時代中期の歌人・藤原道綱母(ふじわらの-みちつなの-はは、936-995)。藤原倫寧(ともやす)。母は藤原春道、源認(みとむ)の娘とも。傅(ふの)大納言母、傅殿母などとも呼ばれた。才色兼備、「本朝第一三美人」の一人といわれた。954年、19歳で藤原兼家と結婚し、955年、道綱を産む。兼家にはすでに正妻・時姫(藤原道長の母)がいた。967年、兼家邸近くに移る。973年、中川に移る。夫に疎んじられた20年の歳月を綴った『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として知られる。中古三十六歌仙の一人で、『拾遺和歌集』などに入集。60歳。
 夫に見捨てられ、伏見稲荷、石山寺、賀茂神社、鳴滝・般若寺などに参籠したという。
◆大将軍社 大将軍はかつて古代中国からもたらされた。日本の陰陽道では、金星(太白星)に関連する星神とされ、四方を司る神とされた。大将軍は3年ごとに移動するとされ、12年で一巡し四方を正す。その間、その方角で事を行うと「三年塞がり」と呼ばれた。凶になると怖れられた祟り神であり、諸事が忌まれた。ただ、遊行日が定められており、その間は凶事が回避されるといわれた。
 平安京には、都の四方に守護神の大将軍神社が置かれている。東は東三条大将軍社(大将軍神社)、西は大将軍八神社、南は藤森神社境内の大将軍社、北は今宮神社境内の大将軍社、あるいは西賀茂大将軍神社をいう。
 江戸時代以前には大徳寺門前にもあり、今宮神社に遷されたともいう。異説もある。また、かつて祇園社境内にもあったともいう。以後、大将軍信仰は全国的に広まる。平安時代中期-鎌倉時代に盛んになり、天皇から庶民にいたる信仰を集めた。
◆東三条殿 平安時代の公卿・藤原兼家(929-990)の東三条殿は、この周辺(裏)にあったという。西対を清涼殿造にし、西北隅には清水を湛える小池があったという。
 屋敷は、平安時代の1156年の保元の乱、室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。その子、関白太政大臣・藤原道長(966-1028)は、父・兼家の神像画を合祀し、東三条殿の鎮守とした。
 現在、境内に東三条社が鎮座している。
◆鵺の森 かつて一帯は「東三条ノ森」「鵺(ぬえ)の森」とも呼ばれていた。岡崎より三条粟田口を結ぶ南北の鳥居大路(岡崎広道)の西付近ともいう。森には平安時代、1077年に第72代・白河天皇により建立された法勝寺の鎮守社という大将軍社が祀られていたという。「大将軍ノ森」とも呼ばれていたという。
 平安時代末期の武将・源頼政(1104-1180)にまつわる鵺(ぬえ)退治伝説も生まれた。
 鵺は頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミのような不気味な声で鳴いたという。平安時代末、第76代・近衛天皇は、毎夜丑の刻に、清涼殿に現れた「もののけ」に怯え病いになった。頼政が召され、夜を待って東三条の森に出かけたという。夜更けになり、月夜に黒雲が覆う。頼政が八幡大菩薩を祈り、矢を射て鵺を落とした。家臣の猪早太がとどめを刺したという。
◆鵺 鵺は「頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎」(『平家物語』)、また「頭は猿、胴は虎、尾は狐、足は狸」(『源平盛衰記』)ともいわれた。
 実際には、ツグミ科のトラツグミ(体長30cm)という鳥であり、京都でも深い森に生息していた。ミミズ、昆虫などを捕食する。繁殖期(春-夏)の夜に「ヒー、ヒョー」と不気味な声で鳴く。曇りや雨の日にも鳴き、人目に触れることはほとんどないという。生息数は減っている。
◆自然 境内には、樹齢800年というイチョウの巨木がある。
◆年間行事 大祭(5月15日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都府の不思議事典』、『平安の都』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『週刊 京都を歩く 38 御室』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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大将軍神社 〒605-0019 京都市東山区長光町640,三条大橋東三丁目下ル 
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