仲恭天皇 九条陵 (京都市伏見区)  
Imperial mausoleum of Emperor Chukyo
仲恭天皇 九条陵 仲恭天皇 九条陵
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「九條陵 月輪南陵 参道」の石標


「仲恭天皇御陵兆域原標」の石標










「仲恭天皇 九条陵」の石標


参拝道石畳、京都市街地の西の眺望

鳥羽伏見戦防長殉難者墓


鳥羽伏見戦防長殉難者墓、燈籠



「右 維新戦役 防長藩士之墓道標」の石標
 東福寺の南東の山頂に九条陵(くじょう-の-みささぎ)がある。
 鎌倉時代前期の第85代・仲恭天皇(ちゅうきょう-てんのう)を葬る。
◆歴史年表 鎌倉時代、1234年、5月20日、仲恭天皇は九条院で亡くなる。
 江戸時代、1697年-1699年、元禄の修陵では、陵墓地は不明とされた。
 近代、1889年、6月、仲恭天皇が譲位後に住んだ九条殿跡に陵墓地が決定され葬られた。
◆仲恭天皇 鎌倉時代前期の第85代・仲恭天皇(ちゅうきょう-てんのう、1218-1234)。懐成(かねなり)。京都の生まれ。父・第84代・順徳天皇、母・九条良経の娘の中宮・立子(りっし)(東一条院)の第1(3/4とも)皇子。1218年、立太子。1221年、4月、父・順徳天皇は討幕計画参加のために譲位した。懐成親王は、4歳で践祚(せんそ)した。5月、承久の乱が起こる。天皇は、三種の神器を閑院内裏に置いたまま、九条第に逃れたという。即位礼、大嘗会も行われなかった。伯父・左大臣・九条道家が摂政になる。7月、在位80日足らずで、幕府北条氏により廃された。守貞親王 (後高倉院) の第3皇子・茂仁(とよひと) 親王( 第86代・後堀河天皇)に譲位した。このため「半帝」、「九条廃帝」などと呼ばれ、歴代天皇に加えられなかった。九条院(九条殿)で亡くなり、埋葬されたという。17歳。在位最短の天皇になる。
 1870年、仲恭天皇と追諡されている。陵墓は九条陵(東山区)になる。
◆陵墓 小高い山の頂に円丘がある。ほぼ西面している。
 鎌倉時代、1234年、仲恭天皇は九条院(九条殿)で亡くなる。天皇の陵所について、記録が残されておらず不明とされた。九条殿に埋葬されたとみられている。
 江戸時代、1697年-1699年の元禄の修陵では、陵墓地は不明とされた。
 近代、1889年6月に、仲恭天皇が譲位後に住んだ九条殿跡とされる現在地に陵が決定され葬られている。
 なお、東山町陵墓参考地(東山区本町)は、仲恭天皇は「当該御方」と記されている。(『陵墓参考地一覧』)。江戸時代には「廃帝塚(はいていづか)」(塚本社境内、東山区)を仲恭天皇陵墓と推定している。平塚瓢斎『陵墓一隅抄』)
◆鵺塚・秘塚
 現在の岡崎グランド(左京区)は、最勝寺跡といわれている。かつて、場内中央に方墳の「鵺塚(ぬえづか)」、場内東南隅に「秘塚(ひめづか)」といわれる墳墓があった。
 近代、1894年、宮内庁は、前者を鎌倉時代の後高倉太上天皇(1223-1179)の陵墓参考地、後者は後高倉院の第1皇女・利子(りし)内親王(式乾門院)(1197-1251)の陵墓参考地とした。1992年に発掘調査が行われている。
 現代、1955年、京都市によるグランドの整備工事に伴い、鵺塚、秘塚の発掘調査された。六勝寺創建以前の火葬跡ともされた。何らかの祭祀に使われていたとみられている。その後、塚は削られ、遺物は仲恭天皇陵に埋納された。
◆承久の乱 鎌倉時代前期、1221年に起きた承久の乱(じょうきゅう-の-らん)は、朝廷と鎌倉幕府との争乱になった。後鳥羽上皇(第82代)は、以前より公家勢力の回復を図り、鎌倉幕府打倒の機をうかがっていた。
 1198年、上皇は院制を始める。1199年に初代将軍・源頼朝が亡くなり、有力御家人が相次いで反抗し幕府内が混乱した。1219年、朝廷重視に傾いていた3代将軍・源実朝の暗殺事件が起きる。犯行は、実朝の甥・公暁(実朝の兄・実朝の子)による。上皇は幕府の内紛に乗じ、1221年5月15日に2代執権・北条義時の追討(誅殺)命令を発し挙兵した。上皇軍は畿内周辺の武士・在京中の御家人1万9000騎が応じた。幕府軍は19万騎が東海道(10万)・東山道(5万)・北陸道(4万)の3方面に分かれ京都に進軍した。
 幕府軍は北条政子・義時を中心に固く結束し、朝廷方は瀬田・宇治の戦いなど要所で敗れた。1カ月後の6月15日に上皇は謀臣に欺かれたとの院宣を出して降伏している。幕府は第85代・仲恭天皇の廃位、後鳥羽上皇・土御門上皇(第83代)・順徳上皇(第84代)の3上皇も配流にした。上皇らの荘園3000余が没収され、以後、朝廷の財政基盤は揺らぐ。朝廷方公卿・武士の所領も没収され、新補地頭が設置される。1319年-1322年頃に、幕府は朝廷監視のために六波羅探題の設置などを行った。
 以後、公家政権は衰え、北条氏執権体制が進展した。幕府の勢力は一挙に西国にも拡大し、全国制覇の基礎を固めた。
◆鳥羽伏見戦防長殉難者墓 陵の西隣、一段下に鳥羽伏見戦防長殉難者墓がある。
 江戸時代末、1868年正月、鳥羽・伏見の戦いで戦死した長門萩藩士・石川厚狭介ほか、長州藩、支藩の藩士(防長藩士)48人の墓石が立つ。
◆石川厚狭介 江戸時代後期の武士・石川厚狭介(いしかわ- あさのすけ、1843-1868)。長門萩藩士。1863年、奇兵隊に入隊した。1866年、幕長戦争(第2次長州征伐)では、中隊司令として石見・浜田城を攻略した。1868年、鳥羽・伏見の戦いで戦死した。26歳。


84 順徳天皇(在位:1210-1221)→85 仲恭天皇(在位:1221-1221)→86 後堀河天皇(在位:1221-1232)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『歴代天皇年号事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『地図で読む 京都・岡崎年代史』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 仲恭天皇 九条陵 京都市伏見区深草本寺山町
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