安楽寿院・鳥羽離宮跡 (京都市伏見区)
 Anrakuju-in Temple 
安楽寿院・鳥羽離宮跡 安楽寿院・鳥羽離宮跡 
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太師堂






薬師堂


薬師堂


薬師堂




書院の庭園


『明月記』(『愚記』)断片








三宝荒神社






宝篋印塔





三如来石仏



三如来石仏




冠石、鳥羽天皇が法皇となった際にこの地に冠を埋めたという。


鳥羽離宮の想像図、案内版より

鳥羽離宮の想像図(京都市平安京創生館)、中央やや右に田中殿、展示パネルより

鳥羽離宮跡出土瓦、平安時代後期、案内板より


【参照】鳥羽離宮の金剛心院跡の鬼瓦軒瓦(京都市平安京創生館)


【参照】鳥羽離宮の金剛心院跡の鬼瓦(京都市平安京創生館)







安楽寿院出土の石、石の多くは高野川流域、和歌山県周辺部より運ばれた和泉砂岩、緑色片岩など。


【参照】五輪塔


【参照】京都国立博物館


【参照】京都国立博物館に屋外展示されている平安時代後期、石造阿弥陀三尊像。伏見区竹田町付近で出土したという。安楽寿院蔵。
 鳥羽の安楽寿院(あんらくじゅいん)は、平安時代後期に造営された鳥羽離宮の東方に位置し、かつては東殿、泉殿が建てられていた。
 院政時代(第72代・白河天皇、第74代・鳥羽天皇、第77代・後白河天皇の約100年)に、この地に建立された寺院だった。 
 新義真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来坐像。美福門院、鳥羽法皇、八条女院も祀る。
◆歴史年表 平安時代末期、1086年、藤原季綱が第72代・白河天皇に鳥羽山荘を献上した。その御願により、別業として鳥羽殿(南殿)を建立したことに始まる。
 1087年、鳥羽南殿が建てられた。
 1137年、鳥羽上皇(第74代)の発願により、「鳥羽離宮」(鳥羽殿)東殿の御堂(東殿御堂)、またその一部として建立された。阿弥陀三尊を安置する。当初は東殿御堂と呼ばれた。落慶法要は、覚法法親王を導師にしたという。
 1139年、鳥羽上皇の墓所として三重塔(本御塔、ほんみとう)が建立される。権中納言・藤原家成の寄進による。塔下に法華経を納め、地鎮として自らの塔所に定めた。第一層の須弥檀上に等身大の阿弥陀如来坐像が安置された。以後、多くの荘園(安楽寿院領)が寄せられる。
 1143年、「安楽寿院」の院号の初見になる。
 1147年、阿弥陀堂(桁行11間)の供養が行われる。仏師・法印長円作の9体の丈六阿弥陀像を安置した。
 1148年、鳥羽上皇は、宸筆「法華経」8巻を石函に入れ、三重塔刹柱の下に納める。
 1152年、鳥羽離宮内に田中殿が建てられた。
 1155年、不動堂(1間4面)の供養が行われる。康助法橋作の丈六不動明王像を安置していた。
 1156年、鳥羽上皇没後、その希望に従い、棺は御所より網代車で三重塔まで運ばれた。第一層須弥檀に埋葬される。本御塔(現在の鳥羽天皇安楽寿院陵の前身)と呼ばれた。
 1157年、皇后・美福門院(1117-1160)の葬所のために新御塔(しんみとう)が建てられる。
 1160年、皇后・美福門院の没後、遺言に従い、遺骨は高野山に葬られる。当院の新御塔三昧僧は分骨のために訴訟を起こした。
 1163年、新御塔(現在の近衛天皇安楽寿院南陵の前身)に、第76代・近衛天皇の骨灰が洛北・知足院本堂より塔に改葬される。
 院政期(第72代・白河天皇、第74代・鳥羽天皇、第77代・後白河天皇の約100年)に大いに栄え、14世紀(1301-1400)頃まで院御所として使用された。創建時-鎌倉時代までの最盛期には、北は茨城、南は熊本にまで至る32カ国63所に所領を有していた。
 1179年、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。
 鎌倉時代、1296年、焼失している。
 南北朝時代、1363年、焼失した。南北朝の内乱期以後、寺領の多くを失い急速に荒廃した。
 室町時代、1548年、新御塔を除く本御塔、御堂、九体阿弥陀堂、不動堂が焼失した。
 安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉が500石を寄進する。
 1596年、慶長伏見大地震により被災し、仏堂、本御塔、新御塔が失われる。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、豊臣秀頼により、新御塔に付属した前松院が安楽寿院として再興された。
 江戸時代、徳川家康、幕府は、幕末期まで朱印地を寄進している。
 1606年、1608年とも、豊臣秀頼は、普請奉行・片桐且元に命じ多宝塔を再建した。
 享保年間(1716-1736)、西にあった成菩提院跡より三面の三尊石仏が出土し、当院に遷されたという。
 1864年、法華堂が再建された。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いで、官軍(薩摩軍)の本営になる。兵火は免れた。
 幕末-近代、荒廃した。神仏分離令後の廃仏毀釈により、塔頭・末寺十二院五坊、伽藍の多くを失う。本御塔が再建される。本御塔、新御塔は宮内庁の管轄になった。維新後の上地により多くが失われた。
 現代、1958年以降、高速道路の開発に伴い発掘調査が行われる。
 1960年以降、鳥羽離宮の発掘調査が行われている。
 1961年、第2室戸台風などで倒壊し、その後再建された。
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ-てんのう、1053-1129)。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背き、1086年、8歳の子・善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行った。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。「治天の君」といわれた。院御所は主に六条院とした。200カ所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。西三条殿内裏で亡くなる。77歳。
 衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。
◆鳥羽天皇 平安時代後期の第74代・鳥羽天皇(とば-てんのう、1103-1156)。父は第73代・堀河天皇、母は贈太政大臣・藤原実季の娘・苡子。1103年、堀河天皇の東宮になる。1107年、即位するが、祖父・白河法皇による院政がしかれた。 1123年、子・顕仁(第75代・崇徳天皇)に譲位し、鳥羽離宮を居所にした。1129年より、崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたり院政を行う。また、荘園公領制を確立させた。1141年、出家し、御願寺の造営、熊野参詣は23回行う。1149年より、第76代・近衛天皇の即位は、皇位継承をめぐる皇統内部の対立になり、鳥羽天皇の没後、1156年、保元の乱が起きた。54歳。
 安楽寿院内の陵墓に葬られた。
◆美福門院 平安時代の鳥羽上皇皇后・美福門院(びふくもんいん、1117-1160)。名は得子(なりこ)。父は藤原長実、母は源俊房の女方子。1123年、鳥羽天皇の譲位後、寵を得て1139年、女御になり、1141年、皇后になる。皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)を生後3カ月で皇太子に立て、1142年、崇徳天皇を譲位させ3歳の皇太子を皇位に就かせた。1149年、美福門院の院号宣下を被って女院になる。1156年、落飾し真性定と号した。近衛天皇陵は当初、鳥羽上皇が美福門院のために造営したが、美福門院は高野山に葬られた。44歳。
◆近衛天皇  平安時代後期の第76代・近衛天皇(このえ-てんのう、1139-1155)。鳥羽天皇皇子。母は藤原得子(美福門院)。1142年、異母兄の崇徳天皇の譲位後3歳で即位した。だが、父・鳥羽上皇が院政を行う。夭折し、安楽寿院内の陵墓に葬られた。17歳。
◆覚猷 平安時代後期の天台僧・覚猷(かくゆう、1053-1140)。鳥羽僧正。1053年、源隆国の第9子。若くして出家し、園城寺で天台仏教・密教を修め、画も描く。園城寺法輪院に住し、絵を描き密教図像の集成と絵師の育成した。四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏を歴任する。1132年、僧正、1134年、大僧正。1138年、47世天台座主に就くが3日で退任し、帰依した鳥羽上皇の鳥羽離宮・証金剛院へ移り、離宮の護持僧になる。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。作品として「鳥獣人物戯画」(鳥獣戯画)」「放屁合戦」「陽物くらべ」などがある。確定されていない。87歳。
◆仏像 ◈ 阿弥陀堂安置の平安時代末期作、本尊の「阿弥陀如来坐像」(87.6㎝)(重文)は定印を結ぶ。胸に小さな「卍」字相が刻まれており、「卍字阿弥陀仏」と呼ばれる。鳥羽天皇の念持仏であり、かつては三重塔(本御塔)内に安置されていたとみられている。円派仏師(賢円、長円ら)作とみられ、面相部、胴部が長めになっている。螺髪は極めて細く、両眼はわずかに見開く。相好は円く穏やか、体躯も整い、衣褶は薄手に彫り出されている。頭部、体部は前後二材を寄せ、頭部で割り接ぎ、膝前に材を接ぐ。像内は内刳りしている。像内頭部より下に金箔押しする。定朝様。光背と台座は室町時代、1553年、1554年に修理されている。光背は二重円相、周縁に透かし彫り、台座は九重の蓮華座。寄木造、木造、桧材、漆箔。
 ◈ 「大日如来坐像」は、鎌倉時代作、慶派仏師作という。塔頭・前松院の内仏堂の本尊だった。
 ◈ 本堂に、弘法大師像、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏も安置されている。
 ◈ 太師堂に、本尊の弘法大師像、大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天などの旧塔頭の仏像も安置されている。
◆建築 ◈ 「本坊(書院・庫裏)」は、塔頭・前松院(ぜんしょういん)を基にしている。江戸時代、1795年、寛政年間(1789-1801)の建立による。
 ◈ 「太師堂」は、安土・桃山時代、1596年の建立による。伏見の大地震により新御塔が倒壊した。その後、一時しのぎに再建されたという。後、勤行堂になり、現在地へ移築され、大師堂になる。
 ◈ 「新御塔」は江戸時代、1608年に豊臣秀頼により復興された。
 ◈ 「薬師堂」は、1958年に再建された。
 ◈ 「阿弥陀堂」は、台風による倒壊後、1959年に建立された。本尊・阿弥陀如来像(重文)を安置する。
 ◈ 「鐘楼」は、江戸時代、1606年、1608年とも、豊臣秀頼による大修復の際に建立された。柱、梁にのみ当時の材を残している。
 ◈ 「三宝荒神社」は、江戸時代、1606年の建立による。火災に遭わないことを願って勧請された。火難消除の神。
◆文化財 三幅一対の「鳥羽法皇御影」、皇后の「美福門院御影」、皇女の「八条女院御影」は、安土・桃山時代-江戸時代作になる。
 『明月記 断片』(『愚記』)には、安楽寿院が登場する。鎌倉時代の公家・藤原定家(1162-1241)の日記(1180-1235)になる。
 平安時代の絹本著色「孔雀明王像」(重文)。
 鎌倉時代の絹本著色「普賢菩薩像」(重文)、国立京都博物館寄託 。
 平安時代(13世紀前半)の絹本著色「阿弥陀二五菩薩来迎図(阿弥陀聖衆来迎図)」掛幅装(重文)は、阿弥陀が転法輪印を結び、七尊、八菩薩、不動、毘沙門などが描かれた来迎図になる。115.6×74.3cm。国立京都博物館寄託。
 「十二天屏風」は、江戸時代、1651年に木村徳応が東寺の「十二天屏風」を模写した。
 「梵鐘」は、江戸時代、1692年に鋳造された。
◆石造物・石仏 ◈ 境内の石造「五輪塔」(重文)は、鎌倉時代、「弘安十年(1287)」の銘が刻まれ、願意による。在銘のものとして貴重という。古くは「妙法経塚」と呼ばれ、阿弥陀信仰により、この地に鳥羽上皇が妙法経を埋めたという。花崗岩製、3m。国立京都博物館寄託。
 ◈ 「三如来石仏」が2面ある。江戸時代、享保年間(1716-1736)、境内の西にあった成菩提院跡より三面の三尊石仏が出土し、当院に遷されたという。平安時代の作で切石、右に釈迦三尊、釈迦、弥陀(普賢菩薩とも)、薬師三尊が彫られている。舟形光背、蓮座。凝灰岩製、1m。
 左に平安時代作の薬師三尊、薬師、日光、月光菩薩が彫られている。かつて石仏を削り、水で練り、子どもの顔に塗るとクサが治るとされた。凝灰岩製、1m。
 ◈ 平安時代後期の「石造阿弥陀三尊像」は伏見区竹田町付近で出土したという。現在は、京都国立博物館に屋外展示されている。
◆庭園 枯山水式庭園は、苔地に飛石、蹲踞、燈籠、植栽が配されている。
◆塔頭 近世初頭、塔頭として本御塔に前松院、玉蔵院、金蔵院、宝珠院、福音院、慈尊院が付属した。
 新御塔に、明照院、妙音院、千手院、遍照院、宝光院、大善院があった。
◆鳥羽 鳥羽は、かつて鴨川と桂川の合流点にあった。当時の鴨川は、東から南へ流れ、西に桂川が流れていた。この地には、巨椋(おぐら)池という広大な池(遊水地)があり、周辺の河川はこの池に注いでいた。鳥羽は、狩猟や遊興の地としても知られ、邸宅、寺院なども建てられた。
 平安時代初期、「鳥羽の作(造)り道(作道)」がこの地まで通じていた。北は、平安京の南北の朱雀大路につながった。作り道は、鳥羽殿建設以後に、「鳥羽西大路」とも呼ばれる。道は、さらに南、南西に延び、伏見区久我森ノ宮、山崎へ向かう「久我縄手」に通じた。
 「鳥羽の津」が設けられていた。陸路の山陽道と、京都、淀川、瀬戸内海へと通じる水運の要衝地だった。物資は川を遡り、この地で陸揚げされる。作り道により車、馬で平安京まで運び込まれた。鳥羽は平安京の南の玄関口にもなっていた。
 なお、巨椋池は1933-1941年に干拓され、消滅した。
◆鳥羽離宮 平安時代の鳥羽離宮は、この地にあった藤原季嗣の山荘が、白河天皇(1053-1129)に献上され、それがもとになっている。この譲位後の御所は、1086年に造営が始まる。
 鳥羽離宮の敷地は広大であり、建設は「都遷り」(『扶桑略記』、1086年の条)と形容される。あたかも、もう一度、遷都が行われたようだと噂された。離宮は、「鳥羽の水閣」、「城南の水閣」と呼ばれた。敷地は現在の京都市南区、伏見区にまたがり、180万㎡、東西1.5km、南北1kmあった。西は小枝橋、北は名神高速南インターチェンジ、東は安楽寿院、地下鉄竹田駅辺、南は離宮公園辺までを占めた。なお、当時の鴨川は鳥羽離宮の西を流れていた。
 鳥羽離宮には、1101年に建立された証金剛院(南殿)に、丈六の阿弥陀を安置する金堂があった。1109年に建立された三重塔、1111年に建立の多宝塔のある成菩提院があった。
 1137年に建立の御堂の安楽寿院(泉殿、東殿)には、1147年に建立の九躰阿弥陀堂、ほかに不動堂、閻魔堂などが建てられていた。1136年に勝光明院(北殿)が宇治平等院を模して建てられた。釈迦堂があった。1152年に建てられた寝殿のある田中殿は、離宮内の最後の御所になる。東西7間、南北3間、四方に庇が付いた。7棟以上の建物が南西から北東に雁行形に建てられていた。1153年に建立の御堂の金剛心院は、田中殿の南にあり、ほかの建物と回廊で繋がれていた。城南鎮守明神、馬場殿、御所、寝殿など、殿舎と寺院が混在する形で湖畔に建てられていた。庭園なども数多く築かれ、往来は船で行われていた。
 1179年、平清盛は「今様狂い」と称された後白河法皇(1127-1192)をこの鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉し、一時期院政を止めさせる。法皇は藤原氏、源氏、平氏らを操り、34年間にわたり院政をしいた。源頼朝は法皇を「日本国第一の大天狗」と評した。
 一時、貴族文化の栄華は、極楽浄土の再現とまでいわれる。だが、院政の衰微、武家政治の台頭、戦乱などにより次第に廃滅していく。
◆遺跡 ◈釈迦堂、九躰阿弥陀堂の発掘調査が行われた。低湿地の地盤強化のために、地面を掘り、石と粘土を交互に敷き詰めた石積基壇の基礎を築いて地盤の強化をしていた。
 園地は、自然の沼沢を利用して作庭されていた。汀の大石で荒磯、小石で洲浜を造っていた。
 ◈現在の安楽寿院付近の東殿跡の発掘調査では、園地が東西120m、南北130mあることが分かった。池の周囲に建物が配置されていた。西岸は九躰阿弥陀堂の基礎工事を兼ねて行われていた。北岸は、汀に玉石を敷き洲浜が造られていた。庭石を据えた穴、桜、柳の切株も残されていた。
 ◈1985年に勝光明院の推定地で発掘調査が行われた。勝光明院は、平等院を模して建てられたといわれている。
 園地の西岸の洲浜、池に面した阿弥陀堂の基壇南端が見つかった。引き続く、2000年の北隣での発掘調査で、平等院鳳凰堂の規模を凌駕していることが判明した。
◆保元の乱 平安時代、1156年、7月2日、鳥羽院は、安楽寿院御所で亡くなる。崇徳上皇は父の見舞いに訪れるが、近臣は面会を断る。夜、藤原公教、信西入道により葬儀は行われる。鳥羽殿に、美福門院、忠通、平盛兼、後白河上皇の里内裏・高松殿に源義朝らが集結していた。7月8日、初七日の法会が催される。7月9日夜、崇徳上皇はわずかの供を連れて密かに鳥羽田中殿を脱出し、白河北殿に移る。
 7月11日の後白河方の白河北殿への夜襲により戦闘が始まり、白河北殿は焼失する。7月13日、崇徳上皇は逃れた仁和寺御室で投降、後に讃岐に配流され亡くなる。
 この保元の乱は、皇位継承争いに、摂関家、平氏、源氏の武士が関わり、相互の複雑な人間関係が絡んだ。以後、武士が政治に台頭する。
◆巨椋池 巨椋池は、弥生時代に生まれたと見られている。南山城、大和での開発により、山林の樹木が乱伐された。山が荒廃し、土砂流入により池が誕生した。
 


※「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『遺跡から見た京都の歴史』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都古社寺辞典』、『京都・山城寺院神社大事典』、『仏像』、『平安京散策』、『平安の都』、『京都・美のこころ』、『社寺』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都大事典』、『京都の地名検証 2』、『京都 阿弥陀の寺と庭』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『京都まちかど遺産めぐり』、『あなたの知らない京都の歴史』、『平成28年度春期 拝観の手引』、『京都時代MAP 平安京編』、『京都を歩く 41 伏見・大山崎』、『掘り出された京都』、京都市平安京創生館、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、『京都国立博物館 建築/庭園ガイド』、ウェブサイト「コトバンク」


近衛天皇 安楽寿院南陵   白河天皇 成菩提院陵   鳥羽天皇 安楽寿院陵  城南宮  小枝橋    白河北殿跡・保元の乱跡  高松神明神社・高松殿跡  羅生門跡・矢取地蔵尊  土御門内裏跡  関連歴代天皇データ      

【参照】鳥羽離宮金剛心院の庭園遺構(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所)、説明板より
【参照】鳥羽離宮跡より出土した神像(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)

【参照】鳥羽離宮跡より出土した風招(ふうしょう)(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)

【参照】鳥羽離宮跡より出土した和琴(わごん)(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)

【参照】鳥羽離宮跡より出土した木製呪符(左)、木製塔婆など(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)

【参照】鳥羽離宮跡より出土した懸仏(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵)

【参照】白河・鳥羽法皇院政之地の碑

【参照】近くにある白河天皇(1053-1129)陵、一辺33mの方形。創建時は一辺56mの方形、さらに周囲に8.5mの濠があった。

【参照】近くにある鳥羽天皇(1103-1156)陵、ここには東殿があった。鳥羽上皇は自らの写経法華経を本御塔に納めた。

【参照】近くにある近衛天皇(1139-1155)陵の多宝塔、陵墓には珍しい形をしている。江戸時代、1606年に豊臣秀頼により再建された。現存する陵墓建築物では最古。建物内に骨臓器を納めた。

【参照】北向不動尊、平安時代、1130年、鳥羽上皇の勅願により建立された。かつて離宮内に建てられていた。本尊不動明王が、王城鎮護のため北向きに安置されたことから「北向不動尊」と呼ばれた。
平安京オーバレイマップ
安楽寿院  〒612-8446 京都市伏見区竹田中内畑町  075-601-4168
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