白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 (京都市左京区)
Ruins of Shirakawa-in Temple,Hossho-ji Temple
白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 
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白河院大門(1919年・京都市指定名勝)、唐破風




「此附近 白河院址」の碑




数奇屋造旧館


茶室「無心庵」


庭園


【参照】法勝寺跡遺構(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所)、説明板より

【参照】法勝寺復元模型(京都市平安京創生館)、説明板より


【参照】法勝寺復元模型(京都市平安京創生館)


「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」の碑
 京都市動物園の北、岡崎法勝寺町にある平安時代の白河院跡、法勝寺(ほっしょうじ)跡がある。いまは日本私立学校振興・共済事業団の所有になり、「京都白河院」という宿泊施設などに使われている。 
 敷地内に現存する庭園は、現代の造園家・7代目小川治兵衛が作庭している。
 アメリカ合衆国の日本庭園専門誌"Sukiya Living Magazine, The Journal of Japanese Gardening"の「しおさいプロジェクト」「日本庭園ランキング(数寄屋生活空間)」に、2007年に第10位に選ばれている。
◆歴史年表 平安時代初期、白河院(白河殿)は、公卿・藤原良房(ふじわら-の-よしふさ、804-872)の別荘地だった。別荘は、その後、北家藤原氏によって代々受け継がれている。
 第66代・一条天皇中宮・上東門院藤原彰子(ふじわら-の-しょうし、988-1074)が一時居住した。その後、「天狗が出没する」として京極殿に移ったという。(『栄花物語』)
 公卿・藤原師実(ふじわら-の-もろざね、1042-1101)の時、別荘は、第72代・白河天皇(1053-1129)に献上された。
 1075年、白河天皇により、この地に法勝寺(ほっしょうじ)の造営が始まる。場所は、現在の岡崎公園、京都市動物園周辺付近一帯だったという。東は岡崎道より300m東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50m南に囲まれた広大な寺域だった。
 後に俊寛(1143-1179)は、法勝寺執行を務めた。
 1077年、12月、本尊・毘廬舎那仏を安置した金堂の落慶供養が執り行われる。天台座主・覚尋を導師にした。
 1083年、池の中島に、高さ約80mという高塔、八角九重塔、愛染堂が完成する。講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などが次々に建てられた。
 鎌倉時代、1185年、大地震により、九重塔以外の建物の大半が倒壊した。
 1208年、八角九重塔は落雷で焼失する。朝廷により建仁寺開山・明菴栄西(みんなん-えいさい/ようさい)に大勧進が命じられる。
 1213年、再建される。その後も、復興は続いた。
 1248年、阿弥陀堂が焼失する。
 1253年、阿弥陀堂が再建された。
 1326年、山門系、律僧・円観(恵鎮)による勧進再興された。
 南北朝時代、1342年、九重塔、金堂、講堂が焼失している。
 1349年、焼失した。
 室町時代、1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。
 1531年、管領・細川高国と細川晴元の戦いでも焼失している。
 安土・桃山時代、1590年、第107代・後陽成天皇の詔勅により、法勝寺の寺籍は近江坂本の西教寺に移され、廃寺になったという。
 近代、1918年、この地は、呉服業・下村忠兵衛の所有になる。
 1919年、洋館、和館などが建てられる。設計は、近代の建築家・武田五一による。現在も、数奇屋造りの旧館が残されている。
 現代、1945年以降、占領軍により九重塔基壇跡が削平される。
 1958年、私立学校教職員共済組合の宿泊施設になる。
 1972年、法勝寺の池東岸跡が金堂跡が発掘調査された。
 1975年、法勝寺の金堂跡が発掘調査される。
 1982年、和館、洋館の建物の一部は取り壊される。池導水路跡が発掘調査される。跡地に、新館が建てられる。
◆藤原良房 平安時代前期の公卿・藤原良房(ふじわら-の-よしふさ、804-872)。通称は染殿、白河殿、諡は忠仁公。京都の生まれ。冬嗣の次男、母は尚侍(ないしのかみ)・藤原美都子(みつこ)(阿波守藤原真作の娘)/大庭(おおば)女王。814年、第52代・嵯峨天皇より皇女・潔姫(きよひめ)を降嫁される。826年、蔵人、その後、中判事、大学頭などを経て、833年、第54代・仁明天皇の即位に伴い蔵人頭になる。834年、参議、835年、中納言、839年、陸奥出羽按察使に昇る。842年、嵯峨上皇の死を契機にした承和(じょうわ)の変で、伴・橘両氏の勢力を削ぐ。妹・順子の産んだ道康(みちやす)親王(第55代・文徳天皇)を立太子し、自らは大納言になる。845年、淳和上皇(第53代)の没後、848年、右大臣兼皇太子傅(ふ)になる。850年、文徳天皇の即位により、外戚になる。惟喬親王(文徳天皇第1皇子)を抑え、娘・明子が産んだ生後8カ月の惟仁親王(文徳天皇第4皇子)を皇太子にする。854年、左大臣・源常(みなもと-の-ときわ)の没後、右大臣のまま廟堂の首班になる。857年、左大臣を経ず、奈良時代以降絶えていた太政大臣、従一位になった。858年、文徳天皇が没し、9歳の清和天皇(惟仁親王)が即位し、良房は太政大臣になる。866年、応天門の炎上事件に乗じ、伴善男(ともの-よしお)を失脚させ、伴・紀両氏の勢力を奪う。正式に人臣(皇族以外)初の摂政になった。871年、准三后になった。『貞観格式』『続日本後紀』の編纂に参画した。872年、東一条第(平安左京一条三坊)で亡くなり白河辺に葬られた。69歳。
 嵯峨天皇の信任を得た父の後を継ぎ、藤原北家の権力基盤を作る。天皇との関係が形成され、「前期摂関政治」とも称された。後の藤原北家全盛の礎になる。妹・順子の入内、兄・長良の子の基経を養子とし、基経の妹・高子も清和天皇の女御として入内させた。没後、正一位・忠仁公が贈られ、美濃国に封じられた。邸宅染殿(平安左京北辺四坊)は桜の名所として知られ歌宴が催された。
◆藤原師実 平安時代後期の公卿・藤原師実(ふじわら-の-もろざね、1042-1101)。摂政・関白頼通の子。中納言、権大納言、内大臣、右大臣、1069年、左大臣、1075年、関白。妻・源麗子の姪・賢子を養女として東宮(第72代・白河天皇)妃に入れ、善仁親王(第73代・堀河天皇)を産む。1086年、堀河天皇即位後、師実は摂政、太政大臣、関白と昇る。1094年、嫡子師通に関白を譲る。有職故実、詩歌、音楽、書に優れる。京極殿、後宇治殿と呼ばれた。60歳。
◆白河天皇 平安時代後期の第72代・白河天皇(しらかわ-てんのう、1053-1129)。貞仁(さだひと)。六条院。法名は融観。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は摂関家ではない、中納言・藤原公成の娘・贈皇太后・茂子(もし)。1069年、皇太子に立てられる。1072年、20歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、即位した。摂関家の勢力減退に乗じ、実権を伸ばした。後三条上皇の意向により、東宮は異母弟・実仁(さねひと)親王になった。1075年、法勝寺の創建に着手する。同年以降、荘園整理令を発した。1076年、嵯峨行幸を行う。1077年、六勝寺の初めになる法勝寺を創建した。1078年、清涼殿で殿上歌合が催された。1085年、実仁親王が病死する。父の遺言に背き、1086年、8歳の自らの第3皇子・善仁(たるひと)親王(第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。中宮・賢子(けんし/かたいこ)との間の皇子だった。自らは院政を敷く。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1095年頃、白河に白河殿を建立した。1096年、皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の死を悼み、出家し法皇になり、融覚と称した。1107年、堀川天皇が亡くなり、5歳の孫・宗仁(むねひと)親王(第74代・鳥羽天皇)を即位させた。1120年、関白・藤原忠実が失脚し、摂関家の権勢は低下した。1123年、曾孫・顕仁(あきひと)親王(第75代・崇徳天皇)と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。院政の始まりになる。1129年、西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)(伏見区)に改葬された。77歳。
 「治天の君(院政を執り行う上皇)」といわれた。「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺衆徒の強訴)は、これ朕が心に従わざるもの」(天下の三不如意)と嘆いた。延暦寺衆徒の強訴に対し、源平の北面の武士を登用し、騒乱に備えた。荘園の整理を断行する。院御所は主に六条院とした。200カ所以上の倉を有し、熊野参詣は9度行う。中下級貴族の院近臣が形成された。白河に白河殿を営む。国王の氏寺といわれた法勝寺など多くの造寺造仏、写経を行う。院政の舞台になった鳥羽離宮などの大土木工事を行う。『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』の撰進を命じ、勅撰集『後拾遺』に採録された。日記に『白河院御記』がある。
◆俊寛 平安時代後期の真言宗の僧・俊寛(しゅんかん、1143?-1179?)。村上源氏源雅俊の孫、木寺法印寛雅の子。仁安年間(1166-1169)、法勝寺執行になる。1174年、八条院の御堂供養を行う。後白河院の近習僧として仕える。1177年、鹿ヶ谷事件では、藤原成親、西光らと共に平氏打倒計画を企てるが失敗し、清盛によって捕えられる。薩摩国・硫黄島に配流され、そこで没した。36歳?。
◆小宰相局 平安時代後期の女官・小宰相局(こざいしょう-の-つぼね、1164?-1184) 。刑部卿・藤原憲方の娘。上西門院(第74代・鳥羽天皇皇女)に仕え、宮中一の美女として知られた。1179年頃、法勝寺の花見で上西門院にお供した際に、中宮亮・平通盛(みちもり)に見初められる。身持ちの固い小宰相局に代わり、上西門院の仲立により、小宰相局は3年越しで妻になる。1183年、平家一門は都を離れた。小宰相局は夫に同行する。1184年、一ノ谷の戦いで通盛の討死後、悲報を知り船より身重で投身した。(『平家物語』)。20歳?。
 墓と伝えられるものが鳴門にある。
◆武田五一 近代の建築家・建築学者・武田五一(たけだ-ごいち、1872-1938)。備後福山(広島県)の生まれ。父・備後福山藩士・司法官・平之助(直行)、母・八重の第5子。父の赴任に従い、神戸、姫路、岐阜、高知に住む。1888年、京都第三高等中学校補充科に入学した。1894年、京都第三高等中学校本科を卒業し、京都帝国大学工科大学造家学科に入学する。1897年、帝国大学(東京帝国大学)造家学科(建築学科)を首席卒業し、同大学院に進学した。1899年、大学院中退後、東京帝大助教授に任じられる。東京高等師範学校講師嘱託、東京美術学校教官になった。1901年-1903年、文部省より命ぜられ欧州留学する。ロンドン・カムデン美術学校で学び、各地を巡る。アール・ヌーボー、セセッションなどを体験する。1903年、帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になる。1904年、京都府技師を兼任し、平等院鳳凰堂・鹿苑寺金閣の保存に関わる。1907年、東京・福島行信邸で、日本初のウィーン・セセッションの様式を試みた。アール・ヌーボーの造形を紹介する。1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任し、国会議事堂建築のために欧米視察した。1912年、パナマ太平洋万国博覧会事務取扱嘱託になる。1915年、工学博士学位を取得する。勲四等瑞宝章を受賞した。1916年、法隆寺壁画保存会委員になる。1917年、片岡安らと「関西建築協会」を設立する。1918年、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長に転任した。1920年-1932年、京都帝国大学建築学科創立に伴い教授になる。1925年、大蔵省営繕管財局技師を兼任した。1929年-1931年、京都帝国大学営繕課長事務取扱として学内建築物の造営に関わる。1931年、欧米出張し、19カ国を訪れた。1934年以来、法隆寺大修理工事事務所長を務める。65歳。
 「関西建築界の父」といわれた。奈良・京都の古社寺保存修復、橋梁、博覧会場、公園、記念碑、都市計画、街路施設、家具意匠、染色なども手掛けた。主な作品として、旧日本勧業銀行本店(1899) 、日本初のセセッション建築とされる東京・福島邸(1907)、京都府立図書館(1909)、京都・円山公園(1912)、京都・同志社女子大学ジェームス館 (1913) 、京都・旧松風嘉定邸 (現・五龍閣、1914)、山口県庁舎・県会議事堂(1916) 、大阪・瀧安寺鳳凰閣(1917) 、兵庫・清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(1917) 、東京・旧村井吉兵衛邸(現・延暦寺大書院、1919) 、 兵庫・清水寺鐘楼 (1919)、兵庫・光明寺根本本堂(1925) 、 和歌山・高野山大学図書館 (1928)、代表作の東方文化学院京都研究所(1930)、京都・同志社女子大学栄光館(1932) 、鳥取・三朝大橋(1934年) など多数。葵橋、賀茂大橋なども設計した。
◆7代・小川治兵衛  江戸時代後期-近代の造園家・小川治兵衛(おがわ-じへい、1860-1933)。源之助。山城国乙訓郡神足の庄屋・農家に生まれた。父は山本弥兵衛。1877年、江戸時代、宝暦年間(1751-1763)より続く岡崎の庭匠・小川家(「植治」「田芝屋」)の養子になる。6代に付く。遠州流を学ぶ。法然院・大定に薫陶を受けた。7代目・治兵衛を継ぎ、通称は屋号「植治(うえじ)」と称した。天才的と謳われ山県有朋、西園寺公望らの後援を得た。今日の「植治流」造園技術を確立する。
 碧雲荘、無鄰庵、平安神宮神苑、清風荘、円山公園、京都国立博物館庭園、対龍山荘庭園など100あまりの庭園を手掛け、「植治の庭」と呼ばれた。京都御所、修学院離宮、桂離宮などの復元修景にも関わる。
 辞世は、「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」だった。墓は佛光寺本廟(東山区)にある。74歳。
◆法勝寺 左大臣・藤原師実の別業・白河院は、その後、白河天皇に寄進された。平安時代、1075年より、白河天皇の発願により岡崎に法勝寺が建立される。仏教による国家鎮護を目指した。境内は東西250m以上、南北300m以上あった。
 当初、金色三丈二尺の本尊・ 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・胎蔵界四仏を安置する金堂、金色釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩を安置する講堂、不動尊・四大尊安置の五大堂、金色丈六の阿弥陀如来九体安置の阿弥陀堂、法華経を納めた多宝塔安置の法華堂、鐘楼、経蔵などが建ち並んでいた。
 その後、1083年に高さ80mという八角九重塔が建立される。薬師堂、常行堂、北斗曼荼羅堂、小塔院なども建てられた。寺司、供僧、住学生は延暦寺、園城寺、興福寺、東寺などが担った。火災、戦乱などで伽藍焼失するたびに再興を繰り返した。
 安土・桃山時代、1590年に第107代・後陽成天皇の詔勅により、法勝寺の寺籍は近江坂本の西教寺に移された。西教寺の薬師如来坐像(重文)は、法勝寺の遺仏とされる。西方寺(左京区)の本尊・阿弥陀如来坐像(重文)も遺仏という。
◆六勝寺 白河の地には、ほかの寺院も建立されている。いずれの寺名にも「勝」の字が用いられていたことから、これらを総称して「六勝寺(りくしょうじ)」と呼ばれた。
 六勝寺として、第73代・堀河天皇の「尊勝寺」、第74代・鳥羽天皇の「最勝寺」、待賢門院(鳥羽天皇中宮、第75代・崇徳天皇、第77代・後白河両天皇の母)の「円勝寺」、第75代・崇徳天皇の「成勝寺」、第76代・近衛天皇の「延勝寺」をいう。この中で第72代・白河天皇の法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、最大の寺院だった。
◆建築 表門、玄関、和館、新館、南に新しく建てられた茶室「無心庵」がある。建築家・武田五一の設計による。当初は南北に和館、洋館が建てられ、和館は庭園にせり出し、洋館の正面に洋館が建てられていた。1982年に二館の一部が撤去され、現在の新館が建てられた。
 数奇屋造の和館(旧館)。
 表門(大門)は、唐破風。
◆庭園 池泉廻遊式庭園は、近代、1919年頃、7代目・小川治兵衛の作庭による。庭は作庭当初より改変が行われていない。
 水は、琵琶湖疏水から引かれ、北側より西と東の滝石組から流入する。西からは桝、切石橋、流れ、東は滝口組、滝壺、流れになり、二流は南下し、やがて合流し、段落、園池に注がれている。滝石組は大石が使われている。川床に岩石が据えられている。飛石がある。園池中央に雪見型燈籠が据えられている。
 東山を借景とし、築山があり、アカマツ、イロハモミジのほか、モミ、ヒノキ、スギの針葉樹、サツキ、アセビ、ドウダンツツジなどの低木の群植がある。紅葉も楽しめる。また、和館の傍に、あえてクロマツの大木を配することで、遠近感の演出がみられるという。
 複雑な地割、植栽、借景により、視界の拡散効果を上げている。庭園と建物の間には芝生が張られている。藤棚も造られている。2003年に京都市名勝指定になった。
◆俳人 門前に、「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」の碑が立っている。
 江戸時代の女性俳人・五外庵諸九尼(1714-1781)は、俗名をなみといった。1742年、佐賀県の庄屋・永松万右衛門の妻だったが、芭蕉高弟・野坡(やば)門下俳人・有井湖白と駆け落ちする。当初、京都に逃げ、野坡の弟子の九十九庵に匿われる。1743年、大坂に移住した。二人は、大坂俳壇で活躍し、なみの俳号は雎鳩(しょきゅう)、その後、諸九に変えた。1755年頃に京都五条に移住したという。また、九十九庵に再び戻り、野坡追善句集『窓の春』などを刊行した。1762年、夫・湖白の没後、剃髪し、諸九尼と称した。俳人・幻阿蝶夢とも親しかった。
 江戸時代の俳人・幻阿蝶夢(1732-1795)は、芭蕉復興運動の中核的な役割を担った。かつて京都寺町の阿弥陀寺住職で、1766年に住職を辞し、1768年、この地に五升庵を結んで隠棲した。
 

71 後三条天皇(在位 :1068-1072)→72 白河天皇(在位 :1072-1086)→73 堀河天皇(在位 :1086-1107)→74 鳥羽天皇(在位 :1107-1123)→75 崇徳天皇(在位 :1123-1141)→76 近衛天皇(在位 :1141-1155)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『歴史のなかの宗教 日本の寺院』、『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』、『歴代天皇125代総覧』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都大事典』、『掘り出された京都』、『京都秘蔵の庭』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えた女』、『京都まちかど遺産めぐり』、『武田五一建築標本』、京都市平安京創生館、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺白河南殿跡・六勝寺跡   関連・周辺諸九尼「湖白庵」・幻阿蝶夢「五升庵」・「風羅坊」跡   関連・周辺平安神宮   関連・周辺無鄰菴  周辺安楽寿院(鳥羽離宮跡)  関連白河北殿跡  関連西方寺(左京区)   関連歴代天皇データ    
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京都白河院 〒606-8333 京都市左京区岡崎法勝寺町16  075-761-0201
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