薩摩藩志士之墓 (京都市上京区)
Tomb of Satsuma clan patriot
薩摩藩志士之墓 薩摩藩志士之墓 
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薩摩藩志士之墓












墓地
 薩摩藩志士之墓は相国寺のすぐ東にある。幕末の蛤御門の変、鳥羽・伏見の戦いの犠牲になった薩摩藩士72人の慰霊碑と戦死者の墓がある。 
◆歴史年表 江戸時代後期、1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩士にも多くの戦傷者があった。相国寺の塔頭・養源院は薩摩病院(野戦病院)として負傷者を収容している。塔頭・林光院の境外墓地が当墓地になり、薩摩藩士の犠牲者が眠る。
◆薩摩藩 薩摩藩は、薩摩、大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが)、諸県(もろかた)郡の一部を領有した外様大藩であり、鹿児島藩ともいう。藩主は島津氏による。
 江戸時代、1862年、相国寺南、現在の同志社大学敷地には、薩摩藩邸の二本松邸が置かれていた。京都の薩摩藩邸は中京区錦東洞院を経てここに移転した。ほかにも藩邸は北区の等持院にも置かれていた。
 幕末、薩摩藩は公武合体運動、尊皇攘夷を主張していた。1864年、蛤御門の変(禁門の変、元治の変、元治甲子の変)では、京都御所の蛤御門で、幕府(薩摩藩、会津藩、桑名藩)と長州藩が衝突した。長州藩が敗北し、御所以南が「どんどん焼け」と呼ばれる大火により焼失している。以後、朝敵になった長州に対して二次の長州征伐(1864、1866)が行われた。1866年の薩長同盟後は、薩摩藩は武力討幕に転じている。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いは、上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見で戦われた。王政復古の大号令後、大坂から京都へ入る前将軍・徳川慶喜の旧幕府軍(会津藩、桑名藩、新撰組)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩、広島藩)が対峙した。
 街道封鎖していた薩摩藩と旧幕府軍は、鴨川に架かる小枝橋で衝突し、戦いの火蓋が切られる。各所の戦闘でも旧幕軍が敗走し、戦乱は、戊辰戦争(1868-1869)へと拡大する。
 この鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩士にも多くの戦傷者があった。相国寺の塔頭・養源院は薩摩病院(野戦病院)として負傷者を収容した。塔頭・林光院の境外墓地が当墓地になり、薩摩藩士の犠牲者が眠っている。
 

*参考文献 説明板、『昭和京都名所図会 5 洛中』 、ウェブサイト「コトバンク」   

 
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薩摩藩志士之墓  〒602-0806 京都市上京区相国寺門前町
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