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大久保利通旧邸跡 (京都市上京区) Former Residence of Okubo,Toshimichi |
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大久保利通旧邸跡 | 大久保利通旧邸跡 |
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![]() 「大久保利通旧邸」の石標 |
京都御所の東に「大久保利通旧邸(おおくぼ-としみち-きゅうてい)」の石標が立てられている。 江戸時代後期-近代の政治家・大久保利通(おおくぼ-としみち)は、一時、この地に暮らしている。 ◆歴史年表 江戸時代、1862年正月/文久年間(1861-1863)、薩摩藩士・大久保利通は上洛した。1862年3月、島津久光に随行し上京する。以来、利通は鹿児島、京都間を往復した。 江戸時代-近代、1866年正月-1871年6月、利通は薩摩藩邸より移りこの地に邸宅を構えた。岩倉具視らと討幕のための朝廷工作にあたる。 近代、1927年、京都市教育会により現在の石標が立てられた。 現代、2019年、邸は解体された。茶室「有待庵(ゆうたいあん)」は、保存・移転されることになった。 ◆大久保利通 江戸時代後期-近代の政治家・大久保利通(おおくぼ-としみち、1830-1878)。男性。通称は一蔵、号は甲東。薩摩(鹿児島県)生まれ。父・薩摩藩士・大久保利世、母・福(皆吉鳳徳の娘)の長男。薩摩鹿児島藩士。1849年、藩主の家督争いにより、父・利世が流罪になる。17歳で記録所書役助に任じられた。尊王攘夷を主導し、1859年、大老・井伊直弼襲撃計画は未遂に終わる。島津久光の側近として、1860年、勘定方小頭、御小納戸(おこなんど)頭取になり、公武合体に転向した。1862年、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に付ける。1866年、薩長同盟を締結し、武力討幕に転換した。1867年、兵を率いて上京する。王政復古の大号令発布を実現させた。1869年、参議、木戸孝允らと版籍奉還・廃藩置県を行う。1871年、大蔵卿になる。佐賀の乱を鎮圧し、台湾出兵を推進した。1873年、大蔵卿になり、岩倉具視に従い遣欧使節団副使に加わる。征韓問題で帰国し、参議になる。盟友・西郷隆盛の征韓論を退け内治優先を主張した。内務省を発足させ内務務卿を兼任、大久保の専制支配が始まる。地租改正を行う。1874年、全権弁理大臣として清国と交渉し、日清両国間互換条款に調印した。1876年、神風連の乱を鎮圧する。1877年、西南戦争で旧薩摩藩士族に擁立された隆盛の軍を平定した。近代化、欧化が反発を招き、1878年、東京紀尾井坂(きおい)で石川県士族・島田一郎らに暗殺された。49歳。 絶対主義的天皇制、富国強兵、殖産興業などを勧め、他方、元老院、大審院、地方官会議設置など立憲制を築く。明治維新の三傑(ほかに西郷隆盛、木戸孝允)の一人に数えられた。 ◆大久保邸 江戸時代後期、1866年正月、大久保利通は薩摩藩邸よりこの地に移り邸宅を構えた。岩倉具視(1825-1883)、桂小五郎(木戸孝允、1833-1877)、勤王の志士らの煩雑な出入りがあったという。岩倉らと討幕のための朝廷工作にあたる。 1871年6月まで大久保は住した。 ◆有待庵 邸内に茶室「有待庵(ゆうたいあん)」があった。3畳、平屋、アカマツの床柱が使われていた。 かつて、御花畑の小松帯刀邸にあった。現代、1866年に利通邸に移される。茶室内では政治的な密議が行われ、利通は岩倉具視とも会談したという。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース、『龍馬&新選組 京都幕末案内 』 、『京都大事典』、『上京幕末「大政奉還その前夜」』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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