|
|
松原橋・旧五条大橋 (京都市下京区-東山区) Matsubara-bashi Bridge |
|
松原橋 | 松原橋 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた五条大橋、上の建物が大黒堂、鴨川二条大橋の説明板より ![]() ![]() 【参照】安土・桃山時代の「洛中洛外図屏風」右隻に描かれた大仏殿、下に旧五条大橋(松原橋)、鴨川、京都国立博物館の屋外展示物説明板より ![]() 【参照】物吉村、室町時代、「洛中洛外図屏風(上杉本)」、京都アスニー陶板壁画より ![]() 【参照】松原通りの表示板 |
鴨川に架かる松原橋(まつばら-ばし)は、現在の五条大橋の一つ上流に架かる。安土・桃山時代まではこの橋が「五条大橋(五条橋)」と呼ばれていた。橋は、「清水橋」「清水寺橋」、僧侶による勧進(募金)により賄われ「勧進橋」とも呼ばれていた。道の両側に松並木があり「五条松原橋」とも呼ばれた。 牛若丸と弁慶が出会った場所との伝承がある。橋は、清水寺への参詣道に当たり、鳥辺野に至る葬送地への入り口、此岸と彼岸の境界だった。河原は、死者の葬地にもなっていた。橋は、苦集滅路(くずめじ、滑谷 [しるたに越] 、渋谷越)に至る玄関口にもあたっていた。 ◆歴史年表 平安時代、第52代・嵯峨天皇(810-824)の勅命により橋が架けられたともいう。すでに「五条大橋」と呼ばれた。 1139年、「清水橋(五条橋)供養」の記録がある。橋長64間、幅員4間8寸あった。(『百錬抄』『濫觴抄』) 1159年、平治の乱で平家の軍勢は橋板を壊し、楯として防戦した。(『平治物語』) 1188年、大勧進沙弥印蔵は法然の説話を聞き、五条橋の造営勧進の願主になる。清水寺・阿弥陀堂の常行念仏も開く。 平安時代末、石橋が架けられていたという。(『梁塵秘抄』) 鎌倉時代前期、「清水橋」、「清水寺橋」と呼ばれていた。(『明月記』『東大寺要録』) 鎌倉時代、五条橋下には流灌頂(ながれかんじょう、川畔の四方に竹、板塔婆を立て、布をつり広げ、柄杓で通行人に水を注いでもらう。おもに難産死した女性の供養)を行う、乞食僧「いたか」が住していたという。 1228年、風雨洪水により、五条大橋、四条大橋が流された。(『百錬抄』) 1233年、囚人を預かる大番衆が、召人を逃した罰として五条橋修造が課せられていた。 1235年、幕府は京都大番役を怠った西国御家人に、清水寺橋の修理を命じた。(鎌倉幕府法、追加法第69条) 1245年、五条橋の修造費は幕府が負担する。(追加法) 1263年、清水橋(五条橋)、鴨川川防用途を近国御家人に賦課する。(「鎌倉遣文」) 室町時代、1408年、浄財の寄付により修架されている。 1409年、京都の住人・慈恩が浄財を集め、僧・慈鉄が設計し、長さ86丈(260m)、幅24丈(7.3m)の長大な橋を架ける。(『本朝高僧伝』) 1427年、洪水により四条橋、五条橋が落ちた。河原在家といわれる庶民の家が流される。 1441年、洪水により四条橋とともに落ちる。 1461年、「寛正の大飢饉(山城大飢饉)」の際に、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋の河原、五条橋の河原、油小路の空き地で1000人以上の餓死者を葬り塚を作った。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。鴨川には遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、五条橋で万寿寺の僧による施餓鬼が行なわれた。 1486年、勧進聖・願阿弥は、五条橋中島の堂で亡くなったともいう。(『大乗院寺社雑事記』) 1488年、五条の河原の夏禹廟(燕丹之社、燕丹の廟)について記されている。かつて、四条橋に悪党がおり、綴法師と呼ばれていた。六波羅の命により捕らえられ、五条河原で斬首された。祟るのを畏れて祀ったという。(『相国寺蔭凉軒主亀泉集証』) 1525年頃、五条橋付近が描かれている。川中に中島があり、2本の橋が架けられていた。(屏風『洛中洛外図 旧町田本』) 1544年、大風、洪水により、五条大橋、四条大橋が落ちる。京中で被害がある。(『言継卿記』) 1566年、中島の法城寺について記されている。文献初見という。(『花洛名勝図絵』中『水月集』よりの引用として) 1573年、五条橋が古く、頽廃しているとの記述がある。(『耶蘇会日本通信』) 安土・桃山時代、1589年/1590年、豊臣秀吉は、奈良・東大寺大仏殿を模して方広寺大仏殿を造営した。その際に、五条坊門通-六条坊門小路にあたる現在の五条通(現在の五条大橋の位置)に、橋(大仏橋)を架け替えさせた。奉行は増田長盛、前田玄以による。 1591年、豊臣秀吉はお土居を築造している。 江戸時代、元和年間(1615-1624)、新しく架橋された大仏橋が「五条橋」と称されたという。通り名も六条坊門小路から「五条橋通(近年になって五条通)」に変わる。旧五条通は「松原通」に変えられた。 1645年、大仏橋(現在の五条橋)が石橋に架け替えられ、新たに「五条石橋」と呼ばれるようになったともいう。 1669年-1670年、鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。 近代、1935年、「昭和10年京都大洪水」により流出する。 現代、1959年、修築される。 ◆願阿 室町時代中期-後期の時宗の僧・願阿(がんあ、? -1486)。男性。願阿弥。越中国(富山県)の生まれ。時宗の勧進聖になり、流出した五条大橋の架け替え、南禅寺仏殿の再興も行う。1459年、長谷寺の本尊開帳に際して、勅許の綸旨を興福寺へ持参した。1460年-1461年、8万人の餓死者が出た寛正の大飢饉では、8代将軍・足利義政は、願阿に飢民への施食を命じ、100貫文を与えた。願阿自らも勧進し、六角堂の南に小屋を建て、飢民に粟粥を施した。だが、飢民の数が多く、資金難から1カ月程で中止した。願阿は興福寺により清水寺の勧進僧の役を与えられる。応仁・文明の乱(1467-1477)後、諸国を勧進し、1478年、清水寺の鐘を鋳造する。1479年、清水寺本願職に補任された。1481年、奈良・元興寺極楽坊曼荼羅堂の千部経勧進を行い供養する。1482年、清水寺本堂を上棟している。その後、その功により「成就院願阿」と呼ばれた。五条橋中島の堂で亡くなったともいう。 ◆禹 中国古代の伝説上の帝王・禹(う、?-?)。詳細不明。禹王。姓は姒(じ)、別名は文命。西方の異民族の出身ともいう。父・鯀(こん)。尭帝の時代に黄河の大洪水が起こり、父・鯀が治水にあたり失敗する。その後、舜帝は禹に治水を命じた。禹は部下の益(えき)・后稷(こうしよく)とともに刻苦13年で成功した。水を導き、農業・産業を整備した。その功により舜帝から天子の位を譲られ、夏王朝を創始したという。 治水に当たり、自らは衣食を粗末にし、身を粉にして働いたとされ伝説化した。尭・舜と並び太古の聖王とされる。禹の死後、子・啓が諸侯から推されて天子になり、中国の世襲王朝の始まりになったという。 ◆増田 長盛 室町時代後期-江戸時代前期の武将・増田 長盛(ました-ながもり、1545-1615)。男性。通称は仁右衛門(にえもん)、右衛門尉と称した。尾張国(愛知県)/近江国(滋賀県)の生まれともいう。少年時代から秀吉に仕え、1584年、小牧・長久手の戦の戦功で加増された。1585年、従五位下・右衛門尉に叙任された。1589年、方広寺大仏殿造営に際し、大仏橋(五条橋)の造営奉行になる。1590年、小田原役に従い、京都鴨川に三条橋を架橋した。1591年、長束正家らと近江を検地する。1592年、文禄の役で、朝鮮に渡り、文吏派大名として兵站 にあたり和議を進めた。1594年、伏見城の工事を分担する。1595年、行賞として、豊臣(羽柴)秀保の没後、居城・大和郡山城を与えられた。従四位下・侍従に叙任された。1598年、石田三成らと共に五奉行になり、秀吉没後に秀頼補佐を担う。1600年、関ヶ原の戦で西軍に属し、兵3000で大坂城の留守居を務めた。家臣・高田小左衛門に兵をつけて送る。他方、東軍・徳川家康に大坂城内の味方情報を送る。戦後、家康は許さず、領地没収・科料金の処分を受け、高野山に追放された。後に、武蔵岩槻城主・高力清長に預けられた。1615年、大坂夏の陣で、子・盛次が大坂方にあり、連座により自刃させられた。71歳。 民政に重用され、近江、安房(あわ)などの検地奉行として太閤検地に尽力した。 ◆前田 玄以 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・前田 玄以(まえだ-げんい、1539-1602)。名は宗向、孫十郎基勝、号は半夢斎、策勝軒。美濃(岐阜県)の生まれ。父・前田基光。孫十郎基勝と称し、比叡山で出家、尾張・小松寺の住職僧ともいう。織田信長臣下、1579年、信長の命で嫡子・信忠の家臣になる。1582年、本能寺の変で信忠が自害、その嫡男・三法師(さんぼうし、秀信)とともに岐阜に逃れ保護した。三法師を擁して清須に赴いた。この功により、1583年、信忠の弟・信雄より京都奉行に任じられる。以後、17年間在職した。禁裡御用地、門跡領、寺社領管理などを行う。1584年、豊臣秀吉に仕え、右筆(ゆうひつ)ともいう。その信厚く、1585年、丹波亀山を領された。1588年、第107代・後陽成天皇の聚楽第行幸で奉行、寺社奉行で当初はキリシタンを弾圧した。1595年、豊臣秀次の問責に当たり、妻妾を亀山に預った。1598年、豊臣政権下五奉行の1人に任じられた。秀吉没後、徳川家康と石田三成の対立では三成方に属した。1600年、家康を討つよう長束正家、増田長盛らと諸大名に命じた。関ヶ原の戦は西軍に与し、大坂城の留守居として参戦しなかった。東軍・徳川方に通じ、戦後、金剛寺(河内長野)に謹慎、家康に許され丹波亀山の本領安堵、初代藩主になる。故事、典例、故実に通じ、千利休に茶を学んだ。64歳。 墓は妙心寺・蟠桃院、専念寺にある。法名は「徳善院殿天涼以公大居士」。 ◆松原橋 松原橋の架設年は、現代、1959年になる。 橋種は3径間連続鋼プレートガーター、橋長は83.55m、幅員は6m(6.7mとも)になる。鉄筋コンクリート製。 ◆晴明塚 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921?-1005)が葬られたのは、五条大橋(松原橋)の東北の中州(現在の橋の東詰付近)だったという。 かつて鴨川の中州に、法城寺(ほうじょうじ、大黒堂)という寺が建てられ、晴明を祀る塚もあったという。(『洛中洛外図屏風』『雍州府志』)。寺の名は、「法」は「水去りて」、「城」は「土と成る」という意味になる。寺は、鴨川の洪水を防ぐために晴明本人が建てたともいう。晴明の墓は晴明塚といわれ、松が植えられていた。その後、晴明祠が建てられ、木像が祀られた。 寺を民間陰陽師が支えたとも、清水坂の犬神人によるともいう。少なくとも室町時代には存在した。付近は、「大黒信仰」の中心地になり、下級芸能者の拠点にもなった。 なお、安土・桃山時代、1593年、1594年、豊臣秀吉の命により、畿内の多くの陰陽師(声聞師)が、尾張国の治水工事、荒地開墾の名目で移住させられた。京都からは109人が動員される。京都町奉行・前田玄以が関与した。陰陽師狩りであり、勢力を削ぐという意図もあった見られている。 江戸時代前期、1607年、寺と塚は洪水被害により三条橋の東へ移転し、心光寺と寺号を改めた。また、度重なる鴨川の氾濫、安土・桃山時代の豊臣秀吉による新しい五条大橋替え工事、秀吉による弾圧により消えたともいう。 江戸時代前期、1654年まで、塚は中州に存在していた。(『新版平安城東西南北并洛外之図』)。その後、現在の松原橋の東、下京の物吉村(東山区八坂通大和大路付近とも)に遷された。塚を守護するために清圓(円)寺(せいえん-じ)、その隣に晴明社が祀られたという。(『京雀跡追』)。 近代、1868年、清圓寺、晴明社は廃絶し、中堂寺村の善徳寺に晴明像なども遷された。近代、1877年、像は長仙院(中京区裏寺町)に遷されたという。現在、長仙院は晴明像、神像などを所蔵している。 法城寺の名は、法城山晴明堂心光寺(三条大橋東)の山号寺名に残されている。心光寺は法城寺の後身とされ、かつては境内に晴明塚があったという。 近代、1885年以降、廃絶した清圓寺、晴明社の跡地に、松田儀兵衛により荒龍(あらたつ)神社が再建された。(「京都日出新聞」)。後に稲荷社に代わり、いまもその子孫の邸内に祀られているという。 ◆夏禹王廟 鎌倉時代には、橋下中州に夏禹王廟(かう-おうびょう)があったという。(『蔭涼軒日録』)。禹王(うおう)は、古代中国の夏王朝の最初の王で、黄河の治水に力を注ぎ、中国の道教では、治水や土木工事の神として崇められた。 夏禹王廟と法城寺との関連も指摘されている。また、仲源寺が後身ともわれている。 ◆寛正の大飢饉 室町時代前期、1420年、京都に大地震が起き、大干ばつ、飢饉が続いた。洛中には、飢餓者や疫病者があふれた。翌年、幕府によって五条河原に仮小屋が建てられ、大施餓鬼が執り行われた。 「寛正の大飢饉」(山城大飢饉)(1461)の際、飢饉と疫病、戦乱により、8万2000人もの餓死者が出た。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋、五条橋、油小路において多くの餓死者を葬っている。それでも鴨川には、遺体が溢れ、流れを塞いだという。この後、両橋などで、五山の僧による施餓鬼も相次いで行なわれた。願阿弥は、五条大橋での勧進による造営を行なっている。 ◆六波羅 松原橋は、平安京の「洛外」にあり、葬所の鳥辺野(とりべの)の入り口に当たった。鴨川の東岸、五条-七条にかけては六波羅と呼ばれた。都人が亡くなると棺桶に収めて鴨川を渡った。寺の僧侶は引導を渡し、野辺に送る。鳥辺野とは、五条坂-今熊野にかけての阿弥陀ヶ峰の南麓一帯をいう。行基が開いたとも伝えられ、山麓に阿弥陀堂があったことからこの名がついた。 なお、中世以降、清水坂では穢れを清める「清目」「坂者」とも呼ばれた職掌集団が、葬送、埋葬に関する特権を有していた。 橋向こうは、冥界への入り口、あの世とこの世の分岐点と考えられ、六道珍皇寺、六波羅蜜寺、念仏寺などのお堂が点在していた。六道の辻(六道の辻地蔵尊)にも通じた。六道とは、衆生が生前の業因よって赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六界を指し、何れかに行って、やがてこの世に転生すると考えられた。また、かつて呼ばれていた髑髏原(どくろがはら)から六道、六原、麓原、六波羅に転じたともいわれている。 ◆牛若丸 このかつての五条大橋は、武蔵坊弁慶と牛若丸の対決の伝承でも知られている。 ◆お伽草子 お伽草子『和泉式部』では、和泉式部の産んだ子どもが、五条大橋のたもとに捨てられる。子は、やがて比叡山の道命阿闍梨という僧になる。やがて、宮中の法華八講で見初めた相手とは、和泉式部その人だった。 ◆阿国 安土・桃山時代の出雲阿国(いずもの-おくに、1572 ?-?)は、四条河原ではなく、五条河原(松原の河原)でややこ踊りを踊り、北野社でかぶき踊りを披露したともいう。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、『京の橋ものがたり』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、『増補 洛中洛外の群像』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『史跡探訪 京の七口』、『京都まちかど遺産めぐり』、『あなたの知らない京都の歴史』、『京都の治水と昭和大洪水』、 『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『京都大事典』、『京 no.55』、『京都の災害をめぐる』、京都国立博物館、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|