三宝院 〔醍醐寺〕 (京都市伏見区) 
Sanbo-in Temple
三宝院 三宝院
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総門






唐門(国宝)


唐門


唐門、桃山時代の金箔の菊紋(12弁、管状花が大きい)と桐紋が施されている。


唐門、五七の桐紋(太閤桐、7花、5花、5花)




大玄関


大玄関



大玄関、蟇股


大玄関、菊紋


大玄関、桐紋






庭園内に樹齢50年の枝垂桜、表書院、純浄観などの建物が見える。その背後に醍醐山の山容。




総門内に桜の大木が4本ある。この枝垂桜は樹齢150年という。














 醍醐寺境内にある三宝院 (さんぼういん)は、正式には醍醐寺三宝院という。醍醐寺塔頭のひとつになる。
 真言宗醍醐派。本尊は弥勒菩薩坐像を安置する。
 修験道当山派の総本山になる。
◆歴史年表 平安時代、1115年、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうかく)が創建した。当初は、五重塔の近く(金堂の西)にあり、醍醐五門跡のひとつに数えられた。当初は灌頂院と呼ばれ、醍醐寺の興隆を念じ、三法(仏、仏の教えの法、教えをひろめる僧)に因み三宝院とした。 
 鳥羽上皇(第74代、1103-1156)の御願所になる。
 1131年、定海の時、灌頂院が建立される。結縁灌頂の道場になる。
 南北朝時代、1379年、足利義満は武家護持僧の管領役を、三宝院に一任する
 室町時代、1395年、満済は18歳で醍醐寺座主、三宝院門跡になる。
 1401年、1月、足利義満が参籠した。北山第に移る。(『迎陽記』)
 1428年、門主・満済が准三后を宣下され、以後、歴代門跡が醍醐寺の座主を独占した。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、以後途絶する。
 安土・桃山時代、1598年、2月、豊臣秀吉は、花見の下見に金剛輪院(こんごうりんいん、現在の三宝院)を訪れた。再訪した秀吉は自ら庭園の縄張りを行う。3月15日、秀吉が企画した壮大な「醍醐の花見」が催される。金剛輪院が増改築された。4月、作庭が始まり、聚楽第より藤戸石が運び込まれる。5月、作庭が終わる。8月、秀吉が亡くなる。12月、秀頼、北の政所により寝殿、書院が建てられた。
 1599年より、義演により庭園の整備が始まる。
 江戸時代、1606年、義演准后が醍醐寺座主に就く。荒廃していた寺を復興させた。院は座主房となり、後に三宝院の名跡を継ぐ。
 1608年-1611年、庭師・賢庭が庭園の改修を行う。
 1623年-1624年、義演は庭園の大改修を行う。
 1864年、禁門の変の際に、長州の一向僧・金剛隊6人は当初興正寺に匿われ、三宝院に落ち延びた。その後、7月26日、新撰組に捕縛され、六角獄舎に投獄された。
 近代、1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。
 1885年、旧門跡は復称を許される。
 現代、2001年、「土牛の桜」のクローン桜「太閤千代さくら」が開花する。
◆聖宝 平安時代の真言宗の僧・聖宝(しょうぼう、832-909)。恒蔭王(つねかげおう)。理源大師。父は兵部大丞葛声王の子。第38代・天智天皇皇子の歌人・施貴皇子(しきのみこ)の子孫。16歳で東大寺・真雅(空海実弟)により出家した。願曉、円宗、平仁、玄栄に三論、法相、華厳を学ぶ。葛城山、大峯山で修験道を修めた。869年、興福寺・維摩会の堅義に三論宗の立場で出る。871年、真雅より無量寿法を受ける。874年、醍醐寺を創建。884年、東寺・源仁より伝法灌頂を受けた。890年、藤原良房が聖宝のために建立した深草・貞観寺の座主。飛鳥・川原寺検校、東寺長者・別当、西寺別当、905年、東大寺東南院院主・別当、七大寺検校。奈良・弘福寺などに就く。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の帰依を受けた。真言宗醍醐派小野流の祖。吉野、金峯山の整備、造仏を行い、中世以降、修験道中興の祖といわれた。
◆勝覚 平安時代後期の真言宗の僧・勝覚(しょうかく、1058-1129)。左大臣・源俊房の子。師・定賢を継ぎ、1086年、醍醐寺座主になる。清滝宮を上下醍醐寺に勧請して鎮守とし、1115年、三宝院を建立した。桜会(清滝会)を始める。1117年、神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。白河上皇(第72代)の出家の際に剃り手を勤め、上皇のために、1127年、高野山に御願の塔を建てた。東寺長者、東大寺別当を歴任した。
◆定海 平安時代後期の真言宗の僧・定海(じょうかい、1074-1149)。父は右大臣・源(久我)顕房、母は美濃守藤原良任の娘。幼くして醍醐寺に登り、義範の弟子、宝院の勝覚(しょうかく)より灌頂をうける。範俊(はんじゅん)らより小野流を学ぶ。三宝院流を開く。1116年、醍醐寺座主。三宝院2世、灌頂堂(灌頂院)を建て鳥羽院の御願に寄進,結縁灌頂を始める。1131年、第75代・崇徳天皇の護持僧、鳥羽院、待賢門院のための修法も多く勤めた。東大寺別当、東寺長者をつとめた。1138年、大僧正。三宝院大僧正、上生僧正と呼ばれた。
◆賢俊 鎌倉時代-南北朝時代の真言宗の僧・賢俊(けんしゅん、1299-1357)。菩薩寺大僧正。父は権大納言日野俊光。醍醐寺宝池院流賢助に師事、1320年、今熊野で入壇。1333年、師・賢助没後、その後継。南北朝時代に足利尊氏方につき、後醍醐天皇の信を得た文観を排し、1336年、権大僧正、醍醐寺座主・根来寺座主。尊氏の九州行きに従う。持明院統(北朝)・光厳上皇の院宣と錦旗を尊氏に伝えた。尊氏・北朝3代(光明・崇光・後光厳)の護持僧となる。伽藍を整備し、三宝院を再興し21世院主となる。1340年、東寺長者、北朝の護持僧。1342年、法務大僧正、1350年、東寺長者の職を辞し、尊氏の九州鎮定に従う。1350年-1352年、観応の擾乱で尊氏に従い、足利直義方の実相院・増基を退け武家護持僧の筆頭。連歌作者、歌人。醍醐では賢俊の下、度々、連歌会の月並会が催されていた。
◆光済 南北朝時代の真言宗の僧・光済(こうさい、1326-1379)。柳原資明の子。叔父の醍醐寺座主・賢俊の弟子、三宝院門跡を継ぐ、座主、東寺長者を兼ねた。1374年、奈良・興福寺衆徒の強訴をうけ、朝廷により播磨に流された。復帰し、1375年、大僧正。
◆満済 室町時代の真言宗の僧・満済(まんさい、1378-1435)。大納言二条師冬の子。母は聖護院坊官法印源意の娘。足利義満の猶子。醍醐寺報恩院隆源の門に入り得度、1395年、18歳で醍醐寺座主、三宝院門跡。1399年、法印、1409年、大僧正、東寺一長者、寺務を兼ねる。1428年、准三后を宣下された。義満・義持・義教と3代の室町殿護持僧。宿老会議の座長役として「黒衣の宰相」ともいわれた。当時の政治史となる『満済准后日記』を著す。
◆義演 安土・桃山時代-江戸時代初期の真言宗の僧・義演(ぎえん、1558-1626)。京都に生まれた。父は関白・二条晴良、母は伏見宮貞敦親王娘・位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子。1569年、醍醐寺に入り、深応、雅厳に師事する。1571年、報恩院・雅厳を戒師として得度、1573年、両界次第、簿次第を受ける。1576年、紀州・根来寺座主、醍醐寺座主、1579年、大僧正、1585年、准三后の宣下、1586年、雅厳より伝法灌頂を授けられ、1591年、付法状を受けた。1588年、聚楽第行幸に際し仙洞で仏眼大法を修した。1591年、豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮で不動護摩、1592年、朝鮮出兵の戦勝祈念に東寺で仁王経大法を修した。1594年、東寺長者、法務などを歴任。秀吉との関わり深く、1598年、方広寺大仏開眼供養で呪願師を務めた。1623年、中絶していた後七日御修法を再興する。
 応仁・文明の乱(1467-1477)後の荒廃していた醍醐寺の復興を行う。当寺の聖教の書写整理を成した。『醍醐寺新要録』、庭園作庭行程も書かれた『義演准后日記』(1596-1626)などを著した。
◆長谷川等伯 安土・桃山時代-江戸時代の画家・長谷川等伯(はせがわ とうはく、1539-1610)。長谷川派の祖。父は能登畠山家家臣・奥村文之丞宗道。染め物屋を営む長谷川宗清の養子となる。義父から絵を教わる。雪舟門弟・等春の弟子・宗清に学び、1564年、信春(しんしゅん)と称し、熱心な法華信徒として仏画「十二天像」を描く。1571年、養父、養母が亡くなり、本法寺を頼り妻子と共に上洛、狩野 永徳に入門するが後に出る。千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結ぶ。大徳寺塔頭・三玄院事件により世に認められ、長谷川派は狩野派に拮抗した。1579年、妻を失う。1589年頃、大徳寺の牧谿(もっけい)画と出遭う。1590年、仙洞御所対屋障壁画を、京都所司代・前田玄以は等伯に描かせようとする。だが、永徳は勧修寺晴豊によりこれを覆した。1590年、永徳は急逝した。1591年、等伯は秀吉が愛息を弔うために建てた祥雲寺障壁画を手掛け、長谷川派を確立した。1599年、亡き子・久蔵菩提のために「仏涅槃図」を完成させた。「自雪舟五代」と署し、雪舟画系であるとした。1604年、法橋、 1605年、法眼に叙される。1610年、家康に招かれ江戸に着き没した。
◆賢庭 安土・桃山時代-江戸時代の庭者・賢庭(けんてい、生没年不詳)。詳細不明。醍醐三宝院の作庭に関わる。義演准后の日記中、1602年に登場する。また、後陽成院(第107代)が「天下一の上手也」と称えた。小堀遠州配下となり、内裏、仙洞御所、金地院、加賀藩前田家の作庭などに携わった。高台寺塔頭・円徳院北庭を作庭したとされる。醍醐三宝院の庭に関わった「与四郎」と賢庭は同一人物ともいう。
◆石田幽汀 江戸時代の画家・石田幽汀(いしだ ゆうてい、1721-1786)。名は守直。播磨国明石に生まれる。京都の石田家の養子。鶴沢探鯨に学び、禁裏絵師、法眼に叙せられた。休務寺に葬られた。鶴沢派の技法を基礎に、写実性を加味して装飾的な画風を確立した。門下に円山応挙、田中訥言、原在中など。代表作に「草花図屏風」(三時知恩寺)、醍醐寺三宝院襖絵。
◆呉春 江戸時代の画家・呉春(ごしゅん、1752-1811)。京都の金座年寄役松村匡程の長男。当初は家業を継ぐ。大西酔月に画を学ぶ。後に与謝蕪村門人になり俳諧、画を学ぶ。1781年、妻、父没後、摂津の池田で剃髪、1782年、呉春と改名した。1789年頃、京都に戻り、円山応挙に近づく。1787年、応挙一門による但馬・大乗寺の襖絵制作に参加し、「群山露頂図」を描く。大通寺に葬られ、のち金福寺に改葬された。一門は四条派と呼ばれた。
 南画様式に円山派の画法を取り入れた。大乗寺襖絵「耕作図」、妙法院白書院襖絵「山水図」、醍醐寺三宝院襖絵「泊舟図」がある。
◆真言小野流
 真言密教の真言小野流は、広義には醍醐寺・聖宝より起きた流派であり、聖宝を始祖(元祖)、仁海は流祖とする。聖宝の後、観賢、仁海、成尊と続く。その後、範俊、義範で2流に分かれ、後に、さらに3流ずつに分かれた。流派により事相(じそう)といわれる行法(灌頂、護摩、観法など)の実践が異なる。口頭で教義などを伝授する口伝為本(くでんいほん)とした。
 真言小野流とは、狭義には根本6流、また、随心院流のみとされる。また、狭義の小野流として「小野三流」があり、「勧修寺三流」(随心院流、安祥寺流、勧修寺流)とされる。広義の小野流として「小野六流」があり、これに「醍醐三流」(三宝院流、理性院流、金剛王院流)が加わる。醍醐三流はいずれも三宝院開基・勝覚の弟子になる。三宝院流は三宝院2世・定海(醍醐寺15世)、理性院流は理性院賢覚、金剛王院流は金剛王院聖賢による。 
 別流として、仁和寺を中心とした洛西の広沢流がある。小野流、広沢流の両流を合わせて「野沢(やたく)十二流」と呼ばれた。野沢もまたさらに36流、100流ほどに分かれた。
◆座主房 12世紀(1101-1200)半、三宝院において座主房組織が確立する。定海、弟子・元海の代になる。以来、中世(鎌倉時代-室町時代)を通じて継続された。
 大別して教学部門(君達、児共、修学者など)と実務部門(侍、内侍、中童子、台所機関の御厨子所、大童子、執務機関の政所<鎌倉時代初期に再編>、舎人、牛飼など)に分かれていた。
 なお、三宝院には経蔵があり、座主が相伝した秘曼荼羅、書籍などを納めた。座主門弟が管理していた。宝蔵には、醍醐寺寺家の文書が納められ、三宝院三綱(醍醐寺三綱を兼任)が管理していた。
◆仏像・木像 ◈「弥勒菩薩坐像」(重文)(112㎝)は、護摩堂(本堂、弥勒堂)の本尊として安置されている。鎌倉時代、1192年、快慶(生没年不詳)の最秀作、初期作であり、美仏として知られる。
 膝裏に「建久六年(1195年)」の墨書銘があり、醍醐寺座主の命により快慶が造立したことが確認された。かつて、上醍醐の岳洞院の本尊として安置されていた。
 結跏趺坐、着衣、衣紋が左右相称の金泥塗最古、基準作として知られている。五智宝冠を戴き、瓔珞で飾る。手に五輪塔を持つ。木造、金泥、玉眼。
 ◈脇仏は右に「弘法大師」、左に開祖「理源大師(聖宝)」を安置する。
◆建築 安土・桃山時代を代表する建物は、1598年、豊臣秀吉により増改築された。建物はほぼ東西に繋がる。
 順路に従うと西より大玄関(重文)に続いて、楓間、桜の間、葵の間(重文)、秋草の間(重文)、勅使の間(重文)、泉殿、下段間、表書院(国宝)、中段間、上段間、坪庭の東に純浄観(重文)、さらにその東に本堂(護摩堂、弥勒堂)(重文)、その北に五社明神の拝殿と本殿、また近くに聖天堂が祀られている。純浄観の北西に宸殿(奥書院)(重文)、その北東に茶室「松月亭」、新居間、その西に庫裏(重文)、槍の間などがある。
 ◈「玄関」は、切妻造、本瓦葺。
 ◈「勅使の間」(重文)は、一重切妻造妻入、本瓦葺、一重唐破風造、桧皮葺車寄付。
 ◈「表書院」(国宝)は、殿舎中央に南面して建つ。書院造の上段の間(柳の間)、中段の間(二の間)、下段の間(三の間、次の間、揚舞台の間)がある。「次の間(揚舞台の間)」27畳は、畳を上げると能舞台に変わる。西南に中門廊がある。表1間に広縁、勾欄の縁、階段、上は軒唐破風、切妻造、西南に軒唐破風の泉殿が付き、2方吹き放しの寝殿造も取り入れる。12間5間、書院造、入母屋造、桟瓦葺。
 ◈「泉殿」は、表書院の西南にある。入口は板唐戸で、書院に通じる。東・南は吹き放し、書院造風、切妻造、軒唐破風。
 ◈「純浄観(じゅんじょうかん)」(重文)は、櫓の上に建てられている。豊臣秀吉の「醍醐の花見」の際の御殿として、上醍醐の槍山に建てられたものを移したという。池が床下に廻り込んで建てられている。当初の襖絵は失われている。書院造、入母屋造、茅葺、杮葺庇。
 ◈「本堂(護摩堂、弥勒堂)」(重文) は、東の端にある。本堂の裏に護摩壇がある。本尊の弥勒菩薩坐像を安置する。5間3間、入母屋造、桟瓦葺。
 ◈「宸殿(奥書院)」(重文)は、北にある。江戸時代初期に建てられた。4室ある。上座の間(10畳、床、棚・付書院、帳台構)、床(1間半)に西湖図の楼閣山水を描く。武者隠の間(帳台構)(8畳、1間の床・付書院<吹寄せ組子の障子、花狭間の欄間、鉄線文様が施された金具>)、次の間(10畳)、次の間(8畳)、ほかに北に10畳、4畳(押入付)、4畳半がある。東西南に入側が廻る。
 上座の間の東にある透し彫りの違棚(1間)の「醍醐棚」は、「天下の三大名棚」(ほかに、修学院離宮の霞棚、桂離宮の桂棚)のひとつに数えられている。二段の棚板が壁から離され、棚脇、後辺に花模様の透かし彫り板、棚の境に支脚を立てる。上方小襖4枚を入れた火頭窓、上に花狭間の欄間がある。
 入母屋造、桟瓦葺、他の建物より低地に建てられている。かつて檜皮葺だったとみられている。妻に狐格子に梅鉢懸魚。
 ◈茶室「松月亭」は宸殿の北東、池の畔にある。江戸時代に建てられた。四畳半、南に躙口、東に円窓、棗形(なつめがた)の手水鉢が池中に据えられている。切妻造、杮葺。
 ◈「新居間」は、宸殿の北にある。門跡御座間であり主室(6畳)、鞘の間(4畳)、茶室(3畳)がある。
 ◈茶室「枕流亭(ちんりゅうてい)」は、純浄観の南東、池東にある。安土・桃山時代、1598年、庭園整備の際に藤戸石とともに聚楽第より移されたという。近代、1934年の台風災禍の後、新材に取り替えられた。三畳に半間の床、二畳大目の水屋、二畳と板張の部分の勝手による。
 ◈「庫裏(白書院)」(重文) は、新居間の西にある。3室ある。奥の間に床、違棚、黒漆塗りの床框(とこかまち)は秋草と虫の蒔絵で飾られている。
 
◈「唐門(からもん)」(国宝)は、安土・桃山時代、1599年に建立された。旧伏見城の遺構という「五七の桐」文を付けた二つの扉、その両脇に、「複弁十二葉の菊花文」の彫刻がある。朝廷よりの使者のみが門を通ることが出来た。創建時には黒漆が塗られ、菊、太閤桐は金箔が施されていた。2010年に修復された。3間1戸、平唐門は、唐破風が両側にある。3間平唐門としては珍しいに例になる。檜皮葺。
◆障壁画 江戸時代後期の絵師・石田幽汀(1721-1786)筆の「葵祭図」の障壁画が描かれた葵の間 、長谷川等伯(1539-1610)筆ともいう秋の七草の風景「秋の七草図」が描かれた秋草の間がある。
 等伯に連なる一派によるとみられる安土・桃山時代の32面「竹林花鳥図」の勅使の間がある。
 表書院には40面ある。上段十五畳の間(上段の間、柳の間)には、等伯筆という「四季柳図」が描かれている。中段の間には山野風景が描かれる。大床に老松の貼付絵がある。また、上段、中段は等伯一派の筆ともいう。下段の間には幽汀の孔雀と蘇鉄の障壁画がある。
 宸殿上座の間は西湖図の「山水図」、違棚上天袋に琴棋書画図、武者隠の間に「山水・人物画」、10畳、8畳に「花鳥図」。
 純浄観には、現代の堂本印象(1891-1975)筆の「花鳥図」「水墨画」がある。浜田泰介(1932-)筆の桜、紅葉の障壁画がある。
 新居間は、門跡御座間であり主室(6畳)、鞘の間(4畳)、茶室(3畳)がある。塩川文麟(1801-1877)筆「海浜図」の襖絵がある。
 晩年の四条派の始祖・呉春(1752-1811)筆の紙本墨画淡彩「泊舟(とまりぶね)図」4面襖絵(京都市有形文化財)がある。江戸時代、文化年間(1804-1818)初めの作という。冬場早朝の靄の中、岸辺に止められた無人の4舟が描かれている。
 庫裏(白書院)は3室ある。奥の間に床、違い棚、床框に秋草と虫の蒔絵で飾られている。
 大玄関に、現代の日本画家・浜田泰介筆の斬新な襖絵「松と桜」「月と桜」「日と桜」などがある。また、純浄観に浜田泰介筆の桜、紅葉がある。
◆文化財 本堂に、江戸時代の仏師・吉野右京種久作の空海像、聖宝像がある。
 秀吉が好んだという黄金「天目茶碗」は、木地に金板を張る。口縁より胴にかけて波が金で表現されている。
◆庭園 庭園は池泉舟遊式観賞式になっている。当初、室町時代に作庭された際には池泉舟遊式庭園だった。その後、兵火により荒廃した。
 現在の庭は、安土・桃山時代‐江戸時代の作で、国の特別名勝、特別史跡(1952)に指定されている。東西100m。(東西60m、南北35mとも)。大玄関より進むと、西から葵の間、秋草の間、勅使の間、表書院、純浄館、護摩堂に面している。手前は白砂に芝、その奥に池泉の南大池、西小池、石組、寝殿正面築山、東山、滝山、西向きの山、蓬莱島、二つの滝、植栽が広がる。
 1598年2月20日に豊臣秀吉自ら縄張(設計)をし、庭奉行・新庄越前守(竹田梅松軒とも)の普請により、造園はわずか36日(4月7日-5月13日)の突貫工事で終了した。当初は、座観式庭園だった。秀吉亡き後、醍醐寺座主・義演准后が、常御所南庭を中心に1599年より20数年も作庭を続け、回遊式庭園を完成させた。また、仙、与四郎とその兄弟3人、1608年-1611年には後陽成院が「天下一の上手」と称えた賢庭らの庭者も関わる。彼らは、伏見の太閤御所の作庭にも加わった。
 築山は白苔により、富士山の冠雪を表現したという。義演は、大改修時に、護摩堂と寝殿の間に、1602年に池を造る。この時、石橋として旧灌頂院滝組の海石(青石、結晶片岩)が使われた。義演、賢庭は純浄観奥に、1615年に三段の滝石組を組んだ。各三尊石組による滝と、その前の池中に水分石が据えられている。滝はかつて二段式でり、三段に改修したという。滝は「く」の字形に右、左、右に落され、滝前に水分け石(鯉石)が組まれている。さらに、純浄観南東に小さな二段の滝がある。静寂の中に滝音があり、聴く庭にもなっている。
 池泉は、版築の工法により築造された。護岸石を据える際に、粘土に小石を混ぜたものを搗き固めた。池には3つの中島が造られている。鶴亀蓬莱形式であり、表書院前右手に鶴島があり、羽根石が立ち傘作りの姫小松が植えられ、右手に板橋が架かる。羽根石前に三尊石が組まれている。そのすぐ左にある亀島に石橋が架かる。亀島の左端に亀尾石、そのほか亀頭石、亀甲石が置かれ三尊石に組まれている。樹齢600年以上という五葉松(姫小松とも)が植えられている。亀島は左に石橋が架かる。
 中島には、表書院正面の反った独特の台形の苔と柴の土橋(刎橋形式、側径間の桁が中央に迫り出し、中央径間の桁を載せる)など8つの石橋、板橋、木橋、土橋が架けられている。このうち苔の橋は3つ、石橋は4つ架かる。かつて義演は、1623年より一年をかけ10橋以上を架橋した。
 庭の中心、奥宸殿正面には、1598年に立てられた、「覇者の証」といわれた主人石「藤戸石(ふじといし/ふじどいし、千石石)」(地上高1.8m、幅1.1m、奥行1m)がある。現在は左右の脇石に挟まれて立ち、阿弥陀三尊を表すとも秀吉の位牌石ともいう。正面よりは長方形に見えるが、側面に廻ると三角形を成す。この変輝緑岩は、倉敷の藤戸産の「浮洲岩」(1645)ともいわれる。異説もある。石の表面の模様が、藤の花のようであることからこの名で呼ばれた。石は奥宸殿上段の間より、純浄観の縁台に坐し、その隙間を通して見通す。石は、かつて細川氏綱邸から織田信長により、足利義昭の二条第へ移された。さらに、1586年に秀吉が聚楽第に移し、1598年に新庄越前奉行の下、300人の人夫により三宝院に移された。ただ、醍醐の花見にこの石の搬入は間に合わなかった。そのほかにも、庭には海石、多くの名石が据えられ、石の総数は700個(1459個とも)にもなるという。
 表書院前の白砂には、「賀茂三石」が連なって据えられている。左手は、上流域の鴨川の流れの速さを表す。中は中流域の淀み、右手は下流域の水が砕ける様を表すという。東側には、江戸時代中期以降の茶室「枕流亭」が建てられ、枯山水の石組が組まれている。
 秀吉は、庭園の完成を見ることなく亡くなる。豊臣家廃絶後、築山、藤戸石の背後に、豊国稲荷大明神の分霊が祀られた。築山は、須弥山を表す石組になる。
 植栽は、クスノキ、ヒノキの大木、モミジ、マツ、ソテツ、唐門内白砂には樹齢50年というシダレザクラが植えられている。
 護摩堂前の白砂と苔の庭は、近代に作庭された。「酒づくしの庭」という。苔地は瓢箪、大きな円形は盃を表すという。
 境内西に池泉回遊式の庭園「憲深林苑」が造られている。
◆藤戸石 秀吉は聚楽第に名石の「藤戸石」を運び込んだ。その名は謡曲「藤戸」に由来する。
 平安時代、1184年、源平合戦は倉敷と対岸の藤戸で繰り広げられた。源範頼の軍勢に対し、平行盛の軍は小島湾の藤戸に布陣する。平氏が周辺の船をすべて取り上げたため、源氏方の佐々木盛綱は馬で海の浅瀬を渡り攻めようとし、地元の漁民にその場所を聞き出した。だが、平氏方に秘密が漏れることを封じるために、漁師は殺害される。息子を失った漁師の老婆はその恨みを述べる。漁師は藤戸石の上で殺されたともいう。石は、「浮州(洲)岩」といわれた巨岩ともいう。
 石は「源氏の勝利石」として京都に運び込まれた。その後、室町時代の管領・細川氏の屋敷に置かれた。織田信長は、細川の屋敷より移し、二条第(武家御城)の15代将軍・足利義昭に献上する。1573年に二条第は破却され、その後の行き先については不明とされている。
 1586年、秀吉により聚楽第に運び込まれる。聚楽第破却後、1598年、秀吉は後陽成院行幸に備え、醍醐・三宝院庭園に移し、当院にいまも据えられている。その行幸を迎えることなく、秀吉は急逝した。
◆豊国明神社 庭園の中央付近、藤戸石の右手、築山に西向きに豊国明神社が祀られている。1600年に義演が東山の阿弥陀ヶ峰に創建された豊国社より、豊国大明神を勧請した。三宝院、醍醐寺再興に貢献した秀吉の恩に報いるためという。1615年、豊臣家滅亡後も、義演は密かに18日の月命日には社頭に神供を供え続けた。
 なお本堂北には、五社明神と拝殿がある。
◆茶室 庭園の東南の築山に茶室「枕流亭(ちんりゅうてい)」が建つ。当初のものは、安土・桃山時代、1598年に聚楽第より移されたという。豊臣秀吉好みとされる。ただ、江戸時代中期ともされる。現在の建物は、1934年の台風後に修復され新材に替えられている。
 上段の間は三畳半間の床、東に貴人口(障子2枚)、北に半間の板床があり、柱には棕櫚、栗の材が使われる。窓は西に中窓、南に連子窓、下地窓がある。中段の間との間に杉磨小丸太の格子の欄間がある。中段の間(水屋の間)は、三畳、板畳の二畳台目であり、東に流しがある。東に落縁・外は木連戸、内部の出入口上に丸い下地窓、左の流し上に下地窓、連子窓、棚がある。控え間は二畳(板畳、板の間、土間)。二間四間、入母屋切妻造、こけら葺。
 宸殿の北東、池の畔に4畳半の茶室「松月亭(しょうげつてい)」がある。江戸時代末の建立と見られている。本勝手四畳半切の主人床になる。宸殿より茶室に入るには、西の落間の合い間(一畳半)を経る。南に躙口、中窓、地窓、東に大きな円窓、南に濡縁。切妻造、杮葺。
 茶室の南に、棗形の手水鉢が池中に据えられている。水中蹲踞とも呼ばれ、手を洗った水は池に落とされる。 
◆修験道 修験道中興の祖・醍醐寺開山の聖宝により、三宝院は、修験道行者の拠点になっており、門跡は行者の統率者を務める。
 「三宝院門跡大峯山花供入峰(はなくにゅうぶ)修行」(6月6日-9日)が催され、参集した山伏は、大峯山で修行を行い、小笹の道場で柴灯(さいとう)護摩が焚かれる。
◆金剛隊 長州の一向僧らで組織された金剛隊は、1864年7月19日の禁門の変に参戦する。6人が興正寺に逃げ延び、寺で一夜を明かした。翌日、僧姿で三宝院に落ち延びる。7月26日、新撰組は6人を捕縛し、六角獄舎に投獄した。
◆桜 境内には、樹齢150年以上という枝垂桜がある。秀吉による醍醐の花見の際に植えられた枝垂れ桜の子孫という。「土牛の桜」と呼ばれたのは、日本画家・奥村土牛(1889-1990)の作品「醍醐」の写生木になったことによる。
 近年、樹勢が衰えていた。2001年、「土牛の桜」のクローン桜「太閤千代さくら」の開花に成功した。大玄関前に植えられている。
◆修行体験 写経会(毎月第3日曜日9:00-12:00、正午より法要・法話。)。


*大部分の建物、室内、庭園は写真撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 6 醍醐寺』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の古寺大巡礼』『洛東探訪』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『古都の美をめぐる』『事典 日本の名僧』『京都・世界遺産手帳 9 醍醐寺』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都府の歴史散歩 中』『京都古社寺辞典』『洛東探訪』『京都市の指定文化財 第5集』『京都おとくに歴史を歩く』 『京の橋ものがたり』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『京都で建築に出会う』『秀吉の京をゆく』『新選組と幕末の京都』『国宝への旅 2』『京の茶室 東山編』『京都奈良の世界遺産』『京都 古都の庭をめぐる』『週刊 日本の美をめぐる 37 リアルに描く円山応挙』『週刊 日本庭園をゆく 10 京都洛南・宇治・南山城の名庭 醍醐寺 三宝院 平等院』『週刊 仏教新発見 12 醍醐寺 仁和寺』『週刊 古寺を巡る 33 醍醐寺』『週刊 仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』


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