尊攘堂 (京都市左京区)  
Sonjo-do
尊攘堂 尊攘堂
50音索引,Japanese alphabetical order    ホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical order    Home























【参照】京都大学北部構内遺跡、縄文時代晩期の甕に納められた人骨(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の説明板より)
 京都大学本部構内の一角に、擬洋風建築の「尊攘堂(そんじょうどう)」が建つ。
 江戸時代後期の思想家・尊王論者・吉田松陰は生前に、京都に全寮制の大学創設を望んでいたという。松下村塾門下だった品川弥二郎がその遺志を汲み、尊攘堂を創設した。 維新の志士関連資料が集められる。弥二郎の没後に資料は京都帝国大学に寄付され、構内に尊攘堂が移転新築された。
◆歴史年表 江戸時代、1859年、吉田松陰は安政の大獄に連座して投獄される。刑死の1週間前に、「松下村塾」の門人・入江九一に、京都に大学校を興すとの志を記した書状を送る。
 
1864年、九一は松陰の遺志を果たせず、禁門の変で倒れた。
 近代
、1887年、松下村塾の門人・品川弥二郎は、偶然に師・松陰の書状を手に入れる。邸宅(下京区高倉通錦小路上ル、大丸京都店北側)を買い取り、「尊攘堂」を創設する。 維新の勤王志士を記念し、その霊を祭祀した。関連資料を収集した。
 1900年、弥二郎の没後、「攘堂尊保存委員会」、松陰門下の政治家・松本鼎(まつもと かなえ)、弥二郎の息子・華族・実業家・弥一らは、尊攘堂の所蔵品を京都帝国大学に寄贈し、建設資金も大学に寄付した。
 1903年、4月、大学構内に現在の尊攘堂が移転新築される。以後、委員会との協定に基づき、松陰忌(10月27日)、弥二郎忌(2月26日)には、例祭が営まれ所蔵品は一般公開された。
 1920年、尊攘堂の例祭は、秋の小祭(年1回)、大祭(3年に1回)に変更される。
 1940年、10月、皇紀2600年を記念し、尊攘堂の石標が建物の脇に立てられる。
 1944年、尊攘堂の所蔵品の一般公開が終わる。
 現代、1945年、尊攘堂での最後の例祭が行われた。 8月21日、連合国軍総司令部(GHQ)の追及を恐れ、大学当局は尊攘堂の石標を撤去する。尊攘堂の名は「図書陳列館」に改められる。(『京都大学附属図書館六十年史』) 。戦後、尊攘堂は事務室などに使われる。
 1989年以来、尊攘堂は「埋蔵文化財研究センター」の資料室として使われた。
 1998年、尊攘堂は国の登録有形文化財(建造物)として登録される。
 2008年、埋蔵文化財研究センターの改組に伴い、尊攘堂に、「文化財総合研究センター」が設置された。
 2013年、3月1日、構内の駐車場造成工事に伴い、尊攘堂の石標は本部構内で偶然に発見された。
 2014年、12月、尊攘堂の石標は現在地に復旧される。
 2018年、6月18日、尊攘堂の建物は、大阪府北部地震により一部が被災した。
◆吉田松陰 江戸時代後期の思想家・尊王論者・吉田松陰(よしだ しょういん、 (1830-1859)。名は矩方(のりかた) 、通称は寅次郎、号は二十一回猛士。長州藩士・杉百合之助の次男、母は滝。5歳の時、叔父・吉田大助の養子になる。山鹿流軍学を継ぎ、山田宇右衛門、山田亦介に兵学を学ぶ。1838年、9歳の時、藩校「明倫館」で山鹿流兵学の講義をした。以来、毎年教授する。1844年、藩主に講義する。1848年、明倫館師範になり、館再興の意見書を提出した。御手当御用掛になり、山陰海岸の砲台を巡視し、海防についての報告書を提出した。1850年、兵学研究のために長崎に遊学する。会沢正志斎、安積艮斎らに学ぶ。1851年、江戸に出て、山鹿素水、佐久間象山に経学、兵学を学ぶ。来航中の米ペリーの黒船(軍艦)を視察した。脱藩し、宮部鼎蔵と東北を旅した。1852年、帰藩時に、亡命の罪により士籍・禄高を没収された。1853年、許され、再び江戸に行き、象山に洋学を学ぶ。1854年、浦賀に再度来航したペリーの軍艦に乗り込み、同志・金子重之助と海外渡航を企てる。失敗し、幕府に自首した。江戸伝馬町に投獄される。幕府は松陰を萩に送り、野山獄に投獄される。1855年、出獄し、実父の杉家に預けられ、講義を始める。叔父・玉木文之進の私塾「松下村塾」は、隣家にあり、外叔・久保五郎左衛門に引き継がれていた。それを松陰が継ぐ。1857年、松陰が塾の主宰者になる。下級の家臣、町人などが学び、尊攘派の拠点になる。塾は長州藩によって公認された。1858年、日米修好通商条約調印の勅許、将軍継嗣問題を巡り討幕論を唱える。老中・間部詮勝の暗殺を画策した。1859年、幕府は藩府に松陰の江戸送致を命じた。松陰は、安政の大獄に連座し、伝馬町の獄で刑死する。遺骸は門人により小塚原・回向院の下屋敷、常行庵に葬られた。著『孟子』の注釈書『講孟余話』がある。30歳。1889年、贈正四位。
 松下村塾では2年半余りに、松陰の尊皇攘夷思想、兵学、儒学、漢学、歴史、国学、地理、史学などが教授されている。門下の「松門四天王」に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一がいる。その門下に、伊藤博文、山県有朋、桂小五郎(木戸孝允)、井上馨など数多い。
 墓は松陰神社(東京都)にある。
◆入江九一
 江戸時代後期の長門萩藩士・入江九一(いりえ くいち、1837-1864)。中間(ちゅうげん)・野村嘉伝次の子。吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷の運動に参画した。1859年、松陰の指示により活動し、弟・和作と共に藩により投獄された。1863年、尊王攘夷に転じた藩により、終身士雇に登用された。高杉晋作らの下関での奇兵隊設立に加わる。1864年、禁門の変で、上京藩士の幹部として鷹司邸内で戦う。銃弾により重傷を負い、切腹した。28歳。
 松下村塾の「松門四天王」の一人に数えられた。ほかに、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿がある。
◆品川弥二郎
 江戸時代後期-近代の長門萩藩士・政治家・品川弥二郎(しながわ やじろう、1843-1900)。名は日孜。長州藩士分の弥市右衛門の子。1857年、吉田松陰の松下村塾に入り、尊攘運動に関わる。1868年-1869年、戊辰戦争で奥羽鎮撫使総督参謀として転戦した。1869年-1870年、弾正少忠として明治政府に出仕する。1870年、大山巌らと普仏戦争の視察のため渡欧し、プロイセン農政、協同組合を研究した。1871年、英国滞在を命じられる。1872年、外務省書記官、代理公使としてドイツ駐在する。1873年、ドイツ・ベルリン公使館に勤務した。1875年、帰国し、内務大丞、大書記官を歴任する。1876年、権大史兼内務大丞、1877年、内務大書記官、1879年、地理局長、1880年、内務少輔、1880年、兼勧農局長、1881年、農商務省の新設に伴い農商務少輔になる。大日本農会、共同運輸会社の設立に尽力した。1882年、農商務大輔になる。1885年-1887年、駐ドイツ公使、1887年、帰国後は枢密顧問官、宮中顧問官を歴任、宮内省御料局長を兼任した。1888年、枢密顧問官、宮中顧問官、1889年、兼御料局長、1891年、第1次松方正義内閣の内相になる。1892年、第2回総選挙で大選挙干渉を行い、民党議員の選出を阻止し失敗した。世論の批判により辞任する。再び枢密顧問官に就く。西郷従道と国民協会を創立し副会頭になる。1899年、再再度、枢密顧問官に任じられ、党務から離れた。子爵。
 1868年、鳥羽・伏見の戦で官軍が歌った「トコトンヤレ節」の作詞者になる。産業組合運動の先覚者とされた。独協大学は、1883年、品川が開設した独逸学協会学校を起源にしている。
◆松本鼎 長州藩士・政治化・松本鼎(まつもと かなえ、1839-1907)。鼎造。周防国生まれ。生家は農家、仏門に入る。吉田松陰の松下村塾に入る。還俗し長州藩士として、1864年、禁門の変に従軍した。敗戦後、御楯隊に加わる。1865年-1867年、第二次長州征伐で戦う。1868年-1869年、戊辰戦争に従軍した。1869年、箱館府監事。1871年、大阪府大属になり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官を歴任した。1878年、熊本県大書記官、和歌山県大書記官。1883年、和歌山県令、1886年-1889年、和歌山県知事。1890年、元老院議官に就任し、衆議院議員。1892年、貴族院勅選議員。男爵。
◆品川弥一 近代の華族・実業家・品川弥一(しながわ やいち、1870-1924)。品川弥二郎の長男。1885年、畜産研究のためにドイツ留学した。帰国後、農商務省牧場総督官補になる。後、北海道に改進社牧場を開く。子爵。
◆建築 ◈近代、1887年、品川弥二郎は、下京区高倉通錦小路上ル(大丸京都店北側)の700坪(2314㎡)の邸宅を購入し、初代の「尊攘堂」を建てた。維新の勤王の志士を記念し、霊を祀り祭典を営んだ。木造、平屋建。
 ◈2代目の尊攘堂である現在の建物は、近代、1903年に建設資金の寄付により京都帝国大学構内に移転新築されている。1998年に国の登録有形文化財に登録された。
 東面して建てられている。煉瓦造スタッコ塗り(セメントモルタルなどの塗り材を、木片などで叩いて引き起こした仕上げ)、破風付き窓、小屋根、切妻の鉄造の玄関ポーチがあり、開口部などに平易な意匠が施されている。内部には左右対称平面、長方形の広間1室がある。一段高い小室が奥にあり、扁平なアーチが見られる。中央広間の天井には漆喰装飾、照明に唐草装飾が施されている。
 擬洋風建築、煉瓦造、漆喰塗、平屋建、寄棟屋根、 瓦葺、建築面積172㎡。
◆維新特別資料 京都大学附属図書館に、尊攘堂旧蔵の「維新特別資料」が収蔵・保管されている。
 品川弥二郎は、私財を投じて志士の書簡、史料など蒐集した。これら尊攘堂旧蔵の維新資料は、弥二郎没後の1900年に「攘堂尊保存委員会」より京都帝国大学に寄贈された。当初は尊攘堂に保管され、太平洋戦争(1941-1945)中に、資料は疎開になる。その後、附属図書館に移された。所蔵品総数は984点あり、維新資料554部2169冊になる。
 「維新特別資料」は、松陰の書翰、上書、稿本などの遺墨、吉田松陰画像附松陰自賛、吉田松陰木像などのほか、松下村塾の高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山県有朋の墨蹟遺品、そのほか皇族、藩主、志士などの書簡、軸物、写真、肖像、木像、尊攘堂史料、尊攘堂蔵品、刀剣、屏風張交などに分類されている。 
 現在は、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「維新特別資料文庫」より、一部は検索・閲覧できる。
 ◈貴重資料の一例として「奇兵隊日記文久3年至明治2年」、「奇兵隊寄合書」の原本がある。長州藩士・高杉晋作(1839- 1867)らが、1863年に創設した山口藩奇兵隊の記録であり、全29冊(第25冊、第26冊欠)になる。1864年の英仏米蘭四国軍艦の下関砲撃、1866年の小倉戦役などが記されている。
 ◈「坂本龍馬書状」は、1865年に下関に滞留中の坂本龍馬(1836-1867)が、長府藩士・印藤聿(いんどう のぼる、豊永長吉、 ?-?)に送った。軍艦「乙丑丸(いっちゅうまる)」(300t)の契約改訂のために長州・山田宇右衞門、長州・中島四郎らが訪れたことなどが記されている。船は、1865年に長州藩がグラバー商会の仲介により、薩摩藩名義でイギリスより購入した。薩摩では船名「桜島丸」と呼んだ。操船は、「亀山社中」が行っていた。(「桜島丸協定」)。
 ◈「薩長芸三藩盟約書草稿」は、鹿児島藩士・大久保利通(1830-1878)の自撰自筆になる。1867年、京都で薩摩・大久保、 薩摩・西郷隆盛(1828-1877)、長州・品川弥二郎、長州・広沢真臣(1834 -1871)、 安芸・辻将曹( 辻維岳 、1823-1894)が会して盟約が成立した。その後、討幕の内勅が下され、1868年の王政復古の端緒が開かれた。
 ◈「松下村塾一燈銭申合帖」は、1863年に、大部分は久坂玄瑞(1840-1864)筆による。1859年の松蔭没後、松下村塾の動向を伝えている。門下生は写本を作り、筆稿料を蓄えた。趣意書、門下生の実績などが記されている。
 ◈「平野国臣紙𦁤(でん/ねん)文字詩歌」は、尊攘派の福岡藩士・平野国臣(1828-1864)による。平野は、1863年に生野の辺で代官所を襲撃し、六角獄舎に収監された。獄中で筆墨が禁じられ、紙に思うところを託した。平野は、1864年、禁門の変の騒擾時に、獄中未決で斬首されている。
 ◈「吉田松陰木像」「品川弥二郎木像」は、いずれも疋田雪洲(ひきだ せっしゅう)作になる。尊攘堂に木像が安置され、松陰忌(10月27日)、(2月26日)の品川忌に慰霊祭が行われていた。
 ◈暗殺された武士・思想家・佐久間象山(1811-1864)は、カメラも所持し、写真技術も学んだ。遺骸の懐中には、暗殺された当日、写真師・大坂屋与兵衛に教えられた湿板写真の薬方を記した絶筆の懐紙があった。
◆尊攘堂石標 「尊攘堂石標」は、近代、1940年10月に、皇紀2600年を記念して尊攘堂の玄関脇付近に立てられた。
 現代、1945年8月21日、連合軍に対しての無条件降伏直後に、進駐軍の追及を恐れて撤去された。(『京都大学附属図書館六十年史』) 。 石標は、物置だった施設部の建物に埋められたという。その後、建物が取り壊され、石標の所在が不明になる。
 2013年3月1日、 本部構内の駐車場造成工事に伴う遺跡調査の際に、樹木の根元に放置された石標が発見された。
 石標は、正面に「尊攘堂」、側面に「皇紀二千六百年記念」、もう一つの側面に建物の由来が刻まれていた。 皇紀2600年を記念して作成された『尊攘遺芳』(京都帝国大学編、1941) にも、石標の写真が掲載されていた。
 石標も重要な文化財の一つとして修繕された。2014年12月、建物入口の脇に復旧されている。石標の高さ130㎝、幅25㎝。
◆尊攘堂展示室 尊攘堂広間では現在、資料展示室として、大学構内での発掘調査で出土した 埋蔵文化財調査資料が保存・展示されている。
 ◈「北白川追分町遺跡」は、吉田キャンパスの北部構内にある。 縄文時代中期の竪穴住居跡、 後期の甕棺・配石墓 、 晩期の土壙墓、 埋没林、貯蔵穴、人・動物の足跡などが出土した。考古学者・濱田耕作(1881-1938)が1923年に発見している。
 ◈「弥生時代前期の遺跡」は吉田南構内で水田 、流路が発掘された。本部構内、北部構内でも出土している。北部構内では、弥生時代中期の方形周溝墓が見つかっている。
 ◈「瀬戸遺跡」は、瀬戸臨海実験所構内(和歌山県白浜町)にある。縄文時代晩期-弥生時代前期の土器、人骨が出土した。製塩遺跡であり、石敷炉は濃縮した海水から塩を得ていた。 
 ◈「美月遺跡」は、農学部附属牧場構内(京丹波町)にある。弥生時代中期-後期の水路、土坑が見つかっている。
 ◈「方墳」は、吉田南構内で古墳時代の数少ない遺跡になる。
 ◈「竪穴住居跡」は、本部構内で見つかり、奈良時代になる。
 ◈「古代・中世の鋳造関連の遺跡」は吉田南、医学部構内にある。 平安時代中期の梵鐘鋳造の土坑、鋳型、炉残片が発見された。 北部構内では、緑釉陶器、灰釉陶器などが出土した。
 ◈「白河北殿」北辺は、病院構内南辺に当たり、吉田南、医学部構内には藤原北家勧修寺流の邸宅があった、平安時代の井戸 、溝、土坑などから土師器、瓦器、国内外の陶磁器類が出土している。
 ◈「火葬塚」は、北部構内で発見された。吉田山一帯は、古来より神楽岡の葬地として知られていた。火葬塚は中世のものだった。方形の段を形成し、 皇族級の人物に関わるとみられている。埋め戻し保存され、現地に復元築造している。
 ◈「吉田泉殿跡」は、西部構内一帯にあった。鎌倉時代の太政大臣・西園寺公経(1171-1241)の別邸があり、地名の由来になった。石敷、祭祀遺構が見つかっている。
 ◈「白川道の遺跡」は、本部構内から病院構内にあった。近世に、街道の「白川道」が通じ、荒神口から北東に伸び、「山中越」を経て近江坂本に通じていた。 街道は幕末期以降に分断される。本部構内からは、白川道、中世の道路遺構も見つかった。 路面(4.5m )は、土や石を叩き締めていた。轍跡、側溝、野壺、井戸なども発見された。
 ◈「尾張藩邸跡」は北部構内にあった。
 「土佐藩邸跡(土州屋敷、土佐藩白川邸)」は本部構内にあった。江戸時代末期に土佐藩邸が置かれる。1992年度の発掘調査で、藩邸南限の堀 (幅3m)、藩邸内の井戸、大量の桟瓦が出土した。瓦は刻印から土佐で製造されたことが判明した。向かって左側に袖をもつ右桟瓦、右側に袖をもつ左桟瓦が葺かれ、高知特有の葺き方になる。 
 ◈「蓮月焼」の焼き損じの陶片は、病院構内南辺で出土した。付近は旧聖護院村の北辺にあたる。聖護院村には、幕末-近代にかけて、多くの文人が居を構えていた。歌人・大田垣蓮月(おおたがき れんげつ、1791-1875)は、江戸時代後期、文久年間(1861-1864)、また19世紀中頃にこの地に居住し、自詠の和歌を釘彫りした蓮月焼の茶器を制作した。
 ◈「乾山焼工房跡」は、病院構内にあり、江戸時代、18世紀中頃に2代乾山(尾形猪八、?-?)が制作した。2001年の発掘調査で、 陶片、窯片を多数発掘した。
 ◈「第三高等学校、帝国大学の遺物」は、本部構内・吉田南構内で見つかり、19世紀後半-20世紀前半のものになる。大学の校章を図案化した清水焼の土瓶、茶碗などによる。
◆聖護院村 旧聖護院村は、現在の聖護院河原町、東丸太町、東竹屋町付近であり、江戸時代末には、多くの文人墨客が移り住んでいた。近代、1890年に京都帝国大学が開校されている。
 丸太町通南に書家・画家・貫名海屋(ぬきな かいおく、1825-1900)、画家・中島華陽(なかじま かよう、?-1877)、歌人・高畠式部(たかばたけ しきぶ、1785-1881)、春日通(黒谷通)に、歌人・税所敦子(さいしょ あつこ、1825-1900)、南画家・小田海僊(おだ かいせん、1785-1862)、歌人・大田垣蓮月(おおたがき れんげつ、1791-1875)、南画家・富岡鉄斎(とみおか てっさい、1837-1924)、聖護院蓮華蔵町付近に儒学者・漢詩人・中島棕隠(なかじま そういん、1779-1855)などが住んでいた。


*通常非公開
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「京都大学埋蔵文化財研究センター」、ウェブサイト「京都大学文化財総合研究センター」、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「文化遺産オンライン」、ウェブサイト「京都大学付属図書館」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area北白川廃寺    関連・周辺,relevance&surrounding area吉田泉殿跡    関連・周辺,relevance&surrounding area荒神橋・荒神口    周辺,surrounding area白河北殿跡・保元の乱跡    周辺,surrounding area吉田神社・神楽岡・吉田山    周辺,surrounding area百萬遍知恩寺(知恩寺)   周辺,surrounding area山紫水明処・東山    周辺,surrounding area二条大橋・二条河原    周辺,surrounding area梁川星巌邸跡    関連,relevance吉田松陰拝闕詩碑     関連,relevance佐久間象山・大村益次郎 遭難之碑       
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ  維新特別資料文庫
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
 
map 尊攘堂 〒606-8317 京都市左京区吉田本町 京都大学構内 京都大学文化財総合研究センター phone 075-753-7691
50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top 50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光