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荒神橋・荒神口 (京都市左京区)
 Kojim-bashi Bridge
荒神橋・荒神口 荒神橋・荒神口 
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荒神橋












荒神橋から北の眺望、北山




下流、右奥に比叡山


下流


下流


下流


【参照】旧橋


【参照】旧橋の欄干にあった車石風意匠


飛び石


橋のすぐ上流にある飛び石、亀形、箱形


飛び石


下流、再現された「車道」、「車石」、荒神橋西詰南


【参照】車石、溝に荷車の両輪を入れ川に出入りしていた。御香宮神社。


橋の下流、鴨川の川中に残る橋脚跡


【参照】1875年頃の荒神橋付近の牛荷車、京都府の鴨川の掲示板より


【参照】「荒神口通り」の通り名板


橋の南、河川敷西岸にある大小の地蔵


【参照】旧京都大学東南アジア研究センター、荒神橋の東岸


京都牧畜場跡の碑、京都大学東南アジア研究センター敷地内


「明治天皇行幸所牧畜場跡」の碑(1877年)、京都大学東南アジア研究センター内


鴨川、いまもクローバが群生している。

 荒神橋(こうじん-ばし)付近は、「京の七口」の一つ、「荒神口」「今道の下口」に当たる。平安時代以前より、白川街道、近江山中、坂本につながる山中越の起点になっていた。 
 荒神の名の由来は、付近にある京都七福神の一つ、清荒神(きよしこうじん)護浄院に由来する。火の守護神であり、「荒神さん」とも呼ばれている。
 一帯は、「荒神河原」、通り名から「近衛河原」、藤原道長建立の法成寺に因み「法成寺河原」とも呼ばれた。
◆歴史年表 江戸時代、簡単な仮橋が架けられていた。「銭取橋(ぜにとりばし)」と呼ばれた。個人が所有し、利用者から通行料を取ったことに因んでいる。
 1854年、第121代・孝明天皇は、御所の火災により下鴨神社に避難した。また、桂宮御殿に移る際に架けられたともいう。このため「御幸橋」と呼ばれたという。
 1858年、日米修交通称条約締結に伴い、朝廷は伊勢神宮に奉幣使を遣わすことになった。だが、仮橋が洪水により流出する。荒神口手伝い働き・三文字屋与兵衛らに申し渡し、奉行所も加わり徹夜で仮橋を渡した。翌日、勅使・徳大寺公純は、御所清和門を出て無事に橋を渡り、吉田社を経て伊勢に向かった。(『京都雑色記録』)
 1865年、本願寺寄進により橋が新造の運びになる。
 1867年、竣工し、行幸を想定し「御幸(みゆき)橋」と名付けられる。資金は募集により、広如門主も金1000両を寄進した。(『本願寺史』第3巻)
 1868年、橋の渡り初めが行なわれる。以前は「吉田口新橋」とも呼ばれていた。以後、「勤皇橋」「御幸橋」とも呼ばれる。
 近代、1870年より、京都府は橋の修繕費として、地車1両につき50文の通行料を徴収した。
 1872年、橋の東詰に京都府は牧畜場(牛、羊)を設けた。
 1914年、現在の橋が架けられる。
 1935年、6月、「昭和10年鴨川大洪水」により橋は流失する。
 現代、1953年、荒神橋事件が起きた。
 1981年、橋の北側に歩道の拡張工事が行なわれている。 
◆荒神橋 現在の荒神橋の架設年は、近代、1914年になる。鴨川に架かる橋としては七条大橋に次いで古い。
 橋種は8径間単純PCT桁(PC橋)、橋長110.3m/110m、幅員10.7m/旧7.1m、路線名は春日緯6号線。
◆法成寺 付近の河原は、「荒神河原」、「近衛河原」と呼ばれた。平安京の近衛大路に由来し、現在も「近衛通」という通り名が残されている。この辺りでは、印地という石合戦が行なわれた。
 かつて、鴨川東岸に法成寺という大寺院があり、「法成寺河原」とも呼ばれた。法成寺は、藤原道長(966-1028)が奈良・東大寺に擬して、平安時代後期、1020年に建立している。阿弥陀堂は、中川御堂とも呼ばれる。度々の火災、戦乱、平安時代後期、1185年の大地震により消滅した。
◆山当て 荒神橋付近からは、北山、東山、五山送り火の大文字山が見晴せる。
 橋の東にある大文字山は、「山当て」といわれる景観手法を用いている。視線の先に山が当たり、通りの方向を定めた。古来からの都市計画の一つとされる。
◆車道 鴨川に架かる仮橋は、当初は板を渡した簡単なものだった。そのため江戸時代には、牛車は河原中の「車道(くるまみち、牛道)」を渡河していた。車道には、「車石(くるまいし、輪形石)」が敷かれていた。石にはレール状の2本の溝が刻まれており、牛車の車輪はこの溝に沿って通行していた。これにより、牛車はぬかるむこともなく、重い荷も効率よく運ぶことができた。
 車石は、三条街道(大津街道、京津街道)、鳥羽街道(大阪街道)、伏見街道、竹田街道などでも見られた。単線では、午前中は上り、午後は下り通行に分けられていた。車石の石材は、竹田街道、鳥羽街道など摂津芦屋付近の六甲花崗岩、山城笠置付近の柳生花崗岩が使われている。
 車道の登場は、江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)ともいわれている。溝については、最初から加工されていたとも、自然にできたともいう。現在では後者が有力説になっている。
◆京の七口 荒神口は「京の七口」の一つに数えられた。橋の西にある護浄院(清荒神)に由来する。かつては、「志賀道口」、「今道の下口」、「吉田口」とも呼ばれた。橋の東口は、志賀越道(しがごえみち、今道、山中峠)に通じていた。橋からの古道は、東北方向に直線に進み、百万遍を経て東進し白川口に至った。
 「京の七口」について、「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉(1537-1598)の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)」、「東寺口(坤)」、「丹波口(西)」、「清蔵口(北)」、「鞍馬口(艮)」、「大原口(北)」、「荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口」、「東海道(伊賀伊勢道)五条橋口」、「西海道(九州道)四条大宮口」、「南海道(紀州道)竹田口」、「東山道(近江道)三条 橋口」、「北陸道(若狭道)大原口」、「山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。
 また「鳥羽口」、「伏見口」、「丹波口」、「粟田口」、「八瀬口」、「若狭口」、「長坂口」、「東寺口」、「竹田口」、「五条橋口」、「大原口」、「三条橋口」、「千本口」、「七条口」ともされた。
◆志賀山越 荒神橋の北東方向に「志賀山越(山中越)」と呼ばれる斜めの道が通じている。旧道は、京都大学の吉田構内で分断される形で、北白川、子安観音の前に通じている。さらに、志賀峠、田ノ谷峠を経て近江に向かった。
 平安時代には行幸路になり、近江・崇福寺の参詣路にもなった。「志賀」は歌枕にもなった。室町時代には「今道峠」と呼ばれた。江戸時代後期、1862年に、尾張藩屋敷(現在の京都大学付近)が建てられ道は途切れた。
◆今出川 かつて、「今出川」という小川が流れていた。今出川は、北から流れ下り、現在の今出川通をさらに東へ流れた。ここで「中川」、「京極川」と名を変えた。この中川と鴨川の間、現在の御所の東付近に、平安時代中期、973年、『蜻蛉日記』を著した道綱母が住んでいた。
◆京都牧畜場 近代、1868年の東京奠都後、2代京都府知事・槙村正直(1834-1896)は、京都の復興のために「京都策」を進めた。舎密局、製糸場、養蚕場、栽培試験場、製薬局、授産所など様々な施設を新設する。
 1872年に設立された京都牧畜場は、現在の京都大学病院敷地付近だった。旧聖護院領であり、明治期(1868-1912)初期には鴨東錬兵場敷地に変わる。29000坪(95868㎡)の広さを有していた。
 牧畜場では、洋牛、豚、羊の繁殖が行われた。生乳、牛酪、粉乳、練乳、「テツキミルク」、羊毛などについての授業、生産も行なっていた。前庭には、牧草用として「ダッチ・クローバ」が日本で初めて植え付けられた。白花であり、日本では「おらんだ-げんげ」と呼ばれていた。
 米国カリフォルニア産の牛、羊を買い入れ、ドイツ人が実務の指導を行った。アメリカ合衆国の講師ジェームズ・オースタイン・ウィード(1835-?)は農牧学の講義を行っている。1875年頃には、牛87頭、豚37頭が飼育されていた。後に、丹波の蒲生野(こもうの)に分場が開かれ、農牧学校(1876-1879)も開校している。1877年には第122代・明治天皇(1852-1912)の行幸もあった。だが、経営は困難だった。
 事業は3代府知事・北垣国道(1836-1916)の就任により、わずか数年で事業廃止になり、民間への払い下げが相次いだ。1880年に京都牧畜場も民間に払い下げられる。小牧仁兵衛(1861-?)らが買取し、牛乳店を開業している。
◆旧京都織物株式会社  
荒神橋の東岸に京都大学東南アジア研究センターがある。
 現存の建物は、近代、1887年に設立された旧京都織物株式会社だった。絹織物の日本初の近代的な生産を行っていた。当初は、蒸気力による織機55台、手織機80台、職工は310人で生産され、外国人技師が指導を行った。ただ、経営は安定せず、黒字配当になるには、官僚・実業家・渋沢栄一(1840-1931)が経営に関わるまでの25年の歳月を必要とした。
◆荒神橋事件 現代、1953年、「荒神橋事件」が起きた。
 立命館大学に、彫刻家・本郷新(1905-1980)の製作した「わだつみ像」が到着し、歓迎デモが市中で行われる。京都大学からも150人の学生が立命館大学の集会に向けて出発した。
 荒神橋に差し掛かかり、市警は不法デモとして学生らを阻止した。この時、橋の南側の腐食していた木製欄干が壊れる。10数人の学生が5m下の河原に転落し、重軽傷者が出た。
◆文学 近代の小説家・梶井基次郎(1901-1932)著『ある心の風景』(1926)には、荒神橋付近、鴨川について次のように記されている。
 「川水は荒神橋の下手で簾のようになって落ちている。夏草の茂った中州の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラと鳴っていた。鶺鴒(せきれい)が飛んでいた。」


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、『京の橋ものがたり』、『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』 、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『史跡探訪 京の七口』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都の地名検証 3』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、京都府京都土木事務所資料、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」


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荒神橋付近 〒606-8304 京都市左京区吉田下阿達町
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