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梁川星巌と紅蘭の寓居跡 (京都市左京区) Site of the residence of Mr. and Mrs. Yanagawa |
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梁川星巌と紅蘭の寓居跡 | 梁川星巌と紅蘭の寓居跡 |
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![]() 銘板「梁川星巌と紅蘭の寓居跡」 ![]() 夫妻の銅像がある曽根城公園(岐阜県大垣市)の写真、銘板より |
丸太町橋左岸(東岸)に銘板「梁川星巌と紅蘭の寓居跡(やながわ-せいがん-と-こうらん-の-ぐうきょあと)」が立てられている。 江戸時代後期に、この付近に星巌・紅蘭夫妻が過ごした「鴨沂小隠(おうき-しょういん)」があり、8年ほど暮らした。 なお、近くに同趣旨の石標「梁川星巌邸址」が立てられている。 ◆歴史年表 江戸時代、1846年、梁川星巌は、京都に移り住んでいる。 1849年より、星巌は、頼山陽の「山紫水明処」の川向かい、居号「鴨沂小隠」(川端丸太町上ル東)に8年間過ごした。 1858年、旧9月、星巌は東三本木の「老龍庵(ろうりょう-あん)」で病没している。 現代、2022年、9月2日、霊山顕彰会岐阜県支部・梁川星巌・紅蘭顕彰碑建立委員会の寄贈により、プレートが立てられた。 ◆梁川 星厳 江戸時代後期の漢詩人・尊王論者・梁川 星巌(やながわ-せいがん、1789-1858)。男性。名は卯、孟緯(もうい)、字は公図、伯兎、別号は三野逸民、天谷(老人)、百峰、老竜庵、詩禅、通称は新十郎。父・美濃国(岐阜県)安八郡曾根村(大垣市)の富農(郷士)・稲津長高の長男。幼少より華渓寺(かけい-じ)の太随(だいずい)に学ぶ。12歳で両親を相次いで亡くし、家督を弟に譲る。1807年、江戸に出て古賀精里、山本北山(ほくざん)の「奚疑塾(けいぎ-じゅく)」に入り儒学・詩文を学ぶ。市河寛斎の「江湖詩社」に参加した。1817年、帰郷し私塾「梨花村草舎(りかそん-そうしゃ)」を開く。同郷の詩人・紅蘭も学んだ。1819年、京都で頼山陽と出会い意気投合する。1820年、紅蘭と結婚した。1822年、妻・紅蘭を伴い西遊し九州に入る。以後、多くの文人墨客と交わる。1827年、京都の銅駝坊に寓し、山陽とも交流した。1834年、江戸神田お玉が池に住し、詩社の「玉池吟社(きょくちぎん-しゃ)」を開き、漢詩人として知られる。藤田東湖、佐久間象山と交わり国事を論じた。1845年、一時帰郷し「白鴎社(はくおう-しゃ)」の人々との詩会を催した。小原鉄心らと国事を談じる。1846年より、京都に移り、木屋町二条下ル、その後、居号「黄葉山房」(華頂山の北)、1849年より、居号「鴨沂小隠(おうき-しょういん、鴨涯)」(川端通丸太町上ル)で8年間を過ごした。同年、ペリー来航後は尊王攘夷を唱える。諸国の詩人・尊攘派志士らが鴨沂小隠に出入りした。1858年、安政の大獄の最初の対象者にされ、「悪謀の問屋」と称された。捕らえられる直前3日前(旧9月2日)に、流行っていたコレラにより東三本木の「老龍庵(ろうりょう-あん)」で病没した。著『星巌集』 『星巌先生遺稿』 など。70歳。 漢詩・文は寛政年間(1789-1801)以降第一級と称された。「日本の李白」「文の(頼)山陽、詩の星巌」と讃えられ、「詩道中興の祖」と呼ばれた。京都に移住後に詠んだ『吉野回顧』は、南朝の史跡を回顧し、勤王詩人としての名声を高める。5000/3000首以上の作詩を残したという。 墓は華渓寺(大垣市曽根町)、夫妻の墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。 多くの文人と交流があった。儒者・勤王家・頼山陽(1780-1832)・頼三樹三郎(1825-1859)父子、兵学者・思想家・佐久間象山(1811-1864)、漢詩人・河野鉄兜(1825-1867)、尊攘派・桜任蔵(1812-1859)、儒学者・梅田雲浜(1815-1859)、思想家・教育者・吉田松陰(1830-1859)、福井藩開明派志士・橋本左内(1834-1859)、長州尊攘派・久坂玄瑞(1840-1864)、尊皇攘夷派僧・月照(1817-1858)、儒学者・横井小楠(1809-1869)、軍人・政治家・西郷隆盛(1828-1877)、勤王儒者・春日潜庵(1811-1878)、儒者・藤田東湖(1806-1855)、漢詩人・大窪天民(1767-1837)らと交わった。 ◆梁川 紅蘭 江戸時代後期-近代の漢詩人・画家・梁川 紅蘭(やながわ-こうらん、1804-1879)。女性。名は景婉(けいえん)、景、字は道華、号は紅蘭亭、張景婉。父・美濃国(岐阜県)安八郡曽根村の郷士・稲津長好の次女。梁川星巌とは又従兄妹になる。8歳頃、曽根村の華渓寺(かけい-じ)・太髄(だいずい)に師事し句を学ぶ。1817年、14歳で星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学ぶ。1820年、17歳で星巌と結婚した。1822年、星巌とともに全国を周遊した。1827年、京都に移る。1832年、夫と江戸に移る。1845年、美濃に帰る。1846年、京都・木屋町二条、1849年、「鴨沂小隠(おうき-しょういん)」(川端丸太町上ル)に移る。1858年、星巌の病死直後に、安政の大獄でその身代わりとして捕らえられる。激しい拷問に半年間耐えた。尊王論者同志の姓名・謀議内容などは秘し通した。1859年、釈放される。1868年、維新後は二人扶持を受けた。星巌の遺稿を出版し、晩年は京都で私塾を開く。画「群蝶図」、詩集『紅蘭小集』。76歳。 中林竹洞に画を学んだともいう。山水花卉(かき)に秀で絵画も残した。漢詩も残し、西郷隆盛・梅田雲浜、志士らとも交流し時局を論じ作詩している。 梁川夫妻の墓は、南禅寺・天授庵(左京区)にある。 ◆鴨沂水荘・鴨沂小隠 かつて、現在地付近に、梁川星巌・紅蘭夫妻が過ごした「鴨沂小隠(おうき-しょういん)」があった。「鴨涯」「鴨沂水荘」とも呼ばれた。 江戸時代中期、1819年に、星巌は京都で頼山陽と出会い意気投合する。1827年に、星巌は京都の銅駝坊に寓し、山陽とも交流した。1846年より星巌は京都に移り、木屋町二条下ル、その後は「黄葉山房」(華頂山の北)、1849年より「鴨沂小隠」、1858年に最後は、東三本木の「老龍庵(ろうりょう-あん)」で亡くなる。 鴨沂小隠は、幕末第一の詩人と謳われた山陽の「山紫水明処」が鴨川を挟んだ川向いにあった。二邸は互いに大声をあげれば聞こえる程に近い距離にだった。両人はそれぞれ行き来し、各々多くの文人が集った。 ◆銘板 現代、2022年9月2日に、銘板「梁川星巌と紅蘭の寓居跡(やながわ-せいがん-と-こうらん-の-ぐうきょあと)」は、霊山顕彰会岐阜県支部・梁川星巌・紅蘭顕彰碑建立委員会の寄贈により立てられた。 夫妻の功績を検証する銘文が記され、夫妻の生誕地である曽根城公園(岐阜県大垣市曽根)に立つ夫妻の銅像写真が転写されている。 高さ1.2m、幅80㎝、ステンレス製。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 銘板「梁川星巌と紅蘭の寓居跡」の説明文、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、京都市の梁川星巌邸址の駒札、『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、『おんなの史跡を歩く』、『京に燃えたおんな』「京都新聞 2022年10月9日付」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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