佐久間象山 ・大村益次郎 遭難之碑 (京都市中京区)  
The Assassination of Sakuma, Shozan and Omura, Masujiro location
佐久間象山 ・大村益次郎 遭難之碑 佐久間象山 ・大村益次郎 遭難之碑
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佐久間象山(右)・大村益次郎 遭難之碑


佐久間象山遭難之碑


「象山先生遭難之碑」


佐久間象山

大村益次郎遭難之碑






「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎 先生遭難之碑」、三条小橋北東角

 「佐久間象山・大村益次郎 遭難之碑(さくま-しょうざん・おおむら-ますじろう そうなんのひ)」2基は、隣り合わせに高瀬川の西畔に立てられている。
 佐久間象山、大村益次郎は、5年の間をおいて、ともにこの付近で襲撃され、その後亡くなった。
◆歴史年表 
江戸時代後期、1864年、佐久間象山は幕命により上洛した。7月11日(新暦8月12日)、乗馬で帰宅途中に数名の刺客により暗殺された。7月12日朝、その斬首は三条河原に晒された。
 近代、1869年、7月、大村益次郎は、軍政根拠地を京阪地方に置くための視察で入洛する。9月4日、木屋町の旅宿(現在地)で長州・神代(こうじろ)直人ら8人に襲撃され負傷した。その後、11月、大阪の病院で亡くなる。
 1915年、4月、佐久間象山遭難之碑(意匠・設計は武田五一)が立てられる。
 1934年、大村益次郎遭難之碑が立てられた。
◆佐久間象山
 江戸時代後期の思想家・兵学者・佐久間象山(さくま-しょうざん/ぞうざん、1811-1864)。名は国忠、啓(ひらき)、大星、幼名は啓之助、通称は修理(しゅり)、字は子迪・子明。信濃(長野県)松代藩士・佐久間国善の子。妻・順子は勝海舟の妹。1833年、江戸で儒学者・佐藤一斎に朱子学、詩文を学ぶ、1839年、再び江戸に出て神田で塾「象山書院」を興した。松崎慊堂(こうどう)、藤田東湖、渡辺崋山らと交わる。1840年-1842年、アヘン戦争の報により、1842年、信濃松代藩8代藩主・真田幸貫が老中海防掛に就くと、外敵侵略に備えることを説く「海防八策」を提出した。砲術家・江川坦庵(太郎左衛門)に西洋砲術を学ぶ。1844年、オランダ語を学び修得した。1851年、江戸に移住して塾を開き、西洋砲術・兵学を教えた。勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬、加藤弘之らが学ぶ。1853年、ペリー来航時には藩軍議役に任ぜられ、老中・阿部正弘に「急務十条」を提出した。松陰の密航計画を助けた。1854年、松陰の密航事件に連座し入獄される。1862年まで、国許で蟄居になる。この間に洋書を読み西洋研究、和親開国論に転じた。1863年、赦免される。1864年、幕命により上京、海陸御備掛手付になり、軍備計画をする。公武合体、開国を説き、一橋慶喜、皇族、公卿の間で奔走した。寓居は、六条通東洞院、丸太町通鴨川東、木屋町通三条上ルと変えた。三条木屋町筋で攘夷派浪士・河上彦斎に暗殺される。著に『省諐録(せいけんろく)』などがある。54歳。
 詩画に優れた。電気治療器、地震計、カメラも所持し、写真技術も学んでいた。鶏卵紙焼き写真で自像、夫人・順子(勝海舟の妹)を撮影している。
 墓は妙心寺・大法院(右京区)にある。
◆大村益次郎 江戸時代後期-近代の兵学者・大村益次郎(おおむら-ますじろう、1825-1869)。旧名は村田良庵、蔵六、名は永敏、通称は惣太郎、蔵六、号は亮(良)庵。長州(山口県)生まれ。村田蔵六。村医・村田孝益の長男。防府・蘭医・梅田幽斎に入門し、豊後・広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。1846年、大坂・緒方洪庵の適塾に医学、蘭学を学ぶ。1848年、適塾塾頭になる。長崎でシーボルトにオランダ医学を学んだ。1850年、帰郷して医業を開く。1853年、洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれ、1856年、江戸で鳩居堂を開塾し、幕府蕃書調所教授手伝、講武所教授に就任した。1860年から、長門萩藩に仕え軍制改革を行う。兵学を教え、兵書翻訳、軍艦製造も行う。伊藤博文らの海外密航も斡旋した。1866年、第二次長州戦争で石州口参謀になる。1868年、王政復古後、明治新政府の軍事指導者になり、戊辰戦争で官軍を指揮した。軍政事務として彰義隊征討、軍務官副知事になり箱館を鎮定した。1869年、兵部大輔になる。フランス陸軍、イギリス海軍を模範とし、近代兵制の確立に努めた。藩兵解散、徴兵制実施、鎮台・鎮守府を設置した。京都視察で、9月、長州の神代(こうじろ)直人ら8人に木屋町の旅宿で襲撃され負傷した。11月5日(新暦12月7日)、大阪で死去した。46歳。
 陸軍の創立者であり、その構想は山県有朋らに受け継がれた。
◆佐久間象山襲撃事件 江戸時代後期、1864年7月11日(新暦8月12日)、佐久間象山は洋鞍を付けた白馬(王庭)の騎馬姿で、部下下僕・半平、仲間・坂口義次郎を連れて三条木屋町を通りかかった。
 象山の居宅前で、尊攘夷派の熊本藩士・河上彦斎(1834-1872)、因州・前田伊右衛門ら数人は、象山が神聖な京都の街を闊歩したとの理由で衝動的に斬ったという。
 7月12日朝、象山の首は三条河原に晒された。
 象山の遺骸の懐中には、写真師・大坂屋与兵衛に教えられた湿板写真薬方を記した絶筆の懐紙があった。(京都大学図書館 佐久間象山遭難遺書)
◆大村益次郎襲撃事件 近代、1869年7月、益次郎は、軍政根拠地を京阪地方に置くための視察で入洛する。9月3日、京へ帰る。9月4日夕刻、木屋町の常宿の旅宿で静間彦太郎、安達幸之助らと食事をとっていた。
 長門萩藩の不満分子・神代(こうじろ)直人 (1842-1869)、団伸二郎ら8人に襲撃され重傷を負う。この時は一命を取り留めた。静間と安達は死亡した。益次郎は、大阪の病院でオランダ人医師・ボードウィンの治療を受ける。11月5日(新暦12月7日)、襲撃時の傷がもとで亡くなった。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『写真事始め』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 佐久間象山・大村益次郎 遭難之碑 〒604-0923 京都市中京区上樵木町495-1
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