吉田松陰拝闕詩碑 (京都市左京区)  
Monument to the poet Yoshida,Shoin
吉田松陰拝闕詩碑  吉田松陰拝闕詩碑 
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吉田松陰拝闕詩碑


吉田松陰拝闕詩碑


吉田松陰拝闕詩碑、「二十一回藤寅手録」


「吉田松陰先生  山河襟帯 詩碑」の石標


石標、「尊攘堂委員建」
 京都府立図書館の敷地南東に「吉田松陰拝闕詩碑(よしだ-しょういん-はいけつしひ)」の大碑が立つ。
 碑文は、江戸時代後期の思想家・尊王論者・吉田松陰(1830-1859)の自作自筆の詩であり、松陰の勤王思想を表しているという。 
◆歴史年表 江戸時代、1853年、10月2日、吉田松陰は皇居(京都御所)を拝して詩作したという。
 1856年、松陰は、山縣有朋の父・有稔のために詩文旧作を揮毫した。
 近代、1908年、松陰50回忌に京都府教育会が石碑を立てる。
 現代、2001年、脇の石標は現地に移された。
◆吉田松陰 江戸時代後期の思想家・尊王論者・吉田松陰(よしだ-しょういん、 1830-1859)。名は矩方(のりかた) 、通称は寅次郎、号は二十一回猛士。長州藩士・杉百合之助の次男、母は滝。5歳の時、叔父・吉田大助の養子になる。山鹿流軍学を継ぎ、山田宇右衛門、山田亦介に兵学を学ぶ。1838年、9歳の時、藩校「明倫館」で山鹿流兵学の講義をした。以来、毎年教授する。1844年、藩主に講義する。1848年、明倫館師範になり、館再興の意見書を提出した。御手当御用掛になり、山陰海岸の砲台を巡視し、海防についての報告書を提出した。1850年、兵学研究のために長崎に遊学する。会沢正志斎、安積艮斎らに学ぶ。1851年、江戸に出て、山鹿素水、佐久間象山に経学、兵学を学ぶ。象山は、松陰、小林虎三郎を「ニトラ」と呼んで期待した。来航中の米ペリーの黒船(軍艦)を視察した。脱藩し、宮部鼎蔵と東北を旅した。1852年、帰藩時に、亡命の罪により士籍・禄高を没収された。1853年、許され、再び江戸に行き、象山に洋学を学ぶ。1854年、浦賀に再度来航したペリーの軍艦に乗り込み、同志・金子重之助と海外渡航を企てる。失敗し、幕府に自首した。江戸伝馬町に投獄される。幕府は松陰を萩に送り、野山獄に投獄される。1855年、出獄し、実父の杉家に預けられ、講義を始める。叔父・玉木文之進の私塾「松下村塾」は、隣家にあり、外叔・久保五郎左衛門に引き継がれていた。それを松陰が継ぐ。1857年、松陰が塾の主宰者になる。下級の家臣、町人などが学び、尊攘派の拠点になる。塾は長州藩によって公認された。1858年、日米修好通商条約調印の勅許、将軍継嗣問題を巡り討幕論を唱える。老中・間部詮勝の暗殺を画策した。1859年、幕府は藩府に松陰の江戸送致を命じた。松陰は、安政の大獄に連座し、伝馬町の獄で刑死する。遺骸は門人により小塚原・回向院の下屋敷、常行庵に葬られた。著『孟子』の注釈書『講孟余話』がある。30歳。1889年、贈正四位。
 松下村塾では2年半余りに、松陰の尊皇攘夷思想、兵学、儒学、漢学、歴史、国学、地理、史学などが教授されている。門下の「松門四天王」に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一がいる。その門下に、伊藤博文、山県有朋、桂小五郎(木戸孝允)、井上馨など数多い。
 墓は松陰神社(東京都)にある。
◆拝闕詩碑
 「拝闕詩碑」は、吉田松陰の勤王思想を表現した詩とされている。
 1853年、松陰は長崎に入港したプチャーチン率いるロシア艦隊4隻の入港を知る。松陰は密航を企て江戸より長崎に向かう。途中京都に立ち寄り、漢詩人・梁川星巌(1789-1858)を訪ねた。星巌から、第121代・孝明天皇(1831-1867)の時局深憂を聞く。10月2日朝、皇居(京都御所)を拝して詩を作ったという。(『長崎紀行』)
 なお、碑文によると、後の1856年に松陰は、下級武士・山縣有稔(1806-1860)のために旧作を揮毫した。後に、その子である軍人・政治家・山縣有朋(1838-1922)に伝わる。有朋は、松陰精神を体現しており、私蔵するべきではないとして宮中に献納した。
 1908年10月の松陰50回忌に、揮毫は写真に撮影されている。京都府教育会員は揮毫を詩碑に刻むことを計画する。撰は、第10代・京都府知事・大森鍾一(1856-1927)が政治家・野村靖(1842-1909)に依頼した。書は野村素介、鐫(せん、彫字)は芳村茂承による。詩碑は高さ350×幅190×奥行19cm ある。
 【碑文】 山河襟帯自然城東来無不日憶 神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣/不能行 上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳/ 敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平 従来 英皇不/世出悠々失機今公卿安得 天詔勅六師坐使 皇威被八紘人/生若萍無定在何日重拝 天日明/右癸丑十月朔日奉拝 鳳闕粛然賦之時余将西走入海
 丙辰季夏      二十一回藤寅手録
 【碑文の大意】京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている/江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない/この朝身を清め御所を拝した/政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない/というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく/周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ/もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで/天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる/日出には起きて身を清め/日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると/いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに/役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ/なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし/思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ/なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身/ふたたび御所を拝する日が来るだろうか
 (「京都市 京都のいしぶみデータベース」より引用)
 その後、揮毫幅は天覧になった。1882年12月、有朋の斡旋により皇室に献納され、帝室(宮内庁書陵部)御物になった。
 なお、『長崎紀行』(1853年)にある「奉拝鳳闕詩」は上記の碑詩文は異なっている。
 【奉拝鳳闕詩原文】山河襟帯自然城 形勝依然舊 神京今朝盥/嗽拝 鳳闕野人悲泣不能行 上林黄落秋寂寞/空有山河無変更聞説 今皇聖明徳敬天愛民發至/誠鶏鳴乃起親齊戒祈掃妖氛致太平安得 天詔/勅六師直使 皇威被八紘従来 英皇不世出悠々失/機今公卿人生如萍無定在 何日重拝 天日明/是寅癸丑十月拝禁闕作也後六年有八十八卿詣闕抗疏之事 天子聴/納勅諭汗発而四方不能遵則外藩更愧也己未五月下浣藤寅録
 (1853年10月2日作、『長崎紀行』中「奉拝鳳闕詩」)
◆石標 碑の右(西側)に石標が立てられている。石標には、「吉田松陰先生 山河襟帯 詩碑」と刻まれている。「尊攘堂創立五十周年記念 昭和十二年(1937年)孟春 尊攘堂委員建」とある。石標は、近代、1937年に当初は、図書館前庭の東南端に建立された。2001年の京都府立図書館の改築にともない現地に移される。高さ155×幅18×奥行18cm。
 なお、この尊攘堂は、近代、1887年に松下村塾門下の品川弥二郎(1843-1900)が、松陰の遺志を汲み創設した。現在は京都大学構内(左京区)に移され、 松陰、維新の志士関連資料が集められている。
 1889年、皇后より松陰母・杉滝子(1807-1890)へ下賜品があった。この時、品川が受取り、後日手紙を添え萩の松陰兄・教育者・杉民治(1828-1910)に送っている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「奉拝鳳闕詩 - 吉田松陰」、『京都大事典』、『龍馬&新選組 京都幕末案内 』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 吉田松陰拝闕詩碑 〒606-8343 京都市左京区岡崎成勝寺町9
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