吉田泉殿之跡 (京都市左京区)  
The ruins of the residence of Yoshidaizumidono
吉田泉殿之跡 吉田泉殿之跡
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 百万遍交差点の西南角に「吉田泉殿跡(よしだいずみどの-の-あと)」の石標が立てられている。
 この地には、鎌倉時代の公卿・西園寺公経(1172-1244)の別邸「泉殿」(鴨東吉 田) があった。なお、本宅は「一条室町第」、「今出川第」(上京区)にあった。
◆歴史年表 鎌倉時代中期、この地には、公卿・西園寺公経(さいおんじ-きんつね、1171-1244 )の別荘が建てられていた。
 現代、 1979年、現在の石標が立てられいている。
 2008年-2009年、 京都大学文化財総合研 究センターの発掘調査により、 吉田泉殿の庭園跡 、仏堂跡とみられる遺構が検出された。
◆西園寺公経 鎌倉時代中期の公卿・西園寺公経(さいおんじ-きんつね、1171-1244 )。曽祖父(そうそふ)通季より伝わる乗用の車の模様から「鞆絵(ともえ)大将」とも称された。法名は覚勝。藤原実宗(さねむね)の次男。母は藤原基家の娘。妻は源頼朝の姪・一条全子。親幕派貴族の筆頭とされ、関東申次(かんとうもうしつぎ)の役を務めた。1208年、娘・倫子は九条道家に嫁し、1218年、九条三寅(みとら、後の頼経、第4代征夷大将軍)を産む。1219年、源実朝の死後、公経が養育した外孫・三寅を将軍後継者として鎌倉に下らせた。1221年、承久の乱で、後鳥羽上皇(第82代)の倒幕の企てを幕府に通報した。このため、公経、実氏父子は上皇側に逮捕され、弓場殿に拘禁される。乱が幕府北条氏の勝利に終わり、公経は朝廷再編の中心になる。内大臣、1222年、太政大臣になり、1223年、従一位に進んだ。
 琵琶を嗜み、歌は新古今和歌集以下の勅撰集に入集している。多くの荘園、宋貿易による莫大な収入を得て、京都北山に菩提寺の西園寺(鹿苑院の前身)を建立した。頼朝と姻戚関係にあり、摂関を凌ぐ権勢を誇る。孫娘は第88代・後嵯峨天皇中宮、第89代・後深草天皇の中宮になる。九条道家とともに第86代・後堀河天皇譲位、第87代・四条天皇の践祚を実現させる。74歳。
◆吉田泉殿 2008年-2009年の京都大学文化財総合研究センターが実施した発掘調査では、吉田泉殿の庭園跡、仏堂跡とみら れる遺構が検出されている。
 吉田泉殿跡は、 百万遍交差点の南西側(吉田泉殿町)、 現在の京都大学西部構内付近にあったとみられている。
 家屋のほか、 馬場、 苑池、楼閣などがあった。吉田泉殿では、夏の納涼、 連歌会、競馬、 射弓 、酒宴などが行われていた。江戸時代には、田畑の中に池、庭石の遺構があったという。
◆西園寺家 西園寺家は藤原氏北家閑院流、権中納言・通季(1090-1128)を西園寺家の祖としている。公経はその曾孫になる。1224年、公経は京都北山の地(鹿苑寺)に仏堂の西園寺を造営して移り住んだ。以来、西園寺殿と称された。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『歴代皇后125代総覧』、ウェブサイト「第296回 京都市考古資料館文化財講座/アスニー京都学講座『考古学からみた鴨東の歴史』2018 年」、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 吉田泉殿跡 〒606-8301 京都市左京区吉田泉殿町
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