二条大橋・二条河原 (京都市中京区-左京区)
Nijo-ohashi Bridge・Nijokawara
二条大橋・二条河原 二条大橋・二条河原
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二条大橋から南方向、御池大橋、かつての二条河原



二条大橋から南方向西岸、みそそぎ川(左)と、高瀬川に流すための仕切りがある。


二条大橋から北方向西岸、みそそぎ川(左)、鴨川(右)。


二条大橋西岸南付近、みそそぎ川の分流点、左奥は、高瀬川に通じている。


みそそぎ川の鴨川取水口
賀茂大橋下流西岸
 かつて現在地付近に、橋は架かっていなかったという。二条河原があり、時には合戦の場になり、高札も掲げられる広場のような役割も担っていた。 
◆歴史年表 平安時代、1013年、伊勢斎王当子内親王は、二条大路末の鴨川河頭で禊を行う。
 1017年、斎王嫥子内親王は、二条大路を東行して鴨川河原、河原祓所で禊を行う。(『左経記』)
 南北朝時代、1335年、後醍醐天皇の建武中興の頃、京童(きょうわらべ)による「二条河原落書」が河原に掲げられた。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉は京を囲むお土居を築造している。
 江戸時代、1614年、二条河原でキリシタンの修道女「ベアタス会」の15人が裸か薄い衣をまとっただけで藁に巻かれ、拷問、処刑された。
 1654年、『新版平安城東西南北町井洛外之図』には、二条川原(二条橋)の記載がある。
 1669年-1670年、鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。寛文の新堤により、二条付近鴨川東岸に石垣が築かれた。二条新地が生まれ遊里になる。
 1765年、京都町奉行所は、三条以北での花火打ち上げを口頭で禁じた。防災の観点からのお触れだった。
 近代、1935年、「昭和10年鴨川大洪水」により、流失する。
 1943年、現在の二条大橋が架けられている。
 現代、1954年、8月16日の大文字送り火の夜、大阪の新聞社主催により二条大橋付近から打ち上げられた花火が、御所内小御所を焼失させる。
◆二条大橋 現在の二条大橋の架設年は1943年になる。橋種は3径間ゲルバー鋼プレートガーター、橋長84.5m、幅員612m。
◆二条通 二条通は、平安京の二条大路にあたる。東西路の二条大路は、幅が51mもあり、南北路の朱雀大路(85m)に次き大きな道路となっていた。二条大路には、穀倉院、大学寮などの官衛街や、冷泉院、二条院などの貴族の邸宅も建ち並んでいた。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉の寺町の形成により、寺町から堀川間が二条通として整備された。江戸時代に入ると二条通を境に上京町組み、下京町組みが生まれた。
◆二条河原落書 南北朝時代、1335年、後醍醐天皇の建武中興の頃、京童(きょうわらべ)による「二条河原落書」が河原に掲げられた。長歌の形式をとる落首で、前年に成立した建武政権、朝廷、将軍、関東の新興武士、世相などを風刺した。「京童」は当時の京都市民をいうが、政権の論功行賞に不満を抱いた下層の公家の作ともいわれている。
 「口遊。去年八月二条河原落書云々、元年與。此比都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨 召人早馬虚騒動 生頸還俗自由出家 俄大名迷者 安堵恩賞虚葛 本領ハナル、訴訟人 文書入タル細葛 追従讒人禅律僧 下剋上スル成出者 器用ノ堪否沙汰モナク モルヽ人ナキ決断所 キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ笏持テ 内裏マジハリ珍シヤ 賢者ガホナル伝奏ハ我モ我モトミユレドモ 巧ナリケル詐ハ ヲロカナルニヤヲトルラン 為中美物ニアキミチテ マナ板烏帽子ユガメツ、気食メキタル京侍……」
◆晒し 行倒れがあると悲田院年寄管理下で、遺骸を二条河原、三条河原に3日間晒した。身元の確認のためであり、届け出がない場合には指定墓地に埋められた。
◆ベアタス会 日本で最初に修道女会を作ったのは八木城城主・内藤飛騨守忠俊如安(1550? -1626)の妹・内藤ジュリア(1566?-1627)になる。ジュリアは夫に先立たれた後、安土・桃山時代、1596年頃、オルガンチーノ神父により受洗した。ジュリアは女性信者のために、キリシタン比丘尼(ベアタス会)を組織している。御所内にも信仰が広がっていたという。
 江戸時代、1613年、徳川家康はキリシタン追放令を発し、1614年、如安、高山右近、ジュリアらは呂宋(フィリピン)のマニラへ追放になる。残されたベアタス会は日本での活動を続ける。だが、同年冬、修道女15人は二条河原に引き出された。裸か薄い着物姿で藁の菰に簀巻きにされ、激しい拷問の後に処刑された。この際に、改宗を迫り「ころべ、ころべ」と嘲られたという。この時が「ころび」の初例という。
◆花火 江戸時代、鴨川では大花火が打ち上げられていた。京都町奉行所は1765年に、三条以北での花火打ち上げを口頭で禁じた。これは、御所に近いため、防災の観点からのお触れだった。
 現代、1954年、8月16日の大文字送り火の夜に、大阪の新聞社主催により二条大橋付近から打ち上げられた花火が、御所内小御所を焼失させる事件が起きた。以後は、鴨川での花火は打ち上げられていない。
◆みそそぎ川 二条大橋で、みそそぎ川は高瀬川へ分流している。みそそぎ川とは、鴨川の古い別称で、禊川(みそぎがわ)ともいう。
 みそそぎ川は、賀茂大橋下流で鴨川から分かれ、鴨川西岸の河川敷を流れている。丸太町橋下流で、川は地上に姿を見せ、鴨川と並行して流れる。二条大橋の下流で、高瀬川へ分流し、さらに鴨川と並行して流れ、五条大橋付近で鴨川に合流する。
 現在の納涼床は、この川の上に開かれている。
◆二条新地 二条新地(にじょうしんち)は、鴨川の東、川端通の東、二条通以北、夷川通までの方2町の地域をいう。旧聖護院村だった。
 江戸時代、1734年に上七軒出店の名義で遊郭が置かれた。新地として新先斗町、大文字町が開発され、旅籠屋茶屋渡世が許される。その後、中川町、難波町、杉本町、1763年に新生洲町が生まれた。1788年に天明の大火で焼失する。その後、復興され、1790年、島原出稼ぎという形で遊女渡世も許された。明治期(1868-1912)中期、1887年に第三高等中学校が女紅場に置かれ廃業した。
 戯作者・滝沢馬琴(1767-1848)が『羇旅漫録』に記している。儒学者・漢詩人・中島隠隠(1779-1855)は料理屋「銅駝余霞楼(どうだよかろう)」を開く。勤王家・高山彦九郎(1747-1793)、国学者・本居宣長(1730-1801)も遊興した。目明し文吉(?-1862)の営む茶屋もあった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』『鴨川・まちと川のあゆみ』『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』


高瀬川     みそそぎ川     納涼床       「元和キリシタン殉教の地」の碑     尊攘堂       悲田院遺址      
 二条大橋 京都市中京区東生洲町付近
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