晴明神社 (京都市上京区)
 Seimei-jinja Shrine 
晴明神社 晴明神社
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神紋の晴明桔梗印


















狛犬










「横神明町」灯明




本殿



本殿





本殿


本殿、神紋の晴明桔梗印


安倍晴明坐像


厄除桃




齋稲荷社(いつきいなりしゃ)、晴明の母は狐だったという伝承がある。

 晴明町にある晴明神社(せいめい-じんじゃ)は、平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべの-せいめい)の屋敷跡になるともいう。かつては、晴明御霊と呼ばれていた。
 祭神は、安倍晴明、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。 旧村社。
 魔除け、方除守護、厄除け、火災守護、病気平癒・病除守護、縁結び・結婚、合格祈願、進学、開業、向上祈願子どもの命名などの信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、1007年、第66代・一条天皇の勅旨により、安倍晴明は稲荷大神の分霊として尊ばれ、晴明を祭神として宅地跡に創建されたともいう。(社伝)。当初は南北二町、東西一町の広大な社域を占めていたという。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。その後、幾多の戦禍により衰微した。
 室町時代後期、現在地に移る。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉の都市改造、戦火などにより広大な敷地は縮小された。
 江戸時代、1853年以降、再興されている。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、廃社になりかける。紫野斎院の斎宮を主神(摂社・斎稲荷社、稲荷大明神)として存続した。
 1928年、御大典事業に伴い、現在の本殿、社務所が造営された。
 現代、1950年、境内地を拡張している。
 1997年、本殿が修復された。
◆安倍晴明 平安時代中期の陰陽師・安倍晴明(あべ-の-せいめい/はるあきら/はれあき、921-1005)。摂津国(大阪府)阿倍野/大和国(奈良県)桜井安倍/讃岐(香川県)生まれ。大膳大夫・安倍益材(ますき)/淡路守・安倍春材の子。母は加茂社家ともいう。第42代・文武天皇の右大臣・阿倍御主人(あべ-の-みうし)の後裔ともいう。幼くして京都に移る。陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学ぶ。保憲から天文道の奥義を授かった。唐に渡り、帰国後、陰陽道を確立したともされる。948年、大舎人になる。第61代・朱雀天皇の信を得る。960年、天文得業生として第62代・村上天皇に占いを命じられた。972年、天文博士に任じられる。979年、皇太子師・貞親王(第65代・花山天皇)の信を得て、命により那智山の天狗を封ずる儀式を行う。その後も、第66代・一条天皇など6代の天皇に仕え、藤原道長の信も得る。官職として主計寮の主計権助(かずえのごんのすけ)、大膳大夫(だいぜんだいぶ)、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任した。従四位下。著『占事略決』。85歳。
 安倍氏(土御門家)の祖になる。陰陽、暦術、天文の術に精通し、吉凶を占い、陰陽道の祭祀 (泰山府君祭) 、天文密奏などを行い宮廷で活躍した。様々な説話が『栄花物語』『今昔物語』『宇治拾遺物語』などに記されている。安倍氏は、賀茂氏と並ぶ陰陽道家になる。家は土御門の北、西洞院の東にあり、子孫は後に土御門家と呼ばれ代々陰陽頭になった。鎌倉時代-近代、1870年まで陰陽寮を統括した。後世、居宅跡には安倍晴明社が創建され霊神として祀られる。
 中世より伝えられる墓所の一つに、安倍晴明墓所(右京区嵯峨)がある。 
◆千利休 室町時代後期-安土・桃山時代の茶人・千利休(せんの-りきゅう/せん-りきゅう、1522/1521-1591)。幼名は与四郎、名は宗易(そうえき)、号は抛筌斎(ほうせんさい)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。祖父・千阿弥は、足利義政の同朋衆であり、堺に移ったという。父は納屋衆(なやしゅう)になり、千阿弥より「千家」と称したという。書院台子の茶を北向道陳(きたむき-どうちん)に学ぶ。1540年頃、10歳代で武野紹鷗(たけの じょうおう)に茶の湯を学ぶ。堺・南宗寺に参禅し、宗易(そうえき)と改めた。その後、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。21歳で家督を継ぎ、1542年、宝心妙樹(ほうしん-みょうじゅ)と結婚した。1544年、初の茶会記録が残る。1574年/1573年、織田信長の茶頭の一人になる。先妻没後、1578年、堺の宗恩(そうおん)と再婚する。1582年、本能寺の変後、1583年、豊臣秀吉の茶頭になり側近政治に関与する。1586年/1585年、秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に、秀吉の後見として茶を点てた。第106代・正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年、北野大茶湯にも演出に関わる。1589年、大徳寺山門の二層部分を寄進した。住持により利休の木像が安置された。1590年、秀吉の小田原攻略に従軍する。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年、大徳寺山門事件の責任をとり、堺に蟄居になる。その後、秀吉に京都へ呼び出され、切腹を命じられた。京都葭屋(よしや)町聚楽の屋敷内で茶を点てた後に自刃した。70歳。
 妻・宗恩がその遺骸に白い小袖をかけたという。首は一条戻橋で晒首された。前田利家、古田織部、細川忠興らの助命嘆願はかなわなかった。なお、利休は切腹せず、逐電(逃げ失せる)したとの説がある。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らした。茶の湯の典型を示した。墓所は大徳寺・聚光院(北区)にある。
 この地に聚楽屋敷を構え、茶事を催し、茶湯に用いた井戸があった。 
◆陰陽道 陰陽道は、古代中国の陰陽五行説に基づき、自然界の現象を陰陽のニ気と、木火土金水の五行の変化と組み合わせで説明する。天文、暦数によって吉凶を占い、凶事を回避するためのさまざまな術を使った。
 安倍氏(土御門)と賀茂氏(幸徳井)の職掌になっており、前者が陰陽頭、後者が陰陽助に任じられた。土御門家は暦の作成には、一度を除いて携わらなかった。
◆式神 晴明は、12体の式神(しきじん、職神)を使ったと伝えられる。式神は、恐ろしい容貌をしており、不思議な現象を起こす精霊のような霊的存在とされた。
 晴明は、呪術、占いを行う際に用いたという。蔀戸の上げ下ろし、表門の開け閉めにも式神を使ったという。一般人には見えなかったという。容姿が醜いため晴明の妻が怖がり、晴明により一条戻橋の下に石櫃に入れられ不要の時は隠されたという。
◆晴明屋敷跡 社はかつての晴明の屋敷跡にあるという。内裏の北東、鬼門の位置に広大な敷地を有していたという。
 晴明の屋敷跡としては、現在の清明神社付近(江戸時代の『山州名跡志』」)、「土御門大路(上長者町通)から北、西洞院大路(西洞院)から東」(平安時代後期の『今昔物語』)、「土御門大路と町口小路(長者町通新町通)」(平安時代後期の『大鏡』)、「一条堀川西へ入町」(江戸時代の『京羽二重』)などともいう。
 現在では、「左京北辺三坊二町南西角の六戸主」(上京区土御門町周辺、現在の京都ブライトンホテル南西の駐車場西付近)が最有力視されている。(『日本歴史』632号、2001年、山下克明「安倍晴明の宅邸とその伝領」)。
◆晴明桔梗印 神紋の晴明桔梗印(五芒星、ペセーマン印、ペンタグラム、ペンタグランマ)は、陰陽の呪符で魔除の印とされる。
 陰陽道五行説の木、火、土、金、水の働きが星形の相克関係にある。木は土の養分を吸収することから土に勝ち、土は土塁により水を止めることから水に勝つ。水は火に、火は金属を溶かすことから金に、金は木を切ることから土に勝つ。
◆厄除桃 桃は魔除、厄除の果物とされる。「桃」が木扁に「兆」と書くことによる。桃に厄除を撫でつけ身を祓う。
◆晴明井 祭殿内にある「晴明井」は、晴明が密法を行った際に祈誓により湧きだしたという。山城名泉の一つとされる。一時期涸れていたが、さらに井戸を掘り下げて復活した。 1000年以上も湧水が続いているともいう。飲むと悪病難疾が治るとされている。立春に、神職が五芒星部を回転させ、取水口がその年々の恵方を指すようになっている。
 近年、この地に利休屋敷があったことが確認されている。この井戸水は千利休も使ったとされている。
◆一条戻橋 境内に1995年まで堀川に架けられていた実際の石の親柱で再現された「一条戻橋」がある。
 この橋で、晴明の父・保名は芦屋道満の弟に殺害された。晴明は呪法により父を蘇生させたという。晴明は二人の式神をこの橋のたもとに隠していたという。
◆末社 末社・齋稲荷社(いつき-いなりしゃ)は、倉倉稲魂命(うがのみたまのみこと)ほか二柱(天満社、地主社)を祀る。本殿の祭神・安倍晴明は、倉稲魂命の分霊という。そのため、齋院御所より遷座されたという。産業振興、食品安全の神になる。
 晴明の母は、和泉・信太森(しのだもり)に棲むという霊狐(信太明神)という。江戸時代の古浄瑠璃「しのだづま」により広まった。晴明の父・保名は白狐化身・葛の葉(くずのは)と結ばれ、童子丸(晴明)が生まれたという。だが、正体が発覚し去る。
◆文化財 「晴明公画像」は、晴明の子・安倍尊真筆という。宿曜師(すくようし)といい、星宿(せいしゅく)呪術を操る密教僧だったという。ただ、系図にはないという。
 室町時代の尊智方眼筆「晴明画像」、室町時代の備前長船祐定作「神刀」一口。
太極図 鉄板の蓋に描かれた太極図(陰陽魚)がある。
 太極のなかに陰陽が生じた様子が描かれている。黒は陰を表し右側で下降する気、白は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かってそれぞれの気が生まれ、徐々に盛んになる。陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まると陽に変じ、陽が極まれば陰に変じる。小さな白点は、陰中の陽、後に陽に転じることを表している。黒点は逆に陽中の陰を表す。
◆アニメ ◈アニメーション『少年陰陽師』(原作・結城光流、監督・森邦宏、制作・スタジオディーン、2006年10月- 2007年3月、全26話)の舞台になった。
◆年間行事 歳旦祭(元日)、節分祭(2月節分)、晴明に始まるとされる火災除祈願祭(6月26日)、晴明祭(9月秋分日とその前日)、御火焚祭(11月23日)。


*商業利用の写真撮影禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』、『安倍晴明・紫式部を歩く』、『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』、『安倍晴明読本』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都時代MAP 平安京編』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『続・京都史跡事典』、『京都隠れた史跡100選』、『京のしあわせめぐり55』 、ウェブサイト「コトバンク」
 


安倍晴明の屋敷跡  一条戻橋  堀川     安倍晴明の墓所(嵯峨野)  安倍晴明の墓所(松原)  稲住神社  梅林寺  真如堂(真正極楽寺)      

齋稲荷社、天満社、地主社

齋稲荷社、天満社、地主社

名水、晴明井の晴明水

北斗七星、星宿信仰のある陰陽道では、赤山禅院に祀られている祭神・泰山府君は北極星(北辰)として尊ばれている。

鉄板の蓋に描かれた太極図(陰陽魚)。

「陰陽博士 安倍晴明公居館之址」の石標

一条戻橋

式神
 

「千利休居士聚楽屋敷趾」、この地にかつて、茶人・千利休屋敷があったという。


樹齢300年というクスノキ

【参照】安倍晴明の邸宅跡と推定される地点の一つ。晴明邸はブライトンホテル南の駐車場西付近とみられている。上長者町通西洞院通東入ル土御門町、西洞院通上長者町上ル菊屋町付近。

【参照】付近に土御門町の町名も残っている。

【参照】嵯峨野にある安倍晴明の墓所と推定されているものの一つ。
晴明神社 グーグルマップ・ストリートビュー  平安京オーバレイマップ
晴明神社 〒602-8222 京都市上京区晴明町806,堀川通一条上ル西側   075-441-6460 9:00-18:00
 
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