北白川天神宮 (京都市左京区) 
Kitashirakawa-tenjingu Shrine
北白川天神宮 北白川天神宮 
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石橋の白川萬世橋


サクラ


白川萬世橋


白川萬世橋


白川萬世橋、擬宝珠の菊花文


白川萬世橋、雪輪菊文














第122代・明治天皇(1852-1912)の歌碑。 「いはほきる音もしめりて春雨のふる日しづけき白川の里」


花塚


白川女の顕彰碑


白川女の顕彰碑


手水舎


手水舎、名水


長生館


ヒノキのご神木の大木


急な石段の参道




「石恩」、白川石の頌、周辺は古くより良質の花崗岩白川石を産した。


医学者・清水勉(1922-)の碑
 白川村はかつて、山中越で近江坂本に向かう白川街道沿いの集落だった。 
 白川沿いの小高い千古山に、北白川天神宮(きたしらかわ-てんじんぐう)はある。北白川の産土(うぶすな)神として祀られている。「白川村天王社」とも呼ばれた。
 祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)。遷座神は、天照皇大神、春日社、八幡社、日吉社、加茂社、稲荷社などを祀る。
 かつて比叡山麓(左京区)七里の産土神の一つに数えられた。
 健康長寿、福徳開運、安産などの信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代-奈良時代、8世紀(701-800)前半、現在地より南西の久保田の森(左京区北白川久保田町宮の前付近)に、少彦名命名を祀る「天使大明神(天使社)」があった。農耕神の天神を祀ったともいう。
 平安時代、908年、当宮在銘の黒鉾を有しており、それ以前の創建とみられている。
 室町時代、1428年/寛正年間(1460-1466)/文明年間(1469-1487)/1464年、室町幕府8代将軍・足利義政が、現在地の千古山に社殿を遷した。天使大明神は、周辺白川村の産土神として信仰を集める。
 近世(安土・桃山時代江戸時代)、照高院門主の崇敬を得た。
 江戸時代、寛文年間(1666-1673)、照高院宮第5代・道晃法親王は、「天使大明神」から「天神宮」へ改称し祈願所とした。親王染筆「天神宮」を贈る。
 1830年、焼失する。
 近代、1894年、社前の白川に萬世橋(まんせいばし)が架けられた。
◆足利義政 室町時代中期-後期の室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが-よしまさ、1436-1490)。幼名は三寅、三春、初名は義成、法号は慈照院、東山殿。京都の生まれ。6代・足利義教(よしのり)の次男。母は日野重光の娘・重子(しげこ)。7代将軍・義勝の同母弟。1441年、嘉吉の乱で父・義教が暗殺され、1443年、兄・義勝も夭死し、9歳で家督を継ぐ。以後、擁立した宿老の細川持賢、畠山持国、山名持豊らが政治の中心になる。1446年、第102代・後花園天皇から義成と命名され、従五位上に叙任された。1448年、後左馬頭、1449年、元服し、14歳で室町幕府8代将軍に就いた。参議・左中将を兼ねる。1453年、義政と改名した。1455年、正室になった日野富子との間に嫡子はなかった。1459年以後、寛正の大飢饉が起こる。1460年、左大臣になる。1461年、梅津山荘の建築を行う。1464年、准后宣下を受けた。弟・義視(よしみ、義尋)を後継者にした。1465年、実子・義尚の誕生により、将軍職を巡る抗争になる。富子は山名宗全と結び義視の排斥に動く。義政側の山名宗全と、義視側についた細川勝元、さらに管領家の斯波、畠山氏、諸大名を巻き込んだ応仁・文明の乱(1467-1477)になる。1473年、義政は8歳の子・義尚に譲り隠棲した。以後、実権は富子が握る。1483年、京都東山の山荘に銀閣を造り移り住む。1485年、出家し、喜山道慶と名乗る。最晩年、銀閣寺の造営に固執した。1489年、後継者・義尚は24歳で早逝する。義政は一時、政務に復帰した。1490年、急逝した。55歳。 
 幕府の財政難、飢饉疫病の蔓延、土一揆の頻発もあり、在職中13回も徳政令を発布した。東山に山荘を造営し銀閣寺(慈照寺)、東求堂を建てた。学問、芸術、和歌などに優れ、猿楽・茶の湯・絵画を好む。音阿弥、善阿弥、小栗宗湛、相阿弥らを育て、東山文化を形成した。死の直前まで、観音殿の内装について指示を出したという。その完成を見ることはなかった。
 学問、芸術、和歌などに優れた。
◆道晃法親王 江戸時代前期の天台宗の僧・道晃法親王(どうこう-ほうしんのう、1612-1679)。遍照寺宮。第107代・後陽成天皇の皇子、母は三位局(さんみのつぼね)。聖護院に入り、道勝法親王に学ぶ。1626年、親王になる。園城寺長吏、三山検校、京都白川の天台寺・照高院に移る。茶道、書画、和歌に秀でた。68歳。
◆創建伝承 飛鳥時代、8世紀(701-800)前半には、久保田の森(北白川久保田町付近)に、少彦名命名を祀る天使大明神(天使社)があった。
 室町時代、1428年/寛正年間(1460-1466)/1464年、室町幕府8代将軍・足利義政は、東山殿(銀閣寺)造営の際に、久保田の森にさしかかる。森の前を通る度に、馬が嘶き足を進めなくなった。義政は神威を感じた。王城鎮護の神として、都の東北の鬼門、山中越の入口である現在地、千古山に社殿を移して祀ったという。
◆建築 本殿、拝殿がある。
◆文化財 平安時代、「延喜八年(908年)」銘の鉄製「黒鉾(くろぼこ/くろけん)」がある。伝承として、南北朝時代の第100代・北朝第6代・後小松天皇(1377-1433)の御所造営に際して、里人奉仕記念として下賜されたという。また、疫病流行に際して、御霊会に参加したことにより下賜されたともいう。鉾は、宮座の壱之鉾に伝えられてきた。
◆鳥居 石鳥居は、1673年の造立による。1830年の道晃子法親王筆の社額を掲げる。(『山城名跡志』)
◆石橋 「白川萬世橋」は、社前の白川に架かる。近代、1894年に架橋された。擬宝珠には菊花文、橋欄に照高院の「雪輪菊」文の飾りがある。眼鏡橋(アーチ式)、白川石。
◆北白川御殿 平安時代、風光明媚なこの地には、白川街道沿いに貴族の山荘が営まれた。菅原道真を左遷させた藤原時平に付いた文章博士・三善清行(847-918)の「花亭」もあった。
 江戸時代、1619年、第107代・後陽成天皇の弟・興意法親王(1576-1620)は、「照高院」を白川村外山(現仕伏町)に再興する。照高院は当初、東山・妙法院に建てられ、豊臣家滅亡とともに廃絶していた。
 伏見城の二の丸松丸殿が移築され、紋章の雪輪を用いたことから、「照高院雪輪殿」と呼ばれる。その後、歴代法親王は天使大明神を守護神とした。のちに聖護院の隠居寺になる。
 近代に入り、伏見宮邦家親王王子・智成親王(1856-1872)、兄の能久親王(1848-1895)が移り住み、「北白川の宮家」「北白川御殿」と呼ばれる。だが、1869年の東京遷都に伴い、1875年に廃絶する。智成親王は宮家・北白川宮を創設したが、17歳で亡くなる。引き継いだ能久親王は、その後、日清戦争で戦病死している。
 当宮の神輿、御旅所には「菊の御紋」が使われている。白川に架かる萬世橋には、擬宝珠には菊花文、橋欄に照高院の「雪輪菊」文の飾りがある。
◆七里の産土神 かつて比叡山麓(左京区)に七里(ななさと)の産土神が祀られていた。
 七社とは、一乗村・八大神社、高野村・御霊社(現・祟道神社)、修学院村・天主社(現・鷺森神社)、舞楽寺・天王社(八王子社、後に現・八大神社に合祀)、藪里・比良木天王社(牛頭天王社、後に現・八大神社に合祀)、山端・牛頭天王社、白川村・天王社(現・北白川天満宮)だった。
 祭礼(七里祭、さんやれ祭)(3月5日)では、修学院天王社に各社の神輿が集まった。
◆安産祈願 当社の授ける藁(わら)を妊婦の腹に巻いて安産祈願した。藁の節が奇数の場合には男子、偶数の場合には女子が産まれるとされた。
◆白川女 白川一帯(北白川仕伏町、下池田町)は、平安時代から花畑が広がる花の里だった。花売りとして知られた白川女(しらかわめ)は、白木綿に染文様の手拭(後浅葱の手拭)、下着に無地の着物、紺木綿、両襷掛け、細い縞帯(四つ割り帯、正装には紺地型染帯)、三巾の前垂、裾を端折し白い腰布を見せ、黒の甲手、白脚絆のいでたちだった。頭の藤蓑に花を載せ、「花をいらんかえ」と売り声を上げ、花、番茶などを売り歩いた。
 白川女は、平安時代の漢学者で参議宮内郷・三善清行(847-919)が、白川の花を御所の御使用として定めた「特献花」に始まるという。その後、一時中断する。帯は江戸時代、後水尾天皇皇后・東福院(徳川和子、1607-1678)より下賜された御所染めになっている。白川女は、江戸時代には、馬の背に載せた白川石を売って歩き「白川の石うり」と呼ばれた。
◆白川石 付近の白川一帯では白川石が産出した。白川の名の由来は、白川砂が流れ込んで川底が白いことに因る。
 白川砂は花崗岩の砂礫であり、庭園、灯篭、石碑などに利用されてきた。石工は中世(鎌倉時代-室町時代)から現れる。最盛期には、北白川周辺に200、300軒の石工、石材関連業者が軒を並べていたという。
◆印地の大将 源義経に兵法を伝授したとされる鬼一法眼(きいちほうげん)は陰陽師だった。「一条堀河」の西に住み、屋形を構えて天下の御祈祷をした。弟子も1000人を数えたという。
 この法眼の娘婿に、北白川天神社に奉仕していた印地(いんじ)の大将・湛海(赤山の東海坊)がいたという。彼ら下級の宗教武装集団は、石投げを得意とした。川原などで二手に分かれて小石を投げ合い勝敗を争った。印地は、鎌倉時代に盛んになり、死傷者が出て禁止されたこともあった。
 湛海は義経殺害を託されたにもかかわらず、鬼一の謀りにより、義経と五条天神社境内で闘い、殺害される。(『義経記』)
◆鳥居 鳥居は江戸時代、1673年に建立された。明神鳥居、東照宮形、島木の反り増しはあり、笠木が柱上部付近より反りを見せている。島木鼻の切り様は水切、石造。
◆高盛御供 当宮の「北白川高盛御供(たかもりごく)」(市登録)は、10月第1日曜日の早朝に、天神宮に神饌を奉納する儀式をいう。神饌は前日の夜半より早朝にかけて裃姿の男性によって作られる。
 カワラケの皿に、味噌を繋ぎとして小芋、大根生酢、きざみ鯣(スルメ)を円錐形に盛上げる。炊き上げの白飯は、臼の型に抜き、太い注連縄で縛った盛相(もりそう)、白豆腐の上に神箸、開いた干物の飛魚、シイラなども用意される。
 翌早朝、黒木錦の着物に紅色の三幅前垂、白足袋姿の白川女たちは、これらの神饌を頭に載せて天神社に奉納する。神饌供献の古い形を伝えるという。
◆樹木 参道を横切る白川沿いには、イトザクラ(都紅糸桜)が植えられおり、桜の名所になっている。
 シイの林、ツクバネガシがある。石段下に対のヒノキの大木がある。
◆宮座・神幸祭 宮座があり、3つの鉾仲間が組織されている。壱之鉾、弐之鉾、三之鉾がある。
 もっとも古い壱之鉾は、40軒で構成され、剣鉾「黒鉾」が伝えられている。北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇の頃(1392-1413)に下賜されたという。疫神を祓う祇園御霊会に起源があるという。
 かつて、祇園社との関りがあったともいう。南北朝時代、室町時代には、祇園御霊会に「白川鉾」として参加していたという。(『新札往来』『尺素往来』)。
◆神幸祭 神幸祭(還幸祭の3日前)では、3組の氏子が宮座組織「当家制(とうやせい)」で神鉾を奉祭していた。現在も「鉾仲間」により奉載されている。
 還幸祭(10月の体育の日の前日・日曜日)では、夕暮れに、提灯を灯された神輿は、篝火に照らされ、130段の石段を登りきり本殿へと向かう。
◆年間行事 御弓式・綱引の儀式(上寺、下寺の二組による。)(1月15日)、花行列(花売り装束の白川女が花車とともに行列する。)(4月6日)、北白川高盛御供(10月第1日曜日)、神幸祭(還幸祭の3日前)、還幸祭(10月の体育の日の前日・日曜日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『鳥居』、『京都大事典』、『洛北探訪 京郊の自然と文化』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『増補 洛中洛外の群像』、『日本地名大事典 26 京都府 上巻』、『史跡探訪 京の七口』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都 神社と寺院の森』 、ウェブサイト「コトバンク」   

 
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手水

拝殿

拝殿

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拝殿  拝殿 

天神宮?

天神宮?

日吉大神、春日大神、八幡大神

春日大明神

日吉社

八幡宮

敬神講

大崎元義翁像

加茂社、天照社

加茂社、天照社

瑜徳明神

瑜宮稲荷社

瑜宮稲荷社

瑜宮稲荷社

瑜崎

瑜崎

月影大明神、荒上大明神

月影大明神、荒上大明神

月影大明神、荒上大明神

【参照】白川女(地主神社)

北白川高盛御供(たかもりごく)

白川女


天神宮御旅所

天神宮御旅所
天神宮御旅所 天神宮御旅所、菊花文

【参照】現役の白川女
 
北白川天神宮 〒606-8283 京都市左京区北白川仕伏町8  075-781-8488
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