坂上田村麻呂の墓 (将軍塚) (京都市山科区) 
The grave of SAKANOUE no Tamuramaro
坂上田村麻呂の墓 (将軍塚) 坂上田村麻呂の墓
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「坂上田村麻呂の墓」の碑








墳墓


墳墓
 東栗栖野町の一角、坂上田村麻呂公園内に、平安時代前期の武将・上級貴族の「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓」という石標が立つ。
 ここには小円墳があり、「花木(はなき)塚」とも呼ばれていた。
◆歴史年表 平安時代、811年、5月23日、坂上田村麻呂は粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなる。5月27日、第52代・嵯峨天皇は、栗栖野山城国宇治郡栗栖野村(馬背坂)に3町の地を与え墓地としたという。田村麻呂の遺体には、甲冑、剣鉾、弓箭がつけられ、平安京に向かって埋葬されたという。以来、国家の大事がある毎に塚が鳴動し、その前兆を示したという。以来、東国に出征する者は、田村麻呂の墓に詣で、武運長久を祈願したという。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、墓は荒廃した。
 近代、1895年、墓地は「平安遷都1100年祭」に際して整備されている。墳墓が築造された。
 1919年、この地の北東にあたる西野山古墓(山科区西野山岩ケ谷町)が発見された。副葬品(金銀平脱双鳳文鏡、金装大刀など)が埋葬時の状態で出土した。被葬者は高位の人物であり、この地の豪族・中臣氏一族と推定された。
◆坂上田村麻呂 奈良時代-平安時代の武将・坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ、758-811)。奈良時代の武将・坂上苅田麻呂(かりたまろ)の二男。百済系渡来氏族・漢氏の一族。780年、近衛将監、791年、近衛少尉のまま征東副使の一人として参戦し、793年、陸奥国の蝦夷との戦いで戦功を上げた。795年、京都に凱旋した。近衛少将・木工寮の木工頭、796年、陸奥出羽按察使・陸奥守、鎮守将軍になる。797年、第50代・桓武天皇は、征夷大将軍に任ず。東北経営、平定にかかわる。798年、清水寺に仏殿を造る。801年、第50代・桓武天皇より節刀を贈られ、4万の兵を率いて戦い、勝利し帰京した。従三位、近衛中将となる。802年、胆沢城を築く。造胆沢城使の時、蝦夷の族長・阿弖流為、 盤具母礼らが投降する。阿弖流為らを伴い入京した。後に2人は処刑される。803年、造志波城使として志波城を築城し、804年、再び征夷大将軍に任じられた。造西大寺長官を兼ねた。805年、参議、3度目の遠征は中止になる。807年、右近衛大将に任じられ、清水寺を創建した。810年、第51代・平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立した平城太上天皇の変(薬子の変)では、嵯峨天皇の側につき、上皇の東国行きを止めた。中納言、兵部卿などを経て、810年、正三位大納言まで昇る。粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなる。贈従二位。娘・春子は桓武天皇の後宮に入り、葛井親王を産んだ。
 死後、この地、栗栖野で葬儀が営まれたといわれ、嵯峨天皇の勅により、甲冑、剣、弓矢をつけた姿で棺に納められた。平安京に向かい、立ったまま埋葬されたという。国家に危急ある時、塚の中で大きな音がしたといわれる「将軍塚鳴動」の伝承がある。
 墓地は、現在地の宇治郡栗栖村(山科区栗栖野)とされている。また、西野山古墳(山科区西野山)、東山山頂の将軍塚(東山区)にも葬られたとされ伝説化した。近代、1895年の「平安遷都1100年祭」に際して、現在地栗栖野の墓が整備された。
◆田村麻呂の墓 「贈従二位坂上将軍之墓」の石碑は、1895年、「平安遷都1100年祭」に際して、墓が修復された際に立てられた。篆額は山階宮晃親王、撰文は渡辺千秋京都府副知事による。
 田村麻呂の葬儀は、宇治郡栗栖村の馬背坂(栗栖野丘陵)で行われたという。京都市内には、田村麻呂の墓の推定地が三か所ある。①現在の「坂上田村麻呂の墓(将軍塚)」、②「西野山古墓(こぼ)」(山科区)、③将軍塚(東山区)ともいう。
 1919年に「西野山古墓(こぼ)」(山科区西野山岩ケ谷町)が発掘された。8世紀後期-9世紀前期の墓からは、純金の装飾を施した大刀、金銀の鏡、鉄の鏃などの副葬品が出土した。年代的には田村麻呂の時代と符合し、田村麻呂の墓ともいう。古墓には、一帯の豪族・中臣氏一族に関わる人物が埋葬されているともいわれている。
 清水寺の『清水寺縁起』に墓の位置が記されている。さらに、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」(811年、「太政官符」表題記述)とある。古墳は、清水寺の南東約2kmにある。さらにその南東約1.5kmのほぼ直線状に「坂上田村麻呂の墓」が並ぶ。古墳の位置は、平安京の東の玄関口にあたり、田村麻呂が死後も平安京を守護するという意味を持たされていたともいう。
 1969年には栗栖野一帯の栗栖野丘陵(馬背坂)で「中臣遺跡」が発掘された。坂上田村麻呂の墓も、その中に含まれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都史跡事典』『京都大事典』『中臣遺跡』『桓武天皇と平安京』

 

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【参照】西野山古墓(山科区西野山岩ケ谷町)

【参照】西山古墳
 坂上田村麻呂の墓 〒607-8211 京都市山科区勧修寺東栗栖野町10-13 
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