西野山古墓 (京都市山科区)  
grave of Nishinoyama
西野山古墓 西野山古墓
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この付近 西野山古墓の石標


西山古墓


 東山と山科を結ぶ滑石越(すべりいしごえ)は、滑石街道、醍醐道ともいわれている。府道118号線(勧修寺今熊野線)とも呼ばれる。
 この峠の途中の山裾に、「この付近 西野山古墓(にしのやま こぼ)」の石標が立てられている。この付近は、平安時代の高位の人物墓といわれている。現時点で、古墓の場所は特定されていない。
◆歴史年表 平安時代、8世紀(701-800)後期-9世紀(801-900)前期、西野山古墓に武人が埋葬されたとみられている。
 811年、10月、坂上田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、陸田(畑)、山を与える」と記されていた。(「太政官符」)
 近代、1919年、地元の人々により、竹薮の中から「西野山古墓」(山科区西野山岩ケ谷町)の木棺墓が発掘された。その後、京都帝国大学が調査した。
 現代、1953年、遺物は「山科西野山古墓出土品」として国宝指定される。
 1973年、10月、歴史考古学研究家・鳥居治夫は、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定している。(『近江』)
 1985年、「西野山古墓」の石標が京都洛東ライオンズクラブにより立てられた。
 2007年、6月、京都大学大学院准教授・吉川真司は、文献調査により田村麻呂墓は、西野山古墓の可能性が極めて高いと特定した。
◆坂上田村麻呂
 奈良時代-平安時代の武将・坂上田村麻呂(さかのうえ-の-たむらまろ、758-811)。奈良時代の武将・坂上苅田麻呂(かりたまろ)の二男。百済系渡来氏族・漢氏の一族。780年、近衛将監、791年、近衛少尉のまま征東副使の一人として参戦し、793年、陸奥国の蝦夷との戦いで戦功を上げた。795年、京都に凱旋した。近衛少将・木工寮の木工頭、796年、陸奥出羽按察使・陸奥守、鎮守将軍になる。797年、第50代・桓武天皇は、征夷大将軍に任じた。東北経営、平定に関わる。798年、清水寺に仏殿を造る。801年、桓武天皇より節刀を贈られ、4万の兵を率いて戦い、勝利し帰京した。従三位、近衛中将になる。802年、胆沢城を築く。造胆沢城使の時、蝦夷の族長・阿弖流為、 盤具母礼らが投降する。阿弖流為らを伴い入京した。後に2人は処刑される。803年、造志波城使として志波城を築城し、804年、再び征夷大将軍に任じられた。造西大寺長官を兼ねた。805年、参議、3度目の遠征は中止になる。807年、右近衛大将に任じられ、清水寺を創建した。810年、第51代・平城上皇と第52代・嵯峨天皇が対立した平城太上天皇の変(薬子の変)では、嵯峨天皇の側につき、上皇の東国行きを止めた。中納言、兵部卿などを経て、810年、正三位大納言まで昇る。粟田の別業(東山区粟田口)で亡くなる。贈従二位。娘・春子は桓武天皇の後宮に入り、葛井親王を産んだ。54歳。
 死後、栗栖野で葬儀が営まれたといわれ、嵯峨天皇の勅により、甲冑、剣、弓矢をつけた姿で棺に納められた。平安京に向かい、立ったまま埋葬されたという。国家に危急ある時、塚の中で大きな音がしたといわれる「将軍塚鳴動」の伝承がある。
 墓地は、現在地の宇治郡栗栖村(山科区栗栖野)、西野山古墓(山科区西野山)、東山山頂の将軍塚(東山区)にも葬られたとされ伝説化した。
◆西野山古墓 近代、1919年に山科区西野山岩ケ谷町の竹薮で地元住民により、上部、周囲が木炭で覆われた木棺墓が発見された。墓・副葬品が埋葬時の状態で発見された。京都大学による調査が行われた。
 8世紀後期-9世紀前期の墓からは、純金の装飾を施した金装大刀、金銀平脱双鳳文鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土した。墓は「西野山古墓(こぼ)」と名付けられる。遺物は、1953年に「山科西野山古墓出土品」として国宝指定され、現在は京都大学総合博物館(左京区)所蔵になっている。
 当初より、被葬者は平安時代初期の高位の人物と推定された。この地が中臣氏の本拠地であり、一族に関わる人物が埋葬されたともいわれた。実際には、中臣氏は8世紀(701-800)末にすでに衰退していた。年代的には田村麻呂(758-811)の時代とも符合している。
 1973年、歴史考古学研究家・鳥居治夫は、醍醐天皇陵を起点として、「条里」を現在の地図に当てた。文献から墓の位置を割り出し、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定した。場所は、清水焼団地の西端北寄り付近という。(『近江』第4号)。
 2007年、京都大学文学研究科准教授・吉川真司(当時)は、田村麻呂墓を西野山古墓と特定した。田村麻呂は清水寺を創建したとされている。平安時代後期に編纂された『清水寺縁起』に、平安時代、811年10月17日付の「太政官符表題」が収められていた。田村麻呂墓地として、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、陸田(畑)、山(山林)を与える」と記されていた。この栗栖村の場所は、平安時代の条里図を基にした「山城国宇治郡山科郷古図」の西野山古墓(山科区西野山岩ヶ谷町)地に符合した。その後、西野山古墓の場所の特定はされていない。
 古墓付近は、清水寺の南東約2kmにある。さらにその南東約1.5kmのほぼ直線状に、現在の「坂上田村麻呂の墓」が並んでいる。古墓のある滑石越は、平安京の東の玄関口にあたり、田村麻呂が死後も平安京を守護するという意味を持たされていたともいう。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、2007年6月付「産経新聞」・「京都新聞」・「朝日新聞」、『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都史跡事典』『京都大事典』『中臣遺跡』『桓武天皇と平安京』『山科の歴史を歩く』 『山科事典』 、ウェブサイト「コトバンク」  


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map 西野山古墓 〒607-8309 京都市山科区西野山岩ヶ谷町(滑石越畔)
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