明教寺 (京都市伏見区)  
Myokyo-ji Temple
明教寺 明教寺
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「浄土真宗本願寺派 明教寺」の寺号石標




「浄土真宗本願寺派明教寺」の寺号板


本堂

本堂

本堂










手水舎

手水舎


手水舎


手水舎
 小山御坊ノ内町(こやま ごぼうのうち ちょう)の高台に、明教寺(みょうきょうじ)はある。山号は露山という。
 浄土真宗本願寺派。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、貞観年間(859-877)、859年とも、創建されたという。(寺伝)。円仁(794-864)が牛尾山山中(東音羽山とも)に建立した、連玉山十住心院を前身にするともいう。当初は天台宗であり、聖徳太子作という千手観世音菩薩を安置した。
 862年、勅願所になり鎮護国家の道場になる。
 応和年間(961-964)、焼失した。その後、再建される。後に水害で流出したという。(『宇治郡名勝志』)
 1058年、多田源氏系統とされる駿河守・中川頼道が山科に移住し、院に深く帰依した。以後、同家氏寺になる。
 1444年まで、歴代23世が寺を継ぎ護持した。

 室町時代、1469年? 、小山の郷士・中川喜平治(24世・玄入)が本願寺7世・存如に帰依し創建した。真宗本願寺派に改めたという。(『京都府山科町誌』)。以後、中川家の氏寺になり、住職は中川家が代々相続した。
 一時期、円如上人(1491-1521)の在所になったという。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、類焼した。
 慶長年間(1596-1615)、中川市左衛門(26世・教善)は、牛尾山寺尾から小山御坊内に移して再興した。(「比留田家文書」中「寺社御改帳」)
 1596年、木仏、寺号の明教寺を得る。
 江戸時代、1750年、了空の時、小山村内で移転している。
◆円仁 平安時代の天台宗の僧・円仁(えんにん、794-864)。慈覚大師。下野国に生まれた。9歳で大慈寺の広智に学び、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、その最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て回復し、『法華経』書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。838年、最後の遣唐使と して渡り、9年間学ぶ。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰った。新羅声明を天台声明として取り入れ、その祖となる。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。東京・瀧泉寺、山形・立石寺(円仁の遺体納葬の入定窟がある)、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。『顕揚大戒論』ほか、唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。
 円仁は、法華経と密教は同等であり、円密は一致するとし、天台密教(三部密教、胎蔵部、金剛部、蘇悉地部)を確立した。また、浄土教を一乗思想として天台宗に取り入れた。
◆円如 室町時代の真宗の僧・円如(えんにょ、1489-1521) 。圓如。法名は光融。院号は遍増院。山科本願寺生まれ。浄土真宗本願寺9世・実如の次男(第3子とも)。母は高倉永継の娘・如祐。12歳の時、兄・證如(証如)が早世し、本願寺法嗣になる。北陸門徒への一向一揆の禁止など3か条の戒めを発布した。本願寺一族の嫡男・次男以下を分ける「一門一家制」を設けた。祖父・蓮如の消息「御文(おふみ)」(80通、5帖)をまとめた。1521年、急死する。31歳。
 父に先立っており、歴代法主ではない。妻は叔父・願証寺住持・蓮淳の娘・慶寿院。子・証如が本願寺10世を継いだ。
 小山の明教寺(山科区)を一時期在所にしたという。墓は山科区小山にある。
◆中川喜平治 室町時代の郷士・中川喜平治(?-1453?)。小山郷士。幼少から道心があった。出家し、1444年、本願寺7世・存如に帰依した。玄入と号した。1469年?、小山に明教寺を創建した。
◆観音像 かつて、牛尾山(山科区)山中の十住心院本堂(明教寺前身)に、等身大の「十一面観音像」が安置されていた。ある時、山崩れ洪水(土石流)が起こる。仏閣は流出し、観音像も行方不明になる。
 数年後に、音羽川下流に流された像は、夜に光を放った。東野(山科区)の村人が怪しみ、鋤鍬(すきくわ)により水底から像を見つけた。また、農民が土中より見つけたともいう。村人は深く帰依し、仏閣(松声庵の別殿、現在の称名寺)を建て像を安置した。
 また、像は一度、十住心院に戻されたともいう。その後、再び東野まで流されたため、お堂を建てて安置したという。称名寺では、「鍬形(くわがた)観音」「鍬形痕(くわがたあと)観音」と呼ばれ信仰を集めた。
◆文化財 中川喜平治の子・玄鎮は、父・の遺言により蓮如に帰依した。この時、蓮如が玄鎮に贈った六字名号「真宗帰の名号」がある。巻物、書付がある。
 「明教寺文書」として、縁起(年未詳)、什物帳(年未詳)、中川家系図、蓮如上人御文写、仏飯講取結についての本寂判物、蓮如上人など歴代からの真筆名号下賜物一覧、移転した際の奉行所への届書・絵図などがある。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『山科事典』『京都山科 東西南北』『山科の歴史を歩く』『京都市の地名』『史料 京都の歴史 第11巻 山科区』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 明教寺 〒607-8106 京都市山科区小山御坊ノ内町29   phone 075-591-0237 
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