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七条大橋 (京都市東山区)
Shichijo-ohashi Bridge
七条大橋  七条大橋
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旧親柱




新親橋






三十三間堂の通し矢をモチーフとした欄干のデザイン




欄干


「土木学会選奨土木遺産」のプレート






【参照】江戸時代の七条大橋、2本の橋が渡されている。(「都名所図会」巻2、1780年)松明殿稲荷神社の案内文より


【参照】当初の七条大橋、説明書より

【参照】金属供出された高欄(鋳物製の欄干)、説明書より




七条大橋東詰北側、鴨川河川敷に残る煉瓦の構造物


旧七条大橋の欄干という。ある民家前に置かれていた。


【参照】かつて市内を走っていた市電
 現在の七条大橋(しちじょう-おおはし)は、鴨川に架かる現存の橋の中ではもっとも古い。土木学会により土木遺産に認定されている。
◆歴史年表 平安時代、七条通は平安京の七条大路にあたる。西の端は山陰街道に通じていた。七条大路には、東西の市が面し、門前には市姫の社(市比姫売神社の前身)が祀られていた。
 江戸時代、七条河原には、中州を挟んで2つの橋が架けられていた。その後、1本の七条橋になる。
 1654年、鴨川に架かる11の橋の一つとして七条口(七条橋)の記載がある。(『新版平安城東西南北町井洛外之図』)
 1670年、寛文の新堤により、後に鴨川西岸高瀬川との間、五条(1761年の五条新地)-七条(1717年の七条新地)に遊郭が生まれた。
 近代、1871年より、京都府は橋の修繕費として地車1両につき50文の通行料を徴収した。
 1911年、11月、現在の橋が着工する。
 1913年、3月、現在の橋が市電事業に伴い架橋された。
 1935年、鴨川大洪水では、橋の流出はなかった。護岸が破壊されている。
 太平洋戦争(1941-1945)中、波模様の高欄、照明灯が金属供出により一度撤去される。
 現代、1978年、最後まで残っていた市電の七条線(東山七条-京都駅間)が廃止された。
 1979年-1987年、京阪電車、琵琶湖疏水の地下化工事が行われる。橋長が112.8mより82mに減じた。
 1986年、木造高欄より現在の高欄デザインに修景された。
 2008年、土木学会は選奨の土木遺産に認定される。
◆柴田畦作 近現代の建築家・柴田畦作(しばた-けいさく、1873-1925)。岡山県生まれ。1896年、東京帝国大学工科大学卒。九州鉄道会社技師になる。後に、第3高等学校教授、第5高等学校教授を経て、東京帝国大学工科大学助教授、教授になる。 ドイツ、フランス、アメリカ合衆国に留学した。1905年、工学博士の学位を受けた。国内で初めて鉄筋建築を研究し、応用力学・構造学に造詣深く、本格的な「鉄筋コンクリート建築の祖」といわれた。
 設計に福島県原町市の鉄筋無線送信所主塔、京都の近代化の礎になった「三大事業計画」の道路拡幅、市営電気軌道敷設に関する研究にも関わった。四条大橋、明治神宮の神橋、東大本郷キャンパス理科大学化学教室なども設計している。53歳。
◆森山 松之助 近現代の建築家・森山松之助(もりやま-まつのすけ、1869- 1949)。大阪生まれ。外交官・貴族院議員・森山茂の子。学習院、攻玉社を経て、1893年、第一高等学校を卒業後、1897年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進学した。1898年、第一銀行建築係嘱託になる。1900年、東京高等工業学校の建築学講座担当した。1906年-1921年、台湾総督府営繕課技師になる。1912年、欧米などの視察を行う。帰国後、1922年、森山松之助建築事務所を開設した。
 現存する作品としては、1908年の台北水道水源地喞筒室(自來水博物館)(市定古跡)、1924年の東京・久邇宮邸(聖心女子大学パレス ) (重文)、1929年の諏訪市・片倉館会館・浴場・渡廊下(重文) などがある。79歳。
◆山口孝吉 近代の建築家・山口孝吉(1873-1937)。1897年、東京帝大工科大学造家学科を卒業した。1900年、文部省建築課嘱託になり、帝大の建設に携わる。1907年、東京帝大技師になった。1912年、初代の営繕課長として帝大校舎を手掛ける。現存作品に東大の理科大学科学教室(化学教室東館)がある。64歳。
◆七条大橋 現在の七条大橋の架設年は1913年になる。「京都三大事業」に伴い、「道路拡張および市電敷設」事業の一環として架橋されている。鴨川に架橋された橋の中で、近代、明治期の意匠を残す唯一例であり、鴨川に架かる最古の橋になる。
 橋種は、黎明期のRCアーチの中でも、群を抜いて巨大な橋になる。当初の橋長は112.2mあり、その後、京阪電鉄の地下化、鴨川運河の暗渠化により減じた。基礎に一橋脚当たり末口20㎝、長さ2mの松杭250本が打込まれている。
 設計は、東京大学教授・柴田畦作(1873-1925)による。意匠は森山松之助、山口孝吉による。橋のデザイン様式は、四条大橋と同じく、「セセッション(ゼツェッション、分離の意)」が採用されている。これは、建築上・美術工芸上の一様式であり、1897年にウィーンの若手芸術家たちによって興された。旧来の美術様式を排し、機能性・合理性を重視した当時としてはもっとも斬新な潮流だった。
 高欄(御影石製の柱、鋳物製の欄干)は、パネル、照明灯の鋳鉄部の意匠に特徴があった。太平洋戦争中の金属供出により撤去されている。その後、木製やコンクリート製に替えられた。1986年に現在のデザインに修景される。
 七条大橋と旧四条大橋は、「兄弟橋」といわれている。設計者、意匠の技術者が共通していた。鉄筋コンクリートアーチの基本デザインもスパン15.2m、ライズ1.5mと同じだった。ただ、前者は6連(鴨川5連、疏水1連)、後者は5連(鴨川4連、疏水1連)になる。四条大橋は、1942年に架け替えられている。
 七条大橋の所在地は東山区下堀詰町、路線名は梅津東山七条線、橋種はRC橋/5径間連続RCアーチ/RC充腹アーチ、現在の橋長81.9m/82m、幅員17.8m/18.1mある。2008年、土木学会により土木遺産に認定される。
◆京電 近代、1894年、琵琶湖疏水開通後の水力発電を利用するために、京都電気鉄道株式会社が創立された。通称は「京電」と呼ばれ、日本初の営業用の電車を走らせた。1895年、七条停車場と伏見下油掛間が開業している。その後、1918年に京都市に買収され、京都市電になる。1912年に七条線延長により、東山七条、七条大橋、七条河原町間が通じた。七条大橋の東詰で京阪と平面交差していた。1978年に最後まで残っていた七条線(東山七条-京都駅間)は、惜しまれながら廃止された。 
◆七条 七条について、「しちじょう」と読むが、「ひちじょう」「ひっちょう」「ななじょう」と使い分けることもある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、『京の橋ものがたり』、『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』、『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『京都まちかど遺産めぐり』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、『京都ぎらい』、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」、ウェブサイト「ぼくの近代建築コレクション」、ウェブサイト「コトバンク」

 
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七条大橋 〒605-0992 京都市東山区下堀詰町
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