|
|
|
| * | |
| 七条大橋 (京都市東山区) Shichijo-ohashi Bridge |
|
| 七条大橋 | 七条大橋 |
|
|
![]() ![]() 旧親柱 ![]() ![]() 新親橋 ![]() ![]() ![]() 三十三間堂の通し矢をモチーフとした欄干意匠 ![]() 御所車の「車輪」 ![]() 欄干 ![]() 「土木学会選奨土木遺産」(2008年)のプレート ![]() ![]() ![]() 桁 【参照】江戸時代の七条大橋、2本の橋が渡されている。(「都名所図会」巻2、1780年)、松明殿稲荷神社の案内文より![]() 【参照】当初の七条大橋、説明書より 【参照】金属供出された旧高欄(鋳物製の欄干)、右よりの高欄パネルに花綱装飾が見られる。説明書より![]() ![]() 七条大橋東詰北側、鴨川河川敷に残る煉瓦の構造物 ![]() 【参照】七條大橋の親柱、京都美術工芸大学 東山キャンパス(東山区) ![]() 【参照】旧七条大橋の欄干という。七条大橋南西 ![]() 【参照】市電 |
現在の七条大橋(しちじょう-おおはし)は、鴨川に架かる現存の橋の中ではもっとも古い。土木学会により土木遺産に認定されている。 ◆歴史年表 平安時代、七条通は平安京の七条大路にあたる。西の端は山陰街道に通じていた。七条大路には、東西の市が面し、門前には市姫の社(市比姫売神社の前身)が祀られていた。 江戸時代、七条河原には、中州を挟んで2つの橋が架けられていた。その後、1本の七条橋になる。 1654年、鴨川に架かる11の橋の一つとして七条口(七条橋)の記載がある。(『新版平安城東西南北町井洛外之図』) 1670年、京都所司代・板倉重矩の寛文の新堤築造により、後に鴨川西岸高瀬川との間、五条(1761年の五条新地)-七条(1717年の七条新地)に遊郭が生まれた。 近代、1883年、10月28日、木橋が落成し、通行許可になる。 1886年、木橋が洪水により流出し、新たに架け替えられる。 1871年より、京都府は橋の修繕費として地車1両につき50文の通行料を徴収した。 1872年、10月、七条仮橋で旅人から橋銭を取る。 1895年、第4回内国勧業博覧会の開催に際し、橋の拡張工事がおこなわれる。3月4日、開通式が行われた。 1898年、京都市の管理になった。 1903年、改修される。 1911年、11月、現在の橋が着工する。 1913年、3月、現在の七条大橋が市電事業に伴い架橋された。4月12日、竣工し、15日、渡初式が行われる。 1935年、6月、「鴨川大洪水」では、橋の流出はなかった。護岸が破壊されている。 太平洋戦争(1941-1945)中、波模様の高欄、照明灯が金属供出により一度撤去される。 現代、1978年、最後まで残っていた市電の七条線(東山七条-京都駅間)が廃止された。 1979年-1987年、京阪電車、琵琶湖疏水の地下化工事が行われる。橋長が112.8mより82mに減じた。 1986年、木造高欄より現在の高欄意匠に修景された。 2008年、土木学会により選奨の土木遺産に認定される。 2019年、3月29日、国の登録有形文化財に指定された。 ◆板倉 重矩 江戸時代前期の大名・板倉 重矩(いたくら-しげのり、1617-1673)。男性。幼名は長命、通称は又右衛門、内膳正(ないぜんのかみ)。父・板倉重昌(しげまさ)、母・林吉定の娘の長男。1637年、島原の乱で父・重昌と共に九州へ赴く。重昌は戦死し、重矩は戦功を上げる。軍律に違反し一時逼塞させられた。1639年、三河(愛知県)深溝(ふこうず)藩主・板倉家(2代)を継ぎ、三河中島藩主に転じた。大坂定番を経て、1665年、老中になる。1668年-1670年、京都所司代になる。1669年、鴨川に寛文新堤を築いた。1670年、老中に再任される。1672年、下野(しもつけ)(栃木県)烏山藩主・板倉家初代になる。57歳。 所司代として朝廷からも厚い信任を得ていたという。 ◆柴田 畦作 近現代の建築家・柴田 畦作(しばた-けいさく、1873-1925)。男性。岡山県の生まれ。1896年、東京帝国大学工科大学卒。九州鉄道会社技師になる。後に、第3高等学校教授、第5高等学校教授を経て、東京帝国大学工科大学助教授、教授になる。東大に開設された鉄筋コンクリート講義の担当教授だった。ドイツ、フランス、アメリカ合衆国に留学した。1905年、工学博士の学位を受けた。国内で初めて鉄筋建築を研究し、応用力学・構造学に造詣深く、本格的な「鉄筋コンクリート建築の祖」といわれた。著『工学力学』。53歳。 設計に福島県原町市の鉄筋無線送信所主塔、京都の近代化の礎になった「三大事業計画」の道路拡幅、市営電気軌道敷設に関する研究にも関わった。四条大橋、明治神宮の神橋、東大本郷キャンパス理科大学化学教室なども設計している。 ◆森山 松之助 近現代の建築家・森山 松之助(もりやま-まつのすけ、1869- 1949)。男性。大阪市の生まれ。父・外交官・貴族院議員・森山茂。学習院、攻玉社を経て、1893年、第一高等学校を卒業後、1897年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進学した。辰野金吾に師事した。1898年、第一銀行建築係嘱託になる。1900年、東京高等工業学校の建築学講座担当した。後藤新平に見いだされ、1906年-1921年、日本統治下の台湾総督府営繕課技師になる。1908年頃、台湾初になる鉄筋コンクリート造の台北電話交換所を設計した。台湾では10数件の官庁建設に関与している。1911年、三井物産横浜支店の設計をする。1912年、欧米などの視察を行う。帰国後、1922年、森山松之助建築事務所を開設した。 現存する作品としては、1908年の台北水道水源地喞筒室(自來水博物館)(市定古跡)、1924年の東京・久邇宮邸(聖心女子大学パレス ) (重文)、1929年の諏訪市・片倉館会館・浴場・渡廊下(重文) などがある。79歳。 ◆山口 孝吉 近代の建築家・山口 孝吉(1873-1937)。男性。1897年、東京帝大工科大学造家学科を卒業した。1900年、文部省建築課嘱託になり、帝大の建設に携わる。1907年、東京帝大技師になった。1912年、初代の営繕課長として帝大校舎を手掛ける。現存作品に東大の理科大学科学教室(化学教室東館)がある。64歳。 ◆七条大橋 近代、1911年に七条通の道路拡築のために旧橋は撤去され、新橋に架け替えられることになる。1913年3月に、現在の七条大橋が市電事業に伴い架橋された。4月5日に電車が走っている。4月12日に竣工し、15日に渡初式が行われた。七条小橋から大和大路まで見物人が押し寄せたという。 架橋は、「京都三大事業」に伴い、「道路拡張および市電敷設」事業の一環として実施された。その意図は、道路拡張、広軌の大型電車の導入、市営電気軌道の敷設などにより、その収入源を市財政の安定化に充てるものだった。 七条大橋の架橋は、各地での本格的な鉄筋コンクリート橋架橋の先駆になった。なお、当時、構造物に鉄筋コンクリートが使用され始めていた。鴨川に架橋された橋の中で七条大橋は、近代、明治期の意匠を残す唯一例であり、鴨川に架かる最古の橋になる。 現代、2008年、土木学会により土木遺産に認定される。2019年に鴨川に架かる橋中で、明治期の意匠を残す唯一のコンクリート・アーチ橋として、国の登録有形文化財に指定された。 設計は、東京大学教授・柴田畦作(1873-1925)による。意匠は森山松之助(1869- 1949)、山口孝吉(1873-1937)、工事請負は東京・太田工業事務所による。橋種は、黎明期のRCアーチの中でも、群を抜いて巨大な橋になる。当初の橋長は112.2mあり、その後、京阪電鉄の地下化、鴨川運河の暗渠化により疏水上の1スパンが撤去され減じている。基礎に一橋脚当たり末口20㎝、長さ2mの松杭250本が打込まれている。人車併用橋であり、現在とは異なり歩道・車道の区別はなかった。中央には複線電気軌道が敷設されていた。 橋のデザイン様式は、四条大橋と同じく、「セセッション(ゼツェッション、分離の意)式欧風意匠」が採用されている。これは、建築上・美術工芸上の一様式であり、1897年にウィーンの若手芸術家たちによって興された。旧来の美術様式を排し、機能性・合理性を重視した当時としてはもっとも斬新な潮流だった。 橋脚・太い高欄・親柱上の照明灯が縦の軸線になり、各アーチが架かり横軸を支えている。この当初の高欄は花崗岩の親柱、御影石製の間柱であり、鋳物製[手摺金物]の欄干が連結されていた。欄干、照明灯の鋳鉄部の意匠に特徴があった。西洋の古典的な文様「花綱装飾(Festoon)」が元になり、抽象化されているとみられている。なお、1904年竣工の京都府庁外壁・内壁にも類似した花綱装飾が多く施されている。その後、1941年-1945年の太平洋戦争中の金属供出により、高欄・照明灯の金属部分は撤去された。後、木製やコンクリート製に替えられる。現代、1986年に現在の新たな意匠に修景された。御所車の「車輪」と三十三間堂の「通し矢」を参照している。 七条大橋の所在地は東山区下堀詰町、路線名は梅津東山七条線、橋種はRC橋/5径間連続RCアーチ/RC充腹アーチ、当初は長さ61間(112.2m)、幅10間(18.1m)、径間55フィート(16.7m)、鴨川に5連、疏水に1連の6連アーチ。橋面はアスファルト舗装、軌道面は花崗岩の張石が施されていた。工事費19万8000円。 現在の橋長81.9m/82m、幅員17.8m/18.1m。 ◆七条大橋・旧四条大橋 近代、1913年に七条大橋も旧四条大橋も竣工した。当初の七条大橋(長さ112.2m、幅18.2mの10間)と旧四条大橋(長さ93m、幅21.8m)は、「兄弟橋」といわれている。 設計者、意匠の技術者が共通していた。いずれも過度な装飾を排していた。鉄筋コンクリートアーチの基本デザインもスパン(幅)15.2m、ライズ(高さ)1.5mと同じだった。ただ、七条大橋は6連(鴨川5連、疏水1連)、四条大橋は5連(鴨川4連、疏水1連)になる。両橋の主構造のコンクリート厚さは、基底部91㎝、頂部46㎝、側壁の厚さ50㎝であり、中には、鴨川で採取された土が充填されていた。側壁表面には、花崗砂入りのモルタルで2㎝強に仕上げられた。高欄は、御影石製の柱に欄干が入れられていた。ただ、七条大橋は鋳鉄製、四条大橋はブロンズ製になっていた。両橋とも基礎は、一橋脚当り末口20㎝、長さ2mの松杭250本が打ち込まれていた。 その後、四条大橋は、1942年に架け替えられている。七条大橋は、架橋当時に近い形で残されている。 ◆京電 近代、1894年、琵琶湖疏水開通後の水力発電を利用するために、京都電気鉄道株式会社が創立された。通称は「京電」と呼ばれ、日本初の営業用の電車を走らせた。1895年、七条停車場と伏見下油掛間が開業している。その後、1918年に京都市に買収され、京都市電になる。1912年に七条線延長により、東山七条、七条大橋、七条河原町間が通じた。七条大橋の東詰で京阪と平面交差していた。現代、1978年に最後まで残っていた七条線(東山七条-京都駅間)は、惜しまれながら廃止された。 ◆七条 七条について、「しちじょう」と読むが、「ひちじょう」「ひっちょう」「ななじょう」と使い分けることもある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、『京の橋ものがたり』、『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』、『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都鴨川 七条大橋百年物語』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、『明治の橋』、『京都ぎらい』、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧 、平成28年4月現在」、ウェブサイト「ぼくの近代建築コレクション」、ウェブサイト「コトバンク」 |
|
|
| |
|