耳塚(鼻塚) (京都市東山区) 
Mimi-zuka(Ear Mound)
耳塚(鼻塚) 耳塚(鼻塚)
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墳丘の高さは7m。


五輪石塔








周囲の石の玉垣には、寄進した歌舞伎役者、新派役者などの名が刻まれている。伏見の侠客・小畑勇山が発起人になった。


「耳塚修営碑」
 耳塚(みみ-づか)は、豊国神社、方広寺の西方にあり、当初は「鼻塚(はな-づか)」と呼ばれていた。江戸時代以降、儒者により「耳塚」と呼ばれるようになった。高さ7m、直径26mある。
 耳塚を含む一帯は「方広寺石塁及び石塔」(国史跡)に指定されている。 
◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年-1593年、文禄の役(壬辰[じんしん]の倭乱)が起こる。
 1597年-1598年、慶長の役(丁酉[ていゆう]の倭乱)が起こる。
 1597年、耳塚が築造されている。当初は鼻塚と呼ばれた。旧9月28日、五山僧400人による大供養が修される。
 1599年、秀吉没後、大改修されている。
 江戸時代、1625年、朝鮮通信使副使・姜弘重(1577-1642)は塚を訪れた。
 1662年、寛文の地震で五輪塔に被害が出た。(『かなめ石』)
 1711年、朝鮮通信使の大仏殿前での饗宴に際して、耳塚は竹垣で囲われる。
 1719年、朝鮮通信使の大仏殿前での饗宴に際して、耳塚は竹垣で囲われる。
 1830年、旧7月、京都大地震(文政の大地震)で、耳塚が傾き五輪石塔が南東に飛び落ちた。(『京都地震実録』『宝暦現来集』『甲子夜話』)
 近代、1898年、豊公三百年祭(主宰は豊国会、黒田長成会長)に際して、豊国神社、妙法院、高台寺、智積院、耳塚一帯で顕彰祭が催される。耳塚も大改修され供養の法会が行われる。3月、「耳塚修営碑」が立てられる。秀吉は「邦威振張の符表」として再評価された。
 1915年、石棚に改修される。
 現代、1969年、4月、耳塚・方広寺石塁・豊国神社馬塚は国の史跡に指定された。
 1983年、法要が執り行われる。
 1986年、塚は京都市史跡に指定された。
豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。62歳。 
 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。
◆加藤 清正 室町時代後期-江戸時代前期の武将・加藤 清正(かとう-きよまさ、1562-1611)。男性。幼名は虎、虎之助。尾張(愛知県)の生まれ。父・清忠の次男。豊臣秀吉と同郷の縁により9歳で秀吉の台所方に仕える。元服し加藤虎之助清正と名乗る。1580年、播磨国神東郡120石を給せられる。1581年、鳥取城攻め、備中国冠山城攻め、1582年、山崎の戦い、丹波亀山の戦いに勝利した。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた。1585年、従五位下主計頭に叙せられる。亡き父のために大坂に本妙寺を建てた。1587年、九州征伐には後備、肥後宇土城番を勤める。1588年、肥後北半国領主を任じられ熊本城主になる。1592年-1593年、文禄の役に出兵する。李朝の2王子を捕縛し、兀良哈(オランカ)まで攻めた。講和派の石田三成らと対立した。1596年、一時蟄居を命じられ、徳川家康の後援で解除される。1597年-1598年、慶長の役に再出兵し、蔚山(ウルサン)城で苦戦した。1598年、肥後熊本城主25万石の大大名になる。1599年、清正・福島正則・黒田長政ら6人で大坂の三成邸を襲撃し、三成に伏見の徳川家康の屋敷に逃れられた。1600年、関ヶ原の戦いで小西行長らと確執し東軍に付く。行長の居城・宇土城、柳川・立花宗茂を攻めた。行長滅亡後、家康は清正を肥後54万石に倍増させた。没した母のため、本妙寺を熊本城下に移し、両親の菩提所にした。1603年、従四位下肥後守に叙任した。その後、江戸城、1610年、名古屋城の普請工事を行う。1611年、旧3月、二条城で淀殿を説得し、秀吉遺児・秀頼と徳川家康を会見させ、豊臣家の存続を念願した。その後、熊本に帰着後、病急死した。50歳。
 日蓮宗の熱烈な信者で、大坂・本妙寺(後に熊本城下)、本圀寺に番神堂・経蔵、塔頭・勧持院の再建などを行う。キリシタンを弾圧した。治水、築城、築堤の名手として知られた。
 墓は本妙寺(熊本市)にある。
◆小西 行長 安土・桃山時代の武将・小西 行長(こにし-ゆきなが、?-1600)。男性。通称は弥九郎。キリシタン大名であり、洗礼名はアグスチン(アゴスチーニョ/アウグスチヌス)、内匠頭・摂津守。和泉国(大阪府)堺の生れ。代々薬種業を営む豪商・小西隆佐(りゅうさ、立佐)の次男。兄は如清。早くよりキリシタンの洗礼を受けた。備前・宇喜多氏、1580年頃より、父と共に羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。1581年、播磨国室津(むろのつ)を支配し、1583年頃、舟奉行の一人になり塩飽(しわく、瀬戸内海)から堺までの船舶の監督に当たる。1585年、秀吉の紀州征伐で水軍の長として活躍し、小豆島・塩飽諸島・室津の支配者になる。1587年、九州征伐に参戦し、秀吉が帰途に伴天連追放令を発した際に、五畿内を追われたオルガンティーノを自領・小豆島に保護する。1588年、肥後(熊本県)南半に移封され、宇土城に移る。1589年、天草の豪族五人衆の反逆を鎮圧する。1592年、文禄の役で第一軍の将として朝鮮の釜山に渡り、加藤清正とともに先陣をつとめた。ソウルを陥れ平壌まで占拠した。女婿・宗義智(よしとし)とともに、明との和平交渉を命じられる。明の沈惟敬(しん-いけい)と交渉する。秀吉の降表を偽作し、秀吉の日本国王冊封という結果を得る。従五位下に叙し、内匠頭、摂津守になった。1596年、大坂での明との講和は決裂する。1597年、慶長の役で朝鮮南部に出兵し、清正・浅野幸長の蔚山(ウルサン)籠城戦を援軍した。1959年、秀吉の死により軍は撤退する。1600年、関ヶ原の戦いで西軍・石田三成に与し、徳川家康らに対抗して敗れた。京都六条河原で三成とともに斬首された。
 信仰厚く、高山右近を庇護した。癲病治療・孤児救済など尽力する。その死は教団内では殉教とされた。
◆小早川 隆景 室町時代後期の武将・小早川 隆景(こばやかわ-たかかげ、1533-1597)。男性。幼名は徳寿丸、通称は又四郎、左衛門佐、従三位・権中納言、三原中納言、法名は泰雲紹閑。父・毛利元就(もとなり)、母・吉川国経の娘の3男。1544年、竹原小早川家の養子になり家を継ぐ。1550年、沼田(ぬた)小早川家の正平の娘を室として嗣子になり、両小早川家は合一した。1551年、沼田荘の高山城に住む。1567年、三原城を築く。弟・市正(秀包[ひでかね])を養子とし、のち筑後を与え別家とした。1571年、元就の没後、次兄・吉川元春とともに甥・毛利輝元を補佐した。1576年以後、織田信長の軍と戦う。1582年、豊臣秀吉の高松城攻撃中、本能寺の変で信長が死去し、輝元・元春ら毛利軍中で秀吉との講和を主張した。以後、秀吉の信を得る。1585年、長宗我部(ちょうそがべ)氏を討った功により、秀吉から伊予を与えられた。1587年、島津氏を討伐し、筑前・筑後・肥前を与えられる。筑前名嶋(なじま)城へ移る。1590年、小田原攻めに参戦した。1591年、太閤検地により旧領安芸・備後、筑前・筑後・肥前を改めて与えられた。1592年、文禄の役で朝鮮に出陣し、碧蹄館(へきていかん)の戦で明の大軍を破った。1593年、李如松(り-じょしょう)軍を破る。病により帰国した。1594年、秀吉の猶子・秀秋を嗣子にする。1595年、従三位・参議、権中納言に任じられ、五大老になった。家督を秀秋に譲り、本領・備後三原に隠退する。三原城で死去した。65歳。
 兄・吉川(きっかわ)元春とともに毛利宗家(父・元就、兄・隆元、甥・輝元)を助け「毛利両川(りょうせん)」といわれた。毛利氏と秀吉との提携に役割を果たした。学問を好み、名島学校を興している。洞春寺開山・嘯岳鼎虎(しようがく-ていこ)、大徳寺黄梅院開山・玉仲宗琇(ぎよくちゆう-そうしゆう)に参じて禅を修めた。
◆羽柴 秀勝 安土・桃山時代の武将・羽柴 秀勝(はしば-ひでかつ、1569-1592)。男性。幼名は小吉。父・三好吉房(秀次の弟)、母・瑞竜院日秀(豊臣秀吉の姉)の次男。豊臣秀次の弟。1585年、秀吉の養子・於次(おつぎ)秀勝(織田信長の4男)の没後、秀吉が養子に迎え、同名・秀勝と名乗らせ遺領を相続させた。丹波亀山城主になる。一時、領地の不満を申し立て秀吉の怒りを買う。1590年、小田原攻め後、甲斐・信濃を与えられた。1591年、美濃岐阜城に移る。1592年、旧2月、小督(お江、崇源院)(秀吉側室・淀殿の妹)と結婚した。旧3月、文禄の役で朝鮮に出陣し、唐島(巨済島)で病死した。24歳。
 秀吉の計画では、秀勝は朝鮮全土の統治者の予定だった。小督に男児なく家は断絶した。
◆李 舜臣 李氏朝鮮の武将・李 舜臣(りしゅんしん、1545-1598)。男性。字は汝諧(じょかい)、諡号は忠武。京畿道開豊郡の生まれ、父・李貞。本貫は徳水李氏。1576年、武科に及第した。女真(じょしん)との戦いに軍功をたて、柳成龍(りゅう-せいりゅう)の推薦を受け、1591年、2月、全羅左道水軍節度使になる。改良を加えた亀甲(きっこう)船を建造して防御した。1592年、壬辰の倭乱(文禄の役)で、慶尚左道水軍節度使の元均を救援する。日本水軍を慶尚道海域で破り、制海権を確保した。1593年、8月、宣祖は三道(慶尚・全羅・忠清)水軍統制使を兼職させ、舜臣に全水軍の指揮をゆだねた。1597年、1月、慶尚右道水軍節度使・元均らの中傷により、舜臣は無実の罪で捕らえられ、統制使を罷免された。7月、丁酉の倭乱(慶長の役)で元均が閑山島の海戦で敗れる。舜臣は再起用され、珍島沖の潮流を利用した海戦などで、少数の兵力により日本水軍に善戦する。1598年、11月、露梁(ろりょう)の戦いに大勝後、小西行長が救援した島津勢に被弾し戦死した。遺稿集『忠武公全書』。53歳。
 救国・水軍の名将とされる。壬辰の倭乱の海戦で亀甲船を用いた。表面を固い板で覆い、船上に蓋を載せ錐(すい)刀を装備し火砲戦法を用いた。日本軍は銃撃・白兵戦による接舷戦法を得意としたものの、竜骨を用いず船体も弱かった。議政、のちに領議政に追贈された。
◆西笑 承兌  室町時代後期-江戸時代前期の臨済宗僧・西笑 承兌(せいしょう/さいしょう-じょうたい/しょうたい、1548-1608)。男性。号は月浦、南陽、字は西笑。山城(京都)の生まれ。幼くして出家し、中華承舜(にんじょ-しゅうぎょう)の法を嗣ぐ。一山派の仁如集堯ら学ぶ。1584年、相国寺92世になり、夢窓派に転じた。1585年、五山・十刹・官寺の住持任免などに携わる鹿苑僧録(ろくおんそうろく)に就く。多くの寄進が相次ぎ、中興の祖になる。その後、南禅寺、再度、鹿苑僧録に就く。1592年・1597年、文禄・慶長の役で、南禅寺・玄圃霊三(げんぽ-れいさん)らと肥前国名護屋に赴き、朝鮮在陣の諸将への檄文作成を行う。1596年、明使の招来した明の国書を大坂城で読み、秀吉は「封爾為日本国王」に激怒し、慶長の役に繋がる。1600年、関ヶ原の戦後は徳川家康に仕え、対外交渉、畿内寺社に関わる。著『西笑和尚文集』『異国来翰認』、『鹿苑日録』中に、日記『日用集』がある。夢窓派。梵唄に優れた。60歳。 
 豊臣秀吉、徳川家康の政治顧問として重用され、寺社行政、明・朝鮮との外交文書の起草、朱印船貿易の朱印状の作成に関わる。
◆雨森 芳洲 江戸時代前期-中期の儒学者・雨森 芳洲(あめのもり-ほうしゅう、1668-1755)。男性。名は俊良、東(とう)、後に対馬藩主・宗義誠より諱の1字を与えられ誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎、東五郎、字は伯陽、号は芳洲、尚絅堂(しょうけいどう)、橘窓(きっそう)、漢名は雨森東。近江国伊香(いか)郡雨森村(長浜市)/京都の生まれ。父・医者・雨森清納。1679年、京都で医学を学ぶ。1685年頃、江戸の幕府儒官・朱子学者・木下順庵に入門した。同門に新井白石、室鳩巣、祇園南海らがいた。1689年、師・順庵の推薦で対馬藩儒になり、江戸藩邸勤めを経て、1692年、対馬国へ赴任した。1698年、朝鮮方佐役になる。1702年、釜山へ渡る。1703年-1705年、釜山の倭館に滞在し、朝鮮語を学ぶ。1711年、6代将軍・徳川家宣の就任を祝う朝鮮通信使に随行し、江戸に赴く。通信使の待遇、家宣の「日本国王」号に反対し、白石と対立した。1714年、貿易立藩対馬の立場から銀輸出に関わる経済論争を展開する。1719年、8代将軍・徳川吉宗の就任を祝う朝鮮通信使に随行した。1720年、朝鮮王・景宗の即位を祝賀する対馬藩使節団に参加し釜山に渡る。1721年、藩内に朝鮮訳官による密貿易事件で、同門儒者・松浦霞沼と共に厳罰主義の「潜商議論」で藩に反論した。朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男・顕之允に譲る。自宅に私塾を開いた。1727年、藩を説得し朝鮮語通詞養成所を対馬府中に創設させた。1729年、対馬藩の裁判(全権特使)として釜山の倭館に赴き、公作米(朝鮮から輸入米穀)の交渉に携わる。1734年、対馬藩主の側用人に就任し、藩政に関する上申書『治要管見』、朝鮮外交概要『交隣提醒(こうりん-ていせい)』を記した。著『橘窓茶話』朝鮮語入門書『交隣須知』など。対馬厳原の別邸で亡くなる。88歳。
 木下門下の五先生・十哲の一人。同門の新井白石としばしば対立した。徂徠学派の人々と交流があった。「誠信外交」の道を説く。「互いに不欺、不争、真実を以て交り候を誠信とは申し候」(『交隣提醒』)とした。朝鮮語・中国語に通じ、晩年は『古今和歌集』一千遍詠みを完了し、2万首の詠草を成し遂げた。
 墓は長寿院(対馬市)にある。
新井 白石 江戸時代前期-中期の学者・詩人・政治家・新井 白石(あらい-はくせき、1657-1725)。男性。名は君美(きんみ)、通称は勘解由(かげゆ)、通称は与五郎、伝蔵、勘解由、字は在中、済美、紫陽など。江戸の生まれ。父・上総久留里(千葉県)藩士・正済(まさなり)、母・千代。父・正済と共に譜代大名・土屋利直に仕え寵愛された。1677年、土屋家内紛に連座し、追放禁錮処分を受け浪人になる。1679年、土屋家の改易により禁錮が解ける。1682年、大老・堀田正俊に出仕した。1684年、正俊が刺殺される。1686年、木下順庵に入門し朱子学を学ぶ。1691年、堀田家を辞し、江戸城東に塾を開く。1693年、順庵の推薦により甲府侯・徳川綱豊に出仕し、侍講として儒教、経典、歴史を講義した。1709年、徳川綱吉の死により綱豊(家宣)が6代将軍になり、白石は西の丸寄合になった。経書、史書の講義をし、側用人・間部詮房(まなべ-あきふさ)と協力し家宣を補佐した。1711年、五位下・筑後守に叙任される。内政外交両面での大改革を主導した。69歳。
 「武家諸法度」の改訂、貨幣の鋳、日朝外交修正、長崎貿易制限、皇子皇女の出家廃止の建議、儀式典礼の整備、裁判などを行う。家宣、7代将軍・家継による善政は「正徳の治」と呼ばれた。
 漢詩人として知られた。儒学者であり、哲学、倫理学、史学、地理学、言語学、文学、民俗学、考古学、宗教学、武学、植物学(本草学)などに通じた。イタリア人宣教師・シドッチから西洋の知識を得る。著『読史余論』、歴史編纂物『藩翰譜(はんかんぷ)』、『古史通』、語源研究の『東雅』、 自伝『折たく柴の記』など多数ある。
 浅草・報恩寺に葬られた。墓は高徳寺(東京都)にある。
◆林 羅山 安土・桃山時代-江戸時代前期の儒学者・林 羅山(はやし-らざん、1583-1657)。男性。名は信勝、字は子信、通称は又三郎、別号は道春、羅浮子、浮山、羅洞など。京都の生まれ。父・加賀郷士末裔で浪人。幼くして養子に出される。1595年、建仁寺に入り、13歳で大統庵・古澗慈稽、14歳で十如院・英甫永雄(雄長老)に師事した。1597年、出家を拒否し家に戻る。1604年、角倉素庵の仲介で藤原惺窩(せいか)に儒学、朱子学を学ぶ。1605年、惺窩の推挙により二条城で徳川家康に謁見した。1606年、イエズス会日本人修道士・イルマン.ハビアンと論争し、地球方形説と天動説を主張した。1607年、家康命により剃髪し道春と称し仕える。2代将軍・秀忠に講書を行う。1614年、大坂の役に際し、方広寺鐘銘事件で家康に追従し勘文を作る。1624年、3代将軍・家光の侍講になる。1632年、幕府より与えられた地、江戸上野忍岡に私塾学問所、孔子廟などを建て、先聖殿(後の忍岡聖堂、昌平坂学問所)と称した。1635年、武家諸法度を起草した。1657年、明暦の大火により神田本邸の文庫を焼失し、落胆し4日後に急逝した。75歳。
 幕府儒官林家の祖といわれる。朱子学、儒学の官学化に貢献し、近世儒学の祖になる。幕藩体制の身分秩序を位置付ける役割を果たした。家康以来、将軍4代に仕え将軍の侍講になった。伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集、「諸士法度」などの法令制定、外交文書起草、典礼調査、朝鮮通信使の国書起草・応接、オランダ・シャムとの通信、教育、文化にも幅広く関与した。幕命で『寛永諸家系図伝』『本朝編年録』を編修した。
 生誕地は中京区新町通錦小路上ルとされる。場所は確定されていない。
◆姜 沆 李朝中期の文臣・姜沆(カン・ハン/キョウ・コウ、1567-1618)。男性。字は太初、号は睡隠。朝鮮晋州(慶尚南道)の生まれ。1593年、科挙の文科に合格した。朝鮮屈指の大儒李退渓、李栗谷らの学統をつぐ。1597年、豊臣秀吉の慶長の役(丁酉の倭乱)で、藤堂高虎水軍の捕虜になる。京都伏見で幽閉生活を送り、播磨竜野城主・赤松広通の援護を受ける。相国寺の禅僧・藤原惺窩と交友し、朝鮮朱子学・孔子祭典を伝える。1600年、釈放され帰国した。主著『睡隠集』(『看羊録』を含む)。52歳。
◆姜 弘重 江戸時代前期の朝鮮通信使の随員・姜 弘重(カン・ホンジュン、1577-1642)。詳細不明。男性。1624年、第11回朝鮮通信使の副使として来日した。1625年、旧正月17日に大仏殿を訪れている。7カ月間の経験を日記に記録した著『東槎録』がある。以降、通信使行録の典型になった。
◆頼 山陽
 江戸時代中期-後期の儒学者・頼 山陽(らい-さんよう、1780-1832)。男性。賴山陽、名は襄(のぼる)、字は子成、通称は久太郎、別号は東山に因み三十六峰外史。大坂に生まれた。父・広島藩儒・春水(彌太郎)、母・静子(梅颸)(大坂の町医者・飯岡義斎[いのおか-ぎさい])の娘)。父は朱子学を修め、私塾「青山社」を開く。1781年、父が安芸国広島藩儒官になり、ともに広島に移る。幼少期に朱子学に親しみ、叔父・頼杏坪(きょうへい)、儒学者・柴野栗山に学ぶ。9歳で学問所に入る。14歳でで、栗山勧めにより米子の『通鑑綱目』を読む。1797年-1798年、叔父に従い江戸に出る。儒学者・尾藤二洲に朱子学・国学を学んだ。服部栗斎に学ぶ。江戸・昌平黌に学んだ。20歳で淳子と結婚する。1800年、21歳で脱藩し、禁を犯し京都へ向かう。広島に連れ戻される。狂とされ、5年近く座敷牢に幽閉された。この時、『日本外史』を起稿した。1803年、24歳で廃嫡になり、幽閉を許された。1809年、郷里を出て父の友人で儒者・詩人・菅茶山(かん-ちゃざん)の「廉塾(れんじゅく)」の塾頭になった。1811年、京都に戻り塾を開く。1815年、後妻・梨影と結婚する。父・春水の没後、1818年-1819年、九州旅行に出る。1822年、京都・三本木に移った。1826年、『日本外史新稿本』が完成する。1830年、『日本政記』の大半が完成する。
 山陽は、一君万民の「平等」による王政復古を唱え、明治維新の原動力になった。尊皇攘夷志士に多大の影響を与え、著『日本外史』は、松平定信に献呈され題言も与えられている。山陽の「勤皇」「尊王」に、幕藩体制を否定する意図はなく、近藤勇も愛読したという。大坂町奉行所与力・大塩平八郎、梁川星巌、篠崎小竹、浦上春琴ら多くの文人墨客と交わった。
 19歳の時に作詩した「蒙古来」、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」、「天草洋に泊す」なども知られる。地唄「東山」の作詞もした。「東山三十六峰」、漢語をつないだ「山紫水明」は山陽の造語による。『題春琴画』中の詩に、「水明山紫是君家」とある。江戸、九州など各所を訪ねた。書家、画家としても知られた。源平両氏から徳川氏に至る歴史を漢文体で叙述した歴史書『日本外史』22巻(1826)、『日本楽府』(1828)、神武天皇-後陽成天皇に至る編年体の歴史書で、絶筆の『日本政記』(1832)は、門人・関藤藤陰らが完成させた。53歳。
 夫妻の墓は長楽寺(東山区)にある。
◆朝鮮出兵 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536/1537-1598)の明征服「高麗御陣(こまごじん)」、「文禄・慶長の役」(1592-1593・1597-1598)(朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」[ イムジン・チョンユウカエラン] 、中国では「万暦朝鮮役」)の際に、当初、16万人の兵が朝鮮に侵攻した。
 秀吉は、明・朝鮮の征服みならず、天竺(インド)・ルソン(フィリピン)・高山国(台湾)征服の意図があった。諸国大名も、海外での領土拡大を望み、堺や博多の大商人も海外交易の意図から支持した。なお、秀吉の大仏殿造営に際して、集められた木材の一部は、朝鮮出兵の際の軍用船の資材に転用されている。
 秀吉の朝鮮出兵について、頼山陽(1781-1832)は『日本外交史』の中で、3歳で夭逝した子・鶴松(1589-1591)への失意の念が、「武を天里の外に用ふ」との見方を示した。鶴松は1591年旧8月5日に急逝している。旧9月、秀吉は兵船を造らせ、朝鮮出兵を命じている。
 戦いの前線は、肥前名護屋城に置かれた。出兵は一番隊(小西行長、宗義知ら)から九番隊(羽柴秀勝、長岡忠興)まであり、兵力総数は30万5300人に上った。
 当初、日本軍は鉄砲も使い優勢に戦いを進める。朝鮮側の大きな抵抗は見られなかった。日本軍は、漢城・平城・豆満江まで侵攻する。その後、李舜臣(イ・スンシン、1545-1598)の水軍による亀甲船の反攻で日本軍は大敗する。義兵の抵抗も各所で起きた。後に、明軍は朝鮮を支援し援軍を送る。小早川隆景、立花宗茂らはこれを破っている。
 一時、講和交渉が行なわれた。だが、秀吉は明の国書で日本国が属国扱いされたとして怒り、交渉は決裂した。安土・桃山時代、1597年、第二次の朝鮮出兵が行われ、14万人の兵が再び送られた。1598年、秀吉没後、日本兵は朝鮮から撤兵している。
◆耳・鼻 秀吉の命により加藤清正(1562-1611)、小西行長(1555?-1600)らの武将は、「戦功の証」として朝鮮の人々の鼻や耳を削いだ。ただ、「鼻請取状(はなうけ-とりじょう)」という公式文書(藤堂、黒田、吉川、鍋島の各家3万人分)が残されていることから、鼻削ぎだけが行われともいう。
 当初の「鼻塚」から「耳塚」の呼称に変わったのは、儒学者・林羅山(1583-1657)が、江戸時代前期、1641年に書いた『豊臣秀吉譜』以来ともいう。以後、「鼻斬り」は「耳鼻斬り」に変わり、塚も「耳塚」に変わった。最後に、「鼻斬り」の事実も「耳斬り」に変化させられたとみられている。
 当初は、朝鮮軍将兵の首を日本に送っていた。やがて、首は鼻に代わった。軍兵一人に、鼻三つが割り当てられていたともいう。後に、鼻は朝鮮の軍民を問わず、老若男女僧俗より削がれた。鼻は塩漬け(塩石灰)、酢漬けにして本格的に日本に持ち帰るようになる。その数は、桶15杯にもなった。数は推定5万個とも10万個以上ともいう。鼻は、壺・大桶・大樽などに、1000-2000個単位で入れられていたともいう。諸大名・家臣を監視する軍目付が、これらの数を点検していた。桶は船で名護屋に送られ、海路で大坂に向かう。ここで荷揚げされ、牛車・馬車に積み代えて陸送し、京都まで届けられた。秀吉は、これら諸大名の戦功を褒め称え感状を出していた。
 耳鼻を削ぐという「戦功の証」の方法は、秀吉に限らない。織田信長の一向一揆鎮圧以来の常套手段になっていた。戦国時代、武将の首が討ち取られると首級を持ち帰った。下級兵卒の場合には、首の代わりに鼻を削いだという。
 なお、この戦は「焼き物戦争」といわれ、多くの朝鮮人陶工なども日本に連行されている。捕虜になり連行された人々の数は7500人ともいう。
◆耳塚 耳塚は、安土・桃山時代、1597年に築造されている。当初の塚の規模は小さく、翌1598年に拡張された。塚築造について、秀吉が後世に自らの偉業を残すためだったという。また、夜な夜な、秀吉の前に耳、鼻のない人々の霊が現れ、秀吉を苦しめたからともいう。また、俗説として、大仏鋳造に際して、鋳型の土を埋め「御影塚(えみづか)」とした。それが後に「耳塚」と誤って呼ばれたともいう。
 京都五山の400人の僧を集め、盛大な施餓鬼供養が行れている。秀吉の信任が篤かった相国寺僧・西笑承兌(1548-1608)により、「秀吉の慈愍(じびん、慈しみ哀れむの意)」の旨が卒塔婆銘文に記された。強制連行された朝鮮李氏王朝時代中期の官人、朱子学者・姜沆(1567-1618)は、この旨に対して批判している。
 翌1598年、秀吉没後、日本兵も朝鮮から撤兵した。1599年に塚は大改修されている。一時は、塚の周りに堀も掘られたという。
 近代、1898年、耳塚周辺一帯で61日間にわたる盛大な豊公三百年祭が催される。この時、塚の修復と「耳塚修営碑」が立てられている。秀吉の「京観(戦功)」とともに、「赤十字社之旨」などと新たに刻まれた。
◆朝鮮通信使 江戸時代前期、1617年に朝鮮通信使一行のうち、随員の中・下官の歓迎宴会は大仏殿前で行われた。副使・李景稷(イ・ギョンジク)は、宿館になっていた大徳寺への帰路の途中で耳塚を目にした。「聞くたに痛骨に耐えず」(『扶桑録』)と記している。その後、大仏殿での宴席は恒例になる。
 1624年に第11回朝鮮通信使の副使・姜弘重(カン・ホンジュン)は、1625年旧正月17日に大仏殿を訪れている。「高麗人来朝のおりは、此塚を見て、かならず落涙すときこえぬ、げにその時うたれし人の末なるもおほしとぞ」(『洛陽名所集』巻4、1658年)とある。
 江戸時代中期、1711年に儒者・雨森芳洲(1668-1755)の進言と、儒者・政治家・新井白石(1657-1725)の仲介により、耳塚には竹垣の覆いが施されるようになる。1719年に来日した通信使側は、大仏殿での招宴を強硬に拒否したため、次回以降は中止になった。
◆文政の大地震 江戸時代後期、1830年旧7月の京都大地震(文政の大地震)で、耳塚が傾き五輪石塔が南東に20mほど飛び落ちた。飛んだのは笠石・宝珠ともいう。
 この時、向かいの家の角の柱が折れたという。残りの部分は、乾(北西)方向に傾き、捻じれたともいう。(『京都地震実録』『宝暦現来集』『甲子夜話』)
◆五輪石塔 現在、墳丘上に立てられている五輪石塔は、近代、明治期(1868-1912)に立てられた。高さ7m。
 石柵には、中村鴈治郎、中村扇雀、井上正夫、曾我廼家五郎、桃中軒雲右衛門らの名が刻まれている。
◆耳塚修営碑 耳塚修営碑は、近代、1898年3月20日に方広寺権大僧正・泰良カ(?-?)により建立された。篆額は彰仁親王(1846-1903)、撰文は妙法院門跡・村田寂順(1838-1905)によるとされる。実際には京都府属・湯本文彦(1843-1921)による。
 漢文の碑文大意は「他国と戦争をするのは国の力を主張するためで、人を憎むからではない。中国ではむかし楚の国の人が敵の死骸を埋めて,勝利を誇る京観という塚をつくろうとしたが、楚国の王は、戦死者は自国のために戦ったのだからと許さなかった。この行いは立派な行為であるが、豊太閤(豊臣秀吉)の慈悲の心には及ばない。文禄慶長の朝鮮出兵で我が軍は連戦連勝し、諸将は敵の鼻を軍功の印に切り取った。豊太閤は敵の兵士が国のために戦死したことを憐れみ、鼻を京都大仏の前に埋め、塚を築き鼻塚と名づけ大供養を修した。時に慶長2年旧9月28日のことである。太閤の敵味方を差別せず慈悲を垂れたのは、赤十字社の精神を三百年前に発現したといってもよいであろう。この塚はその後耳塚と呼ばれるようになった。年月がたち豊臣家は亡びたが塚は残り、京都の名物として豊公をしのぶ人々を引き寄せていた。
 耳塚の地はもと妙法院に属していたので、同寺が法事を執行していたが、世は移り変わりひさしく荒廃にまかせていた。ことし(明治31年)は豊公の三百年忌にあたり、ゆかりの武将らの子孫が阿弥陀ヶ峰の墓を修理し、三百年の遠忌を行うことになった。だがその事業には耳塚のことは含まれていない。方広寺の泰良権大僧正(碑文の撰者村田寂順の弟)は、方広寺大仏殿と耳塚は同じ豊公の縁で結ばれているので、塚を修理して法事を営むことを望んだ。わたし(碑文の撰者村田寂順)も妙法院がかつて豊国廟を管理していた縁でそのことを希望し、ともに尽力した。ここに広く資財を募り明治31年1月3日に耳塚修理を起工し、3月20日に竣工した。
 この塚はわが国の勢力拡張の象徴であり、豊公の徳の遺物である。朝鮮とわが国とは相助けて発展していくべき立場にあり、他の国に先がけてその独立を助け、日清戦争を戦い、友誼をまっとうした経過がある。昔は豊公がすでに交戦の時でありながら実行していたのである。ここに塚を補修し碑を建てることで、両国の友好と豊公の偉業を記念するものである。 」(「京都のいしぶみデータベース」
)
◆年間行事 慰霊祭(ギョレオル活動国民運動の主催による。韓国国立民俗国楽院舞踏団が舞う。)(10月頃)。


*普段は塚敷地内立入禁止。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都案内 歴史をたずねて』、『京の石碑ものがたり』、『耳塚の話』、『秀吉・耳塚・四百年』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『京都・観光文化 時代MAP』 、『朝鮮通信使と京都』、『京都の歴史災害』、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「文化史17 朝鮮通信使 -京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


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