大応寺 (京都市上京区)
Daio-ji Temple
大応寺 大応寺 
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庫裏














織部稲荷社


【参照】後花園天皇の火葬塚、境内北にある。
 大応(應)寺(だいおうじ)の地は、悲田院の旧地になる。山号は金剛山という。 
 臨済宗相国寺派、本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1586年、虚應(応)が悲田院の由緒ある遺跡を惜しみ、現在地に一宇を建立した。当初は延暦寺に属した。天台、真言、禅の兼学であり、仏殿には黄檗宗の隠元隆琦筆の「大応寺」の扁額が掛っていたという。(『山州名跡志』)
 武将・茶人・古田織部(1543-1615)は、境内に織部稲荷社を祭祀したという。(『坊目誌』)。織部司によるともいう。
 江戸時代、1645年、興聖寺の虚應(応)により、悲田院の泉涌寺(東山区)への移転に際して、その旧地に創建したともいう。現在地に、大応(應)寺が建立されたともいう。
 1788年、天明の大火により焼失した。(『翁草』) 
 1808年以後、現在の堂宇が再建された。
◆虚応円耳 安土・桃山時代-江戸時代前期の僧・虚応円耳(こおう-えんに、1559-1619)。俗姓は斎藤、別号は無染。京都に生まれた。妙満寺・日重に学び、1586年、大応寺を開く。臨済宗となり、1603年、興聖寺を創建した。1615、上野・長楽寺の天海より、台密の葉上(ようじょう)流を継ぐ。著『心経円耳註』など。 61歳。
◆古田織部 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・茶人・古田織部(ふるた-おりべ、1543/1544-1615)。名は重然(しげなり)、通称は左介、号は印斎、景安、古左、古織(こしょく)、法名は金甫宗室。美濃(岐阜県)の生まれ。古田重定の子。初め、美濃の守護大名・土岐氏に属した。1560年、織田信長の美濃平定の際に、父とともに信長に従う。播州攻略に活躍した。1582年、信長の死後、豊臣秀吉に従う。山崎の戦に加わる。この頃より千利休と親交した。1583年、賤ヶ岳の戦、1585年、紀州根来攻め、四国征伐などに出陣した。秀吉が関白に任じられ、織部は従五位下織部正(かみ)になる。秀吉に山城国西ヶ岡に領地を与えられた。1587年、九州征伐、1590年、小田原征伐に従い、1592年、文禄の役で肥前名護屋に下る。秀吉によりわび茶を武家の茶に改めるように命じられ、書院式茶道を完成し諸大名に伝授した。秀吉の最晩年に、御咄衆の1人に加えられる。1591年、利休の堺蟄居を命ぜられた際に、細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送る。1594年頃、小堀遠州が弟子入りする。慶長年間(1596-1615)初年、茶の湯名人と評される。1598年、秀吉没後に徳川家康に仕え、千利休に茶を学ぶ。1600年、関ヶ原の戦で徳川方に付いた。1603年より、小堀遠州に茶の湯を伝授した。(慶長伝授)1605年頃/1610年、2代将軍・徳川秀忠に江戸城で指南した。京洛での放火事件に織部の茶坊主が関与し、1615年、大坂夏の陣で、恩ある豊臣方に通じたとして、一族とともに捕えられた。伏見木幡(こばた)の屋敷内で抗弁せず自刃した。72/73歳。墓は大徳寺塔頭・三玄院(北区)、興聖寺(北区)にもある。
 後に利休七哲の一人になる。織部流茶道の祖。破格の茶といわれ、茶の湯を変革した。利休の茶を改め、武士好みの茶道、大名茶を確立する。作意は織部好みと呼ばれた。茶室に多窓形式の興福寺八窓庵、藪内家燕庵、露地、形の歪む「へうげもの(沓型茶碗)」の織部焼、灯籠などを残した。切腹後は「天下一の宗匠」などと称された。門弟に徳川秀忠、本阿弥光悦、小堀遠州などがある。著『茶湯伝書』。
◆後花園天皇 室町時代の第102代・後花園天皇(ごはなぞの-てんのう、1372-1470)。法名は円満智、諡は彦仁王、後文徳院、後花園院。父は伏見宮貞成親王(後崇光院)、母は庭田幸子(敷政門院)。1428年、第101代・称光天皇没後、足利義宣(後の義教)の保護を得た彦仁王は、北朝第6代・歴代第100代・後小松上皇猶子となり、親王宣下のないままに践祚、1429年、即位した。1433年、上皇没後に親政を行う。土一揆、永享の乱・嘉吉の乱などが起こる。1443年、後南朝勢力は土御門内裏に夜襲をかけ、天皇は近衛忠嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた。(禁闕の変)。剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は失う。1444年、同母弟・貞常王に親王宣下を行い、1447年、父・貞成親王に太上天皇の尊号を奉る。1455年、木寺宮邦康王(後二条天皇の5世孫)に親王宣下、1457年、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが、後南朝の行宮を襲い神璽を奪還した。(長禄の変)。1461年、常盤井宮全明王(亀山天皇5世孫)に親王宣下。1464年、成仁親王(第103代・後土御門天皇)へ譲位した。上皇となり、左大臣・足利義政を院執事として院政を敷く。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)では、東軍・細川勝元による西軍治罰綸旨の発給を拒否した。天皇とともに室町第へ移り、出家、法名を円満智と号し、室町第で亡くなる。52歳。
 詩歌、管弦、学問に優れた。1439年、勅撰和歌集『新続古今和歌集』が成立。 1471年、悲田院で火葬され本堂前に埋骨し、その上に山茶花を植えたという。2月、遺詔により常照皇寺(京北町)の光厳天皇陵の傍、後山国陵に遷された。分骨所は般舟院陵(上京区)にあり、火葬塚が大應寺境内北にある。当寺は火葬塚の護持を行っていた。
◆古筆了佐 安土・桃山時代-江戸時代の古筆鑑定家・古筆了佐(こひつ-りょうさ、1572-1662)。姓は平沢、名は節世、通称は弥四郎、別号は正覚庵櫟材。近江国(滋賀県)に生まれる。父・宗休と京都に出て、父とともに烏丸光広に入門し和歌、古筆鑑定を学んだ。近衛前久、光広らに和歌などの教えを受ける。豊臣秀次に純金の「琴山」鑑定印を与えられた。古筆鑑定の第一人者となる。91歳。
◆仏像 ◈本堂内には、本尊「釈迦如来」、脇侍に「迦葉」「阿難」を安置する。
 ◈第102代・後花園天皇の念持仏という「観世音菩薩像」を安置する。
◆悲田院 病人・貧窮者・孤児の救済施設だった悲田院には興亡があり、同時期に複数存在したこともあったとみられている。
 古代(奈良時代-平安時代)、悲田院は東西二院あった。西悲田院は鎌倉時代以前に廃絶する。
 鎌倉時代前期、14世紀(1301-1400)に現在の上京区扇町に悲田院が再建された。これは、西悲田院の系譜の上悲田院(安居院悲田院)という。南北朝時代、1354年、泉涌寺末寺になったとみられる。
 南北朝時代、1381年、牛増は、悲田院(上悲田院、安居院悲田院)を後の扇町の地に再建したという。院では、1471年、後花園天皇の葬礼が行われる。1473年、細川勝元の葬礼が執り行われた。安土・桃山時代、1573年に織田信長の上京焼討ちで焼失したともいう。江戸時代、1645年に悲田院は泉涌寺に移転している。
◆鎮守社 境内に祀られている織部稲荷社は、古田織部が伏見稲荷大社より勧請したという。開運福徳、織物技術上達の神として信仰を集めた。
◆火葬塚 大応寺境内北に第102代・後花園天皇の火葬塚がある。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。この火葬塚は、信憑性が高いといわれている。
 天皇は1470年に室町殿で亡くなる。この時、皇室の香華院の泉涌寺が、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失しており、この地の悲田院で葬礼が行われた。その後、火葬、埋骨され、後花園天皇が親近感を抱いた常照皇寺(京北町)の光厳天皇陵の傍にある後山国陵に遷された。分骨所は般舟院陵(上京区)にもある。遺骨の一部は、大原・法華堂(左京区)にも遷されたという。


*非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都大事典』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『歴代天皇年号事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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大応寺 〒602-0071 京都市上京区扇町722,堀川通鞍馬口下ル東側   075-431-1926
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