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悲田院 〔泉涌寺〕 (京都市東山区) Hiden-in Temple |
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悲田院 | 悲田院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 南無大師遍照金剛(空海) ![]() 境内からの北方向の眺望 |
泉涌寺の塔頭の一つ悲田院(ひでん-いん)は、月輪山支峰の悲田院山にある。平安時代の福祉施設、悲田院の後身といわれている。 真言宗泉涌寺派、本尊は阿弥陀如来。 泉山(せんざん)七福神、第6番、毘沙門天、除災招福の信仰がある。 ◆歴史年表 飛鳥時代、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)が身寄りのない老人、孤児の救済のための施設として開いたという。(寺伝) 平安時代、794年以降、医療施設・施薬院(やくいん)の管轄下に、当時の福祉施設、悲田院が置かれた。左京には東悲田院、右京には西悲田院の東西二院があり、病人・孤児・貧窮者を収容した。 11世紀(1001-1100)、西悲田院は廃絶した。 鎌倉時代、1273年、西悲田院系譜の安居院(あんご-いん)悲田院の名が記されている。(田総文書「備後国長和荘領家地頭所務和与状」) 鎌倉時代前期、14世紀(1301-1400)、現在の上京区扇町に悲田院が再建されたという。これは、西悲田院の系譜、上悲田院(安居院悲田院)という。 1308年/1293年、上悲田院(安居院悲田院)は、無人如導(むにん-にょどう)により再建されたともいう。(『坊目誌』「京都府寺院明細帳」)。無人如導は、一条安居院(上京区青木町)に移転させ再興し、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺とした。 1317年、伏見上皇(第92代)の五七日仏事で、上悲田院(安居院悲田院)など5カ所で温室の施行(施湯、湯施行)が行われた。(群書類従『伏見上皇中陰記』) 南北朝時代、1354年頃、泉涌寺末寺になったとみられる。(「大般若波羅蜜多経」奥書) 1381年、牛増は、悲田院(上悲田院、安居院悲田院)を後の扇町の地に再建したともいう。(『空華日用工夫略集』) 室町時代、第102代・後花園天皇(1419-1470)は勅願寺にする。以後、住持は天皇の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発給する文書)を贈られ、紫衣参内が許された。天皇の葬儀や荼毘が行われたという。 1471年、後花園天皇の葬礼が行われる。(『親長卿記』『宗賢卿記』『武家年代記』) 1473年、細川勝元の葬礼が執り行われた。 1573年、織田信長の上京焼討ちで焼失したともいう。元亀年間(1570-1573)/天正年間(1573-1593)の兵乱により衰退したともいう。 江戸時代、1645年/1646年/正保年間(1645-1648)/寛永年間(1624-1644)、泉涌寺80世・如周恵公(にょしゅう-けいこう)の時、高槻城主・永井直清が帰依し、上京区扇町より現在地(東山区)に移され、泉涌寺の塔頭になる。 近代以前、境内は方三町、御朱印32石、別朱印9石余、高槻藩より年200石の玄米、80石の布施米が寄せられていた。堂舎営繕も藩により行われていた。 近代、1885年、塔頭・寿命院と合併になり再興された。 ◆厩戸王 飛鳥時代の皇族・政治家の厩戸王(うまやど-の-おう、574-622)。男性。聖徳太子(しょうとく-たいし)、上宮太子(じょうぐうたいし)。父・第31代・用明天皇、母・皇宮・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。593年、皇太子となり第33代・女帝推古天皇の摂政。594年、仏教興隆の詔を出した。600年、新羅征討軍を出し交戦したともいう。601年、斑鳩宮を造営する。602年、再び新羅征討の軍を起こしたともいう。603年、冠位十二階を定め、604年、十七条の憲法を発布、君、臣、民が和し仏法に則る立国の根本義を明らかにした。605年、斑鳩宮に遷る。607年、小野妹子を国使として遣隋使を派遣、以後、対等外交が成る。609年頃、天皇と皇太子は鞍作鳥(くらつくりのとり)作の丈六仏像を法興寺金堂に納める。620年、馬子と議し歴史書編纂の初例『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を録した。48歳。 595年、高句麗の僧・慧慈、百済の僧・恵聡が渡来し法興寺に住して仏教を広めた。皇太子は593年、四天王寺、607年、法隆寺を建立し、仏教経典の注釈書『三経義疏』を著し、仏教普及に尽力した。 墓は磯長墓(しながのはか) と呼ばれ大阪府南河内郡太子町にある。 ◆無人 如導 鎌倉時代後期の僧・無人 如導(むにん-にょどう、?-?)。詳細不明。男性。1308年/1293年、一条安居院(上京区青木町)に移転させ悲田院を再興する。1311年、北野観音寺、1326年、法音院を創建する。9寺を建立した。1356年、後見天皇皇女・進子内親王を落飾させる。 ◆快慶 平安時代後期-鎌倉時代前期の仏師・快慶(かいけい、?-?)。詳細不明。男性。号は安阿弥(あんなみ)、法名は安阿弥陀仏。署名は仏師快慶、丹波講師(たんばこうじ)、越後法橋、巧匠安阿弥陀仏、法橋快慶、法眼快慶など。運慶の父・康慶の弟子、運慶の門弟ともいう。1183年、運慶が発願した法華経の結縁(けちえん)者の一人になる。1189年、 興福寺旧蔵・弥勒菩薩像(ボストン美術館蔵)、建久年間 (1190-1199) 、 東大寺復興の造仏に運慶を助けた。1192年/1194年頃、重源の建立した兵庫浄土寺・阿弥陀三尊像、1201年、東大寺・僧形八幡神像、1202年、東大寺俊乗堂・阿弥陀如来像、建仁年間(1201-1204)、東大寺公慶堂・地蔵菩薩像、奈良・文殊院・文殊五尊像(?)、1203年、運慶らと合作の代表作である東大寺南大門・金剛力士像などがある。1236年まで造仏した。 慶派仏師であり、運慶と並び鎌倉時代を代表した。30点近くの作品、現存遺作は20点ある。作風は藤原様式、宋の新様式を取り入れた。写実的、優美で安阿弥様式と呼ばれ、後世まで影響を与えた。東大寺中興の重源(ちょうげん)に師事し、阿弥陀信仰し熱心な浄土教信者だった。 ◆後花園 天皇 室町時代前期-中期の第102代・後花園 天皇(ごはなぞの-てんのう、1419-1470)。男性。彦仁(ひこひと)、後文徳(ごもんとく)院、後花園院、法名は円満智。京都の生まれ。父・伏見宮3代貞成(さだふさ)親王(後崇光院贈天皇)、母・敷政門院(ふせいもんいん)幸子(こうし)(庭田経有[つねあり]の娘)の第1皇子。北朝の崇光天皇の曾孫。兄に一休宗純。1428年、第101代・称光天皇は病死し、天皇に嗣子がなかった。後小松上皇(第100代)の猶子として、将軍・足利義教に嗣立された。義教は朝廷に介入した。1429年、即位し、後小松上皇は院政を執る。皇位は持明院統嫡流の崇光天皇流に復帰した。1433年、後小松上皇没後、親政を開始した。1438年、永享の乱で治罰綸旨の発し朝敵制度が復活する。以後、天皇の政治的権威は上昇する。1441年、嘉吉の変で赤松満祐の討伐に治罰綸旨(ちばつ-りんし)が出される。1444年、弟・伏見宮貞常王(さだつねおう)に親王宣下を行う。1464年、皇太子・成仁(ふさひと)親王(第103代・後土御門天皇)に譲位し、院政を敷いた。1461年、大飢饉の中で山荘造営した将軍・足利義政に漢詩を贈り戒めた。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、畠山政長への治罰綸旨が乱の発端になり、恥じ仮御所で密かに出家した。後土御門天皇とともに左大臣・二条政嗣の仮御所の室町第に移り、ここで没した。52歳。 足利義満の皇位簒奪未遂以後の皇権を回復した。人々の救済のために、心境経書写し、醍醐寺三宝院・義賢に命じて供養させた。和歌・管弦、和漢に通じた。『御製和歌集』、成仁親王に心得を記した「後花園院御消息」、日記『後花園院御記』がある。 陵墓は後山国陵(右京区京北)にある。火葬塚は大応寺(上京区)境内に山形、空堀がある。分骨所は、般舟院陵(上京区)域内に宝篋印塔、金剛寺内(大阪府河内長野市)にもある。 ◆永井 直清 安土・桃山時代-江戸時代前期の大名・永井 直清(ながい-なおきよ、1591-1671)。男性。通称は伝十郎。父・永井直勝の次男。2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)に仕え、小姓、書院番頭になる。山城・長岡藩主、1649年、摂津・高槻藩藩主、京都所司代代理、大坂城代代理を歴任した。永井家初代。泉涌寺80世・如周恵公に帰依した。81歳。 悲田院(東山区)に歴代墓がある。 ◆土佐 光起 江戸時代前期の土佐派の画家・土佐 光起(とさ-みつおき、1617-1691)。男性。幼名は藤満。和泉(大阪府)堺の生まれ。父・土佐光則。1634年、父に従い京都に移る。1654年、従五位下左近衛将監に叙任された。宮廷の絵所預として承応度内裏造営に伴う障壁画制作などを行う。土佐家再興を果たし、剃髪して常昭と号した。1681年、法橋、 1685年、法眼になる。主な作品は「秋郊鳴鶉図」(光成との合作) 、「北野天神縁起絵巻」 「鶉図」(光茂と合作)など。著『本朝画法大伝』。75歳。 土佐派の画風に、狩野派、漢画、宋の院体画の要素も取り入れた。土佐派中興の祖。土佐三筆(ほかに光長、光信)と称される。 ◆土佐 光成 江戸時代前期-中期の土佐派の絵師・土佐 光成(とさ-みつなり/みつしげ、1647-1710)。男性。幼名は藤満丸、左兵衛尉、法名は常山。京都の生まれ。父・土佐光起の長男、兄・土佐光親(みつちか)。1681年、父を継ぎ絵所預となり、1696年、正六位下左近将監に任じられ、1696年、従五位下刑部権大輔に至る。内裏、仙洞御所の絵事御用を務めた。1696年、従五位下、形部権大輔に叙せられた。同年、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家し常山と号したという。名手と称せられた。65歳。 ◆悲田院 悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づいている。 悲田院(悲田所)は、飛鳥時代の皇族で政治家・厩戸王(聖徳太子、574-622)が、身寄りのない老人や孤児、貧窮者、病者などを収容する施設として建てたのが始まりといわれる。 奈良時代、723年、奈良・興福寺に、施薬院(せやく-いん)とともに置かれた。730年、第45代・聖武天皇の光明皇后が平城京に設置した。その後、諸国の寺院などにも設けられた。 平安京の悲田院も、病人、捨て子、孤児、貧窮者、身寄りのない老人を収用する福祉施設だった。左京の東悲田院は左京南辺端、鴨川河原近く(東京極大路の東、北は三条坊門末路、南は姉末路、現在の本能寺付近)にあったとみられている。右京は、西悲田院(九条大路の南、現在の南区吉祥院三ノ宮町付近)に送られた。 これらの業務は、条(一条∼九条)に置かれた条令(じょうれい)、令(条長、うながし)という役人が担った。病人一人ひとりに、預(あずかり)、雑使が付けられた。孤児には、預、雑使、乳母、養母が付けられた。財政は、国家と、藤原氏などの有力貴族、僧侶による寄付などで運営されていたとみられている。施しは庶民以上の待遇であり、米、塩などを配給していた。 ◆仏像・木像 ◈美仏の「宝冠(ほうかん)阿弥陀如来坐像」(72㎝)(京都府指定文化財)は、鎌倉時代前期、快慶(?-?)作と伝えられる。客仏になる。 現代、2009年に京都国立博物館、大津市歴史博物館などの調査により、頭部の内刳面から「アン(梵字)阿弥陀仏」の墨書が発見された。初期、無位時代の快慶作と断定された。 平安時代中期、925年に藤原忠平(880-949)が創建した法性寺(ほっしょう-じ)の後身である、九条兼実(1149-1207)が建立した後法性寺殿(月輪殿)より遷されたのではないかとみられている。 装身具を身に着けた阿弥陀如来像であり、「異形像」と呼ばれる。通例と異なり頭部に螺髪はなく、冠座があり、髪を高く結い上げている。天台宗系の修行である常行三昧の本尊として造立されたともいう。袈裟は両肩を覆った通肩に纏い、上品上生印を結び瞑想している。金色に彩色されていた。金剛界八十一尊曼荼羅の図像を造形化したとされる。宋様式の影響があるという。 ヒノキ材、割矧(わりはぎ)造。 ◈鎌倉時代の「阿弥陀如来立像」は、本来は左手の与願印を右手で結ぶことから「逆手の阿弥陀如来立像」とも呼ばれている。南宋風であり独特の着衣法をしている。 木造、寄木造、漆箔。 ◈「毘沙門天」は、除災招福の仏として信仰されている。 ◈「無人如導和尚像」は、江戸時代作。 ◈「高槻藩主永井直清像」は、江戸時代作。 ◆建築 ◈現在の本堂は、江戸時代前期、正保年間(1645-1648)の建立による。 ◈庫裏、客殿、玄関、披月庵がある。 ◆文化財 ◈本堂に江戸時代、土佐光起(1617-1691)筆の漢画34面がある。東の間「唐人物画(陶淵明愛菊図)」、西の間「松に群猿図」「走獣画」になる。 ◈子・光成(1646-1710)との共同による中の間「紅葉に芦雁図」、橋本関雪(1883-1945)筆の襖絵がある。 ◆煎茶 当院は煎茶道「東仙流(とうせん-りゅう)」の総司所になる。泉涌寺長老を家元としている。 ◆墓 境内には、永井家累代の墓がある。 ◆七福神巡り 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9カ寺を巡る。現代、1951年以来続けられている。これらを福笹を持ちお参りしていく。 第1番は福禄寿・即成院、第2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、第3番は恵比寿神・今熊野観音寺、第4番は布袋尊・来迎院、第5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、第6番は毘沙門天・悲田院、第7番は寿老人・法音院になる。 ◆年間行事 泉涌寺山内の七福神めぐり(甘茶接待)(1月成人の日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『平安京散策』、『日本の美仏図鑑』、『京都傑作美仏大全』、『第45回記念京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』、『京の福神めぐり』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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