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悲田院遺址 (京都市中京区) Site of Hiden-in Temple |
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悲田院遺址 | 悲田院遺址 |
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![]() ![]() 【参照】現在の悲田院(東山泉涌寺山内町) |
中京区河原町御池の交差点南西角に、財団法人古代学協会が立てた「悲田院の遺址(ひでんいん-の-いし)」という案内板がある。 平安時代、この地には、東悲田院が置かれたという。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、この地に、医療施設・施薬院(やくいん/せやくいん)管轄下にあった福祉救護施設・東悲田院(東京極大路の東、北は三条坊門末路、南は姉末路、現在の本能寺付近)があったという。 845年、「鴨河悲田」と記され、東悲田院は左京南辺端、鴨川河原近くにあったとみられている。(『日本後記』) 1017年、鴨川の氾濫により、東悲田院に収用されていた病人300人が流され溺死したという。(『小右記』『左義記』)。その後、施設は三条辺に移されたという。 11世紀(1001-1100)前半、10世紀(901-1000)とも、西悲田院(九条大路の南、現在の南区吉祥院三ノ宮町付近)は廃絶している。 1165年、東悲田院は、大火により焼失した。(『清獬眼抄』) 1168年、東悲田院は再び焼失した。(『百錬抄』)。その後、鴨川西に再建される。 鎌倉時代、1213年、東悲田院は焼失し、再建される。(『明月記』)。その後、衰退した。 1293年、無人如導(むにん-にょうどう)は、仏寺として悲田院を再興する。扇町(上京区青木町)に移る。 1308年、安居院(あぐい、上京区)に移る。 室町時代、1471年、後花園法皇(第102代)は、寺院化した悲田院で荼毘に付される。火葬塚が築かれた。 1473年、源勝元(細川右京大夫)が悲田院で火葬される。 1474年、式部卿貞常親王が悲田院で火葬された。 1573年、織田勢の「上京焼き討ち」により悲田院は焼失した。 江戸時代、寛永年間(1624-1644)、救済施設は岡崎に移る。悲田院村として近代まで存続した。 1645年、京都守護・永井日向守平直清は、悲田院を東山泉涌寺山内町に移す。寺は、泉涌寺の塔頭としていまも残る。 現代、1989年、現在地に、財団法人古代学協会が「悲田院の遺址」の案内板を立てる。 ◆施薬院 医療施設である施薬院(やくいん/せやくいん)は、左京九条三坊三町(南区東寺通中殿田町付近)にあった。 役人の「別当」は2人あり、藤原氏、外記(げき)より各々1人が選ばれていた。その下に、「使(つかい)1人、「判官(まつりごとひと)」1人、「主典(さかん)」1人、「医師」1人、「史生(ししょう)」4人が付いた。施薬院は福祉施設・悲田院を管轄していた。薬園(山城国乙訓郡)が開かれていた。 財源は、播磨国(1万束)、美作国(1千束)の施薬院料である貸付の出挙稲(すいことう)の利息より充てられていた。 ◆悲田院 福祉救護施設・悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づいている。平安京の病人、捨て子、孤児、貧窮者、身寄りのない老人を収用する福祉施設だった。 悲田院は左京、右京に各々1つ置かれた。左京には東悲田院があった。左京南辺端、鴨川河原近く、東京極大路の東、北は三条坊門末路、南は姉末路、現在の本能寺付近にあったとみられている。右京には、西悲田院があった。九条大路の南、佐比末路の西、馬代末路の東、現在の南区吉祥院三ノ宮町付近とみられる。 業務は、条(一条より九条)に置かれた役人の「条令(じょうれい)」、「令(条長、うながし)」が担っていた。病人一人には、「預(あずかり)」、「雑使」が付けられた。孤児には、「預」、「雑使」、「乳母」、「養母」が付けられていた。 施しは庶民以上の待遇であり、米、塩などを配給していた。 財源は、国家、藤原氏などの有力貴族、僧侶による寄付などで運営されていたとみられている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『平安京散策』『平安の都』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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