宇治川・宇治橋 (宇治市)
Uji-gawa River,Uji-bashi Bridge
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宇治川


宇治橋


宇治橋


擬宝珠、宇治橋





昭和の宇治橋の「三の間」




現在の宇治橋の「三の間」





紫式部像、宇治橋西詰



宇治十帖モニュメント、朝霧橋東詰



宇治川の中州塔ノ島の浮島十三重の石塔()、



宇治川先陣の碑、橘島、1931年建立。
平安時代、1184年、木曽義仲と源義経の戦いに先立ち、名馬・磨黒に乗る梶原源太景季と生食に乗る佐々木四郎高綱の先陣争いが起こる。一族郎党の見守る中、近江源氏の佐々木が勝利した。




 宇治川沿いに広がる宇治は、平安時代より貴族の別荘地として栄えてきた。 藤原氏の遺構や紫式部『源氏物語』の舞台となっている。  
 宇治川に架かる宇治橋 (うじはし)は、飛鳥時代に架けられ、日本最古級の橋とされている。
◆宇治 景勝地の宇治は、古くより奈良から山城、近江、北陸へ抜ける交通の要衝地にあたっていた。
 平安遷都(794)以後、貴族たちの別業(別荘)地となっていく。第50代・桓武天皇皇子・明日香親王、官人・賀陽豊年、第52代・嵯峨天皇皇子・源融らも住んだ。
 平安時代中頃以降、隆盛となる藤原氏の別業が営まれていく。木幡に藤原道長の浄妙寺(1005)も創建され、藤原氏一門の菩提寺となる。その子・頼道は極楽浄土を具現する平等院(1052)を建立している。藤原氏関連の陵墓「宇治三十七陵」も築かれている。
 紫式部の『源氏物語』の第三部、第45帖-54帖「宇治十帖」では、宇治が舞台に設定され、第45帖「橋姫」巻から54帖「夢浮橋」巻まで橋の物語が織り込まれた。
◆宇治橋の歴史年表 飛鳥時代、646年、大和・元興寺(がんこうじ)僧・道登(どうとう)と道昭は共同で、宇治川に宇治橋が架けた。架橋は日本最古の事例といわれている。(「宇治橋断碑」)
 666年-679年、道照(和)により架橋されたともいう。(『続日本紀』)
 橋は幾度となく洪水により流出している。そのたびに架け替えられてきた。
 平安時代、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)に際して宇治橋、山崎橋が固められる。
 842年、承和の変に際して宇治橋、山崎橋が固められる。
 948年、東大寺の観理らにより修造された。
 1180年、以仁王、源頼政と平氏の軍は、宇治橋を挟んで合戦(橋合戦)になる。(『平家物語』)
 1184年、宇治川を挟み源範頼、源義経軍と源義仲軍が対峙した。佐々木高綱、梶原景季の先陣争いがある。(『平家物語』)
 鎌倉時代、1201年-1204年頃、流失する。(『百錬抄』)
 1219年、修復される。(『百錬抄』)
 1221年、承久の乱で、北條泰時・北條時房ら幕府軍と朝廷軍との決戦がある。
 1284年、網代の全面撤廃により太政官符が下され、宇治橋架橋が始まる。
 1286年、架橋が終わる。叡尊は200人の僧とともに供養する。
 南北朝時代、1336年、足利尊氏の軍が迫り、楠木正成は防衛に当たり渡河を防いだ。板橋を外し、川に石を並べ、垣(逆茂木)を造った。(『太平記』)
 室町時代、1480年、宇治との対立により三室戸郷が橋を焼き落とす。(『後法興院政家記』)
 1580年、織田信長により宇治橋が架けられる。ある分限者が検校の地位を不正に得て、座頭衆より許可料を得ていたことが告発された。その赦免料を充てた。
 1577年、誠仁親王が見物する。(『兼見卿記』)
 1579年、大和・三輪山より大木700本が宇治橋の資材として伐り出され引かれた。(『多聞院日記』)
 近代、1871年、架け替えられる。
 1912年、鉄橋に架け替えられた。
 現代、1996年、現在の橋に架け替えられている。
◆道登 飛鳥時代の僧・道登(どうとう、生没年不詳)。山城国に生まれたという。高句麗に留学し、元興寺(飛鳥寺)に住した。唐に渡り、嘉祥大師吉蔵に師事して三論宗を学んだともいう。645年、十師の一人に任じられ、646年、道昭とともに宇治橋を架けたという。650年、穴戸国国司による白雉献上の際に上奏して、白雉(はくち)に改元された。
◆道昭 飛鳥時代の僧・道昭(629-700)。道照。河内国に生まれた。百済系。日本法相宗の祖。653年、入唐学問僧として渡り、長安・玄奘三蔵の弟子となり、経・律・論の三蔵、禅を学ぶ。661年、帰国し、多くの経論、仏舎利を持ち帰る。飛鳥・法興寺(飛鳥寺)に住し、禅院で唯識論を講じ、参禅した。日本への禅伝来の初例とされている。法相宗を広める。698年、薬師寺の繍仏の開眼導師になり、日本初の大僧正に任じられた。西方を向き端坐して亡くなる。
 各地に井戸を掘り、渡に船を設置し、橋を造るなどの社会事業を行う。僧侶として火葬(荼毘)の初例ともいう。宇治橋架橋については異説もある。
◆叡尊 鎌倉時代の律宗の僧・叡尊(1201-1290)。大和国に興福寺の学侶慶玄の子として生まれた。幼くして母を亡くし醍醐寺に入り、1217年、叡賢を師として出家した。高野山、東大寺などでも真言密教を学ぶ。1236年、東大寺で自誓受戒をし比丘となる。大和海竜王寺、1238年、西大寺に住む。「非人」を文殊菩薩の化身とし、「非人宿」を造り、戒を授け救済を行う。1269年、般若寺で「非人供養」した。ただ、その「非人観」に限界があった。1262年、鎌倉幕府の北条時頼の招きで鎌倉にも下向した。
 1286年、宇治川の網代破却による殺生禁断を実行し、宇治橋を再興している。弟子に忍性がある。
宇治茶の栽培を奨め、漁民の転業のため川で布を晒す曝布業を奨励した。
◆宇治橋 1996年、現在の橋に架け替えられた。ヒノキ製の高欄、擬宝珠は江戸時代、1636年架橋時の形状を採用している。橋の全長は155.4m、幅25m。
◆宇治川 淀川水系の宇治川は、総延長9.7㎞ある。滋賀県の琵琶湖から流れ出し、瀬田川となる。京都府に入り宇治川と名前を変え、木津川、桂川と合流し、淀川となる。
◆宇治山 宇治山は池尾西の喜撰山をいう。また、宇治川沿いの山の総称ともいう。
 歌枕にもなる。「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」(「古今集」雑下、喜撰、九八三)。
 平安時代、1184年、鎌倉の源頼朝は、京都の木曾義仲追討の大軍を送る。源義経の率いた軍の搦め手に、佐々木高綱と梶原景季があった。戦で2人は「宇治川の先陣争い」をする。(『平家物語』)
 鎌倉を出発する際に、景季は頼朝に名馬「生食(いけづき、池月)」を所望した。だが、頼朝は二番手の「磨墨(するすみ)」を与える。頼朝は「生食」を高綱に与えたため、景季は高綱を殺めようとする。高綱は景季に、贈られたのではなく盗んだと弁解する。
 義経軍と義仲軍は宇治川で対陣した。橘島で高綱は「生食」、景季は「磨墨」に騎乗し川中での先陣争いをする。遅れを取った高綱は、景季の乗る「磨墨」の腹帯が緩んでいると忠告した。景季が腹帯を締め直している隙を衝いて、高綱が一番乗りを果たした。
 義経の搦手の畠山重忠は、瀬踏みのため500騎の馬筏を組んで宇治川を渡った。重忠の馬が射られて流されたため徒歩で渡河した。同じく馬を流された大串重親が重忠に掴ってきた。大力の重忠は重親を対岸に放り投げる。着地した重親は、自分が徒歩立ちの一番乗りと名乗りを上げる。敵味方から笑いが起こったという。(『平家物語』)
  鎌倉時代、1221年、承久の乱では宇治川の宇治橋付近で、幕府方と朝廷方(京方)の間で最大の戦闘が行われた。6月13日、幕府方の足利尊氏、三浦泰村は、総大将・北條泰時の許可なく合戦を始めた。朝廷方は弓矢により応戦し、幕府方の兵士は苦戦を強いられる。泰時は兵を引いて、翌日、増水した川を渡ろうとして、泰時ともども軍兵800が流された。その後、幕府方は浅瀬を渡ることに成功した。朝廷方は総崩れになり大敗し、幕府軍が入京した。
◆橋姫 宇治橋の守護のために祀られていた橋姫神社祭神の橋姫は、美男が橋三の間から川を覗く際に、見初め、川に引き摺り込むという伝承がある。また、嫉妬深く、仲睦まじい男女を嫌い、不幸にするといわれた。このため、婚礼に向かう新郎新婦はこの橋を決して渡らなかったという。  
◆三の間・祭礼・秀吉 宇治橋の上流側にある張出部分「三の間(三ノ間)」には、かつて橋の守り神、橋姫が鎮座する橋姫神社が祀られていた。その後、橋の西詰に遷される。江戸時代、1867年の洪水により流され、いまは橋の南に遷されている。
 宇治川の名水は、この三の間から汲まれ、茶の湯として茶人に尊ばれた。秀吉も伏見城で用いた茶の湯の水をこの地で汲み上げたという。ただ、後世の付会ともいう。なお、1591年、利休切腹に追い込んだ秀吉は、その半月後に宇治を訪れ茶摘みをしている。秀吉は宇治茶老舗「上林春松本店」の上林竹庵と懇意で、利休ともども愛用していたらしく、店より茶を取り寄せていた。ある時、届けられた茶袋の底に穴が開いていたとして秀吉が叱責した書状も残る。
 現在も、名水汲み上げの儀(10月第一日曜日)が行われている。
 縣神社の大幣神事(6月8日)では、大幣を宇治橋上から宇治川に流す。
◆源氏物語 『源氏物語』の「宇治十帖」(45帖「橋姫」巻-54帖「夢浮橋」巻)では、宇治が舞台になった。光源氏はすでになく、次男・薫(柏木の長男)、孫・匂宮、浮舟が登場する。
 宇治川河畔には、光源氏の異母弟・八の宮の山荘(現在の宇治上神社付近)が営まれていた。この山荘で、薫は美しい姉妹(大君、中の君)に出会う。
 川の対岸には、薫の兄・夕霧が受け継いだ宇治の別荘(現在の平等院付近)が建てられていた。薫の妻になった浮舟は、匂宮と小舟に乗り宇治川へ漕ぎ出す。
◆十三重石塔 宇治川の中州にある塔ノ島の浮島に「十三重石塔」(重文)が立つ。鎌倉時代作であり現存する日本最大の最古の石塔という。初重塔身に金剛界四仏の梵字、九重目笠石、相輪は近代の後補になる。高さ約15m、花崗岩製。
 鎌倉時代、1284年(1286年)、奈良西大寺の叡尊は、宇治橋の架け替えに際し、橋の流失は魚霊の祟りであるとした。宇治川での殺生禁断令の発布を朝廷に訴え、網代などの漁法は禁じられた。塔の下に漁具などを埋め、1286年に法要が営まれた。
 塔は、再興を繰り返し、江戸時代、1756年の大洪水による流失後、近代、1907年(1908年とも)に再興された。塔には金剛舎利塔などの納入品があり、放生院に所蔵されている。
◆源氏物語 『源氏物語』「宇治十帖」の第51帖「浮舟(うきふね)」では、匂宮が薫を装い、浮舟と思いを遂げる。雪降る夜に、浮舟と匂宮は再び愛を交わす。それを知った薫は浮舟を詰り、浮舟は死を思う。匂宮は浮舟を小舟に乗せ、隠れ家に連れ出す。舟は「橘の小島」付近を渡った。塔ノ島に続く中の島付近とされる。
 第52帖「蜻蛉(かげろう)」では、宇治川に入水した浮舟の葬儀が行われる。薫も四十九日の法要を営む。入水場所は宇治神社の上流付近(水力発電所付近)と想定されている。第53帖「手習」では、浮舟の遺骸が州浜に打ち上げられた。横川の僧都とその妹の尼が見つけた。現在の宇治駅付近ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『秀吉の京をゆく』『日本の名僧』『おんなの史跡を歩く』『源氏物語を歩く旅』『紫式部と平安の都』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の地名検証』『京都時代MAP 平安京編』


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夢浮橋 

夢浮橋之古跡 


【参照】祇園祭、浄妙山、『平家物語』の宇治川の合戦から題材をとった。平安時代、1180年、高倉宮以仁王を奉じた源三位頼政が平家と宇治橋で戦った。一来法師と三井寺の僧兵・筒井浄妙が頼政に従って奮戦した。ご神体は、一番乗りの浄妙坊が橋桁を渡ろうとしたところ、一来法師が「悪しう候、御免あれ」と声をかけて浄妙坊の頭上を飛び越え先陣をとった瞬間を表現した。

宿木之古跡

寄木之古跡

塔の島

橘島

朝霧橋、1972年架橋

橘橋

喜撰(きせん)橋
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