彼方神社 (宇治市) 
Ochikata-jinja Shrine
彼方神社 彼方神社 
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「式内彼方神社」と刻まれた社号標



「椎本之古跡」


灯籠、江戸時代、「享保十八年(1733)十一月建立」の銘


灯籠、「諏訪大明神」と刻まれている。


 宇治川に架かる宇治橋の北東に、小社・彼方神社(おちかた じんじゃ)はある。平安時代中期の『源氏物語』ゆかりの地とされ、「椎本(しいがもと)之古跡」といわれている。
 祭神は宗像神(むなかたのかみ、諏訪明神)。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中、「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「宇治彼方神社 鍬靫」に比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代中期、紫式部の『源氏物語』「宇治十帖」第46帖「椎本(しいがもと)」巻の古跡とされてきた。境内に二本の椎があり、椎ヶ本社と称したという。
 927年、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中、「宇治彼方神社 鍬靫」と記されている。
 江戸時代、諏訪大明神とも称した。
◆祭神 祭神については宗像神(『大日本史』)という。天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)で生まれた3女神をいう。田霧姫命(たぎりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。航海の守護神。
 また、江戸時代には、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀ったともいう。大国主命の子で武神。諏訪大社の祭神であり、当社は諏訪大明神とも呼ばれたともいう。
 また、大物主命(おおものぬしのみこと)ともいう。大国主命の別名で、奈良・三輪山の大神(おおみわ)神社、四国・金刀比羅宮の主祭神。海上の守護神、水神・農耕神になる。
◆彼方 彼方(おちかた)神社の「彼方」の語源も諸説あり詳細は不明。「彼方」「大路方」「乙方」とも書かれた。
 境内が、宇治大橋の傍らの街道に面していることから、「大路方(おおじかた)」と称したのが、「おちかた」に転訛しともいう。
 また、宇治川が山峡から流れ落ちることろに当たり、「落方(おちかた、川の流れる方向)」によるともいう。(『京都大事典』) 
 彼方(おちかた)とは、大和から見ての遠方、川向うを意味し、宇治川がその境界だったともいう。
 『源氏物語』「宇治十帖」第46帖「椎本」巻では、八宮から薫への贈歌、「山風に 霞吹きとく 声はあれど 隔てて見ゆる 遠方の白波」、匂宮から八宮への返歌、「遠方(をちかた) こちの汀に 波は隔つとも なほ吹きかよへ 宇治の川風」にある。遠方(をちかた)を彼方に掛けている。
◆源氏物語の古跡 境内に二本の椎の木があったといい、「椎本之古跡」とされている。当社は椎ヶ本社とも称した。椎本(しいがもと)は、『源氏物語』第46帖、宇治10帖(第45帖-第54帖)中の第2帖で物語後半に舞台になる。巻名は、源氏の子・薫が亡くなった桐壺帝の第八親王・八の宮を偲んで詠んだ「立ち寄らむ 陰とたのみし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな」に因む。その意は、立ち寄るべき陰とお頼りしていた椎の本は虚しい床になってしまいました。
 今上帝の第三親王・匂宮は、薫から聞いた八の宮の姫君たちのことが気になり、初詣の帰りに、宇治の光源氏長子・夕霧の別荘に立ち寄る。その後、八の宮は死期を悟り、長女・大君、次女・中の君たちの後見を薫に託す。娘たちには身を慎むことを戒め八の宮は亡くなる。年の暮れ、薫は大君に匂宮と中の君との縁談を伝え、自らは大君に心寄せていると告げる。だが、大君は取り合わない。匂宮は、夕霧の養女・六の君との縁談に気乗りせず、薫もまた大君のことを諦めきれない。翌年の夏、薫は宇治を訪れ、喪服姿の大君の美しさに心を惹かれてしまう。
◆彼方の疎林の松原 奈良時代の『日本書紀』、神功皇后(じんぐうこうごう)の条に、この地「彼方(おちかた)の疎林(あらら)の松原」が登場する。
 弥生時代(2世紀)、新羅征討中に第14代・仲哀天皇(?-200、実在不詳)が亡くなり、神功皇后(170-269、実在不詳)は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、第15代・応神天皇、201-310)を産む。皇位継承争いから、仲哀天皇の子・忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 201、実在不詳)は挙兵する。皇后は、大将・武内宿禰(たけうちのすくね、84-367)と武人・武振熊(たけふるくま、生没年不詳)に皇子を討たせる。皇子軍は体勢不利で後退を続け、菟道(宇治)に皇后軍を迎え撃つ。皇子軍の熊之凝(くまのこり、生没年不詳)が先鋒となり、味方の兵を激励して詠む。
 「彼方(おちかた)の 疎林(あらら)松原 松原に 渡り行きて 槻弓(つくゆみ)に まり矢を副(たぐ)へ」、「貴人(うまひと)は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ戦はな 我は」、「たまきはる(枕詞) 内の朝臣(あそ)が 腹内は 小石あれや いざ戦はな 我は」(遠方の疎林の松原に進み、槻弓(欅の弓)に鏑矢を番え、貴人は貴人同士、親友は親友同士でさあ戦おう、我々は。武内朝臣の腹中に、小石が詰まっているはずはない。さあ戦おう、我々は。)(熊之凝)。
 忍熊王の返歌。「いざ吾君(あぎ) 五十狹茅宿禰(いさちすくね) たまきはる 内の朝臣(あそ)が 頭槌(くぶつち)の 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな」(さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ。武内宿禰の太刀の痛手負わずに、鳰鳥(カイツブリ)のように水に潜って死のう。)(忍熊王)。(『日本書紀』歌謡番号28、29)。
 皇子は、武内宿禰の策略により武装を解き、逃走した逢坂で敗れた。皇子は、五十狭茅宿禰(生没年不詳)とともに瀬田川に投身する。その遺骸は数日後に菟道河(宇治川)から発見されたという。(『日本書紀』『古事記』) 
◆年間行事 例祭(12月6日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都大事典』『京都府の地名』『京都の地名検証 3』


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大岩

 彼方神社 〒611-0021 宇治市宇治乙方62-1 
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