戒光寺 〔泉涌寺〕 (京都市東山区) 
Kaiko-ji Temple
戒光寺 戒光寺 
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「国宝 丈六釈迦如来 戒光寺」の石碑、釈迦如来像は戦前までは国宝指定されていた。


本堂


本堂、入母屋造、裳階付



本堂扁額



泉山融通弁財天


泉山融通弁財天




泉山融通弁財天


泉山融通弁財天


粟島大明神社


おたすけ大師(右)、子育て地蔵尊



【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた戒光寺、鴨川二条大橋の説明板より
 泉涌寺塔頭の一つ戒光寺 (かいこうじ)は、丈六(たけろく)さんとも呼ばれている。
 真言宗泉涌寺派、本尊は釈迦如来立像(身代わり釈迦)。 
 泉山(せんざん)七福神、第2番、弁財天、商売繁盛の信仰がある。京の通称寺霊場元札所、身代わり丈六さん。
 泉山融通(せんざんゆうずう)弁財天は、金銭の融通をするとして信仰篤い。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 鎌倉時代、1228年、律宗の曇照忍律(どんしょう-にんりつ)は宋より帰朝し、八条大宮の東、堀川の西猪熊(南区戒光寺町)に、南山律宗の寺を創建した。当初は戒光律寺と呼ばれたという。第86代・後堀河天皇の勅願所になった。
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。本尊の釈迦如来は一時、一条戻橋付近(一条戻橋の東、一条小川、上京区戒光寺町)へ遷された。
 1590年、三条川東(三条北、京極西、中京区)へ移された。
 江戸時代、1645年、第108代・後水尾天皇の発願により現在地に移転し、再興された。以後、泉涌寺塔頭になる。
 近代、1868年、油小路事件(1867)で新撰組により斬殺された御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の4人が当寺に改葬され、盛大な葬儀が執り行われた。
◆曇照忍律 鎌倉時代前期-中期の律宗僧・曇照忍律(どんしょう-にんりつ、1187-1259)。浄業(じょうごう)。近江・園城寺、奈良諸寺で顕密二教を学ぶ。1214年/1221年、入宋し、鉄翁守一より具足戒を受けた。理宗皇帝より忍律法師の号を贈られる。俊じょうと同門で、戒律、天台、浄土を学ぶ。1228年、帰朝し、京都・戒光寺を創建した。その後、1233年頃、再び宋に渡る。帰国後、太宰府・西林寺、京都・東林寺(東林町)を開く。72歳。
◆後水尾天皇 安土・桃山時代-江戸時代前期の第108代・後水尾天皇(ごみずのお-てんのう、1596-1680)。政仁 (ことひと) 。法名は円浄。第107代・後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘・前子(さきこ、中和門院)。1600年、親王宣下、1611年、父・後陽成天皇から譲位され即位した。江戸幕府は朝廷に政治的な介入、統制を行い、1613年、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」、1615年、「禁中並公家諸法度」を公布した。1618年、典侍・四辻与津子(およつ)との間に第1皇子・賀茂宮、1619年、文智女王(梅宮)が誕生した。幕府は、1616年、家康の死、1617年、後陽成上皇の死もあり、予定されていた将軍・徳川秀忠の娘・和子(東福門院)の入内を延期する。幕府は与津子を排し、天皇の延臣6人を流罪処分にした。その後、1620年、和子(東福門院)が入内になり女御とした。1624年、和子は皇后宣下、中宮になる。武家出身の中宮は異例であり、平清盛の娘・徳子(建礼門院)以来になる。1627年、紫衣事件では、天皇が僧侶に与えていた紫衣着用の勅許を幕府が無効にした。幕府に抗議した大徳寺などの僧らを幕府は流罪にする。幕府は仙洞御所の造営を開始する。天皇は退位を決意し、1629年、東福門院が産んだ7歳の興子(おきこ)内親王(後の第109代・明正天皇)に突然に譲位した。女帝への譲位は一代で血統が絶えるため、幕府には打撃になる。後水尾上皇は仙洞御所に住み、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇まで4代に院政を敷いた。禅宗の一糸文守に傾倒し、1651年、相国寺で落飾し円浄と号した。1655年-1659年、修学院離宮を設計、造営した。追号は遺詔により後水尾院。
 30数人以上の子があった。後水尾天皇の「水尾」とは、嵯峨水尾にあった第56代・清和天皇を意味する。清和天皇と境遇が似ており、自ら決めたという。また、父・後陽成天皇とは不仲だったという。幕府による所司代などを通じての干渉、「禁中並公家諸法度」の制定、紫衣事件、1629年、春日局(お福)の無位無官の身での拝謁強行などにより幕府へ不満を持つ。明暦年間(1655-1659)、修学院御茶屋を造営する。学問を好み「学問講」を設けた。智仁親王らに歌学を学び、1625年、親王から古今伝授を受けた。『伊勢物語御抄』『当時年中行事』、歌集『後水尾院御集』 (原名『鴎巣集(おうそう)』) がある。茶道、華道に通じ、2世・池坊専好は天皇の庇護を受け、天皇は立花の会を催した。85歳。
 陵墓は泉涌寺内の月輪陵(東山区)になる。歯髪塚は相国寺内(上京区)、相国寺塔頭・瑞春院(上京区)にもある。
◆伊東甲子太郎 江戸時代後期の御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(いとう-きねたろう/かしたろう、1835-1867)。名は武明、通称は大蔵、摂津、号は東山、変名は宇田兵衛。常陸(茨城県)生まれ。父・志筑(しづく)藩士・鈴木忠明の長男、母・こよ。水戸藩士・金子健四郎に神道無念流剣術、水戸学を学び勤王思想に傾倒する。江戸の旗本・伊東精一/誠一郎に北辰一刀流を学び、跡目を継ぎ婿養子になる。1864年、藤堂平助の仲介で新撰組に加盟し、参謀・文学師範になる。その後分離し、1867年、戒光寺の湛然長老の肝煎りにより御陵衛士が組織された。勤皇派の伊東ら15人が新撰組を脱退し御陵衛士に参加した。山陵奉行・戸田大和守忠至の配下に入る。伊東は御陵衛士(高台寺党)盟主になり、薩摩と連携した。1867年、新撰組により七条油小路で粛清され、斬殺された。(油小路事件)。33歳。
 国学・歌道を好み剣術に長けた。
 供養塔が本光寺(下京区)に立つ。墓は戒光寺(東山区)にある。
◆本尊・仏像・木像 ◈本堂の本尊「木造釈迦如来立像」(重文)は、開山浄業により南宋より請来されたという。平安時代末期から鎌倉時代の仏師・運慶(?-1224)、湛慶(1173-1256)親子の合作ともいう。京都八釈迦の一つに数えられる。
 像高は、丈六(4.8m)を越える丈八(5.4m)あり、光背と台座を含めると10mの高さがある。施無畏与願印を結ぶ。低い肉髻、螺髪、長い爪、切れ長の目、上瞼の膨らみなど宋代の影響がある。木造、寄木造、金泥塗、彩色、玉眼嵌入。衣紋に截金文様。
 江戸時代の第107代・後陽成天皇皇后の信仰を受け、後水尾天皇の守護仏になった。像の首の辺りから脚の部分に赤黒いシミがある。血の流れた跡にも見える。後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ、暗殺者に襲われた際に身代わりになった跡ともいう。首から上の病いや悪いことの身代わりになる「身代わり釈迦」ともいわれ信仰を集めた。
 美しい手を見せ爪は長く、指の間に水かき状の縵網相(まんもうそう)がある。これらは、釈迦如来が、できるかぎり多くの人々を救済するためという。首上の病に効験があるとされ、へちま加持では胃腸、脚気平癒の祈祷が行われる。内陣の特別公開の際に、仏像の真下まで近づいて拝することができる。
 ◈本堂左奥に、作者不詳の「不動明王像」が安置されている。鎌倉時代以前作ともいう。異例の左足を前に突き出し、足の裏を見せている。
 ◈本堂右奥左に「弘法大師像」がある。像造年代、作者不詳。
 ◈本堂右奥右に「曇照忍律上人坐像」(重文)を安置する。鎌倉時代作。作者不詳。
 ◈泉山融通弁財天の「弁財天像」は、泉山(せんざい)七福神巡りの一つになる。平安時代の最澄作と伝えられる融通尊(如意宝珠融通宝生尊、宝生如来)で、金銭、学芸、商売などを融通し、あらゆる願いを成就させるという。
 泉山融通弁財天、泉山七福神第2番。開帳は年2回(1月成人の日の七福神巡り、11月3日の弁財天大祭)。
 ◈「浄業律師坐像」(重文)は、宋式に法被を被せた曲彔(きょくろく)といわれる椅子に座り、合掌している。檜材、寄木造、玉眼、彩色。
◆建築  「本堂」は、入母屋造、裳階付。
◆鎮守社 ◈「泉山融通弁財天」は、泉山七福神第2番になる。尊像は伝教大師最澄(766/767-782)作という。金銭、学芸、商売などの融通を利かせるとの信仰がある。
 開帳は年2回(1月の成人の日の七福神巡り、11月3日の弁財天大祭)。
 ◈「粟島大明神社」は、古くより水商売の女性の信仰を集める。厄除け・開運・病気平癒祈願。へちま加持祈祷を行う。
◆文化財 本堂内陣に「お釈迦様一代記」、掛軸「地蔵菩薩像」、「大般若十六善神像」、江戸時代の「釈迦説法図」、書跡「大般若経首巻と六百巻目」、香木(白檀、沈香、真南蛮、伽羅)、柄香炉、版木などが陳列されている。
◆元新撰組隊士墓 境内西側に「御陵衛士の墓所(元新撰組隊士)」がある。毛内監物(有之助)(1835-1867)、新撰組参謀・文学師範で後の御陵衛士(高台寺党)盟主・伊東甲子太郎(1835-1867)、藤堂平助(1844-1867)、服部三郎兵衛(武雄)(1832-1867)の4人の墓碑が立つ。
 御陵衛士は戒光寺の湛然長老の肝煎りにより組織され、勤皇派の伊東ら15人が新撰組を脱退参加した。1867年、油小路事件で新撰組は粛清のために伊東を暗殺、遺骸を引取りに来た7人のうちの藤堂ら3人も斬殺された。遺骸は3日間そのままに放置されていた。御陵衛士残党をおびき寄せるためだった。
 戒光寺、西本願寺の勤王僧らが遺骸を引き取ろうとしたが、新撰組が許さなかった。その後、当初は新撰組により新撰組の菩提寺・光縁寺に葬られた。後に、旧衛士は新撰組菩提寺を好まず、戒光寺脇の墓地に改葬する。近代、1868年11月に新撰組九番隊組長で御陵衛士だった鈴木三樹三郎(伊東の実弟)、新井忠雄、篠原泰之進らにより戒光寺に改葬された。葬儀は盛大なもので、費用は新政府参与の役所が負担した。
 墓にはそのほか、高村久蔵(新井従者)、正面・佐原太郎(右側面・富山弥兵衛[四郎]、清原清、茨木司、左側面・佐野七五三之助、富川十郎[征行]、中村五郎[政常])らが葬られている。死因は、明保野亭事件で自刃した茨木、戊辰戦争殉難者の富山、清原、高村、不慮の死者の佐原、ほか会津守護職邸で死亡した4人になる。
◆桜楓 境内に巨木の「百年夫婦桜」がある。4月の花まつりの頃に開花する。樹齢100年以上というソメイヨシノで、根元からはモミジの木が生えている。
◆七福神巡り 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9か寺を巡る。1951年以来続けられている。これらを福笹を持ちお参りしていく。
 第1番は福禄寿・即成院、第2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、第3番は恵比寿神・今熊野観音寺、第4番は布袋尊・来迎院、第5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、第6番は毘沙門天・悲田院、7番は寿老人・法音院になる。
◆年間行事 修正会(1月1日-3日)、鏡開き(初丈六)・五大力尊お授け・厄除雑煮接待(1月15日)、京都泉涌寺七福神めぐり大祭・秘仏融通弁財天御開帳(小豆粥、昆布茶、甘酒の接待がある。)(1月成人の日)、泉山融通弁財天初ご縁日(1月初巳の日)、節分星まつり大般若経転読法要(2月3日)、彼岸(3月)、花まつり週間(4月上旬)、花まつり大法要・本堂内陣特別参拝・甘茶接待(4月8日以前の日曜日)、四国霊場巡拝(5月9日-12日)、先師忌法要(7月24日)、大施餓鬼法要・先祖回向法要(8月20日)、水掛地蔵尊の地蔵盆(8月22日)、彼岸会法要・秘仏融通弁財天御開帳(9月21日)、本堂内陣特別参拝・弁財天大祭(大柴灯護摩法要・秘仏御開帳・稚児百味練供養)(11月3日)、丈六市・内陣特別公開(11月中旬)、終い丈六(12月8日)。
 本尊御縁日・数珠繰り(毎月8日)、弁財天御縁日(毎月18日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*建物内の写真撮影は禁止。
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都仏像を訪ねる旅』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『週刊 日本の仏像 第17号 六波羅蜜寺 空也上人像と東山』、『新選組事典』、『新選組と幕末の京都』、『新選組 高台寺党』、『京の福神めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』、 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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