今熊野観音寺(観音寺) 〔泉涌寺〕 (京都市東山区) 
Imakumano-kannon-ji Temple
今熊野観音寺 今熊野観音寺 
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鳥居橋、今熊野川に架かる。










本堂
















後白河法皇頭痛封じ霊験記を表す画


紋章 「今熊野浪」、立浪の紋章の中に環が描かれている。













大師堂、空海を祀る。不動明王、愛染明王、左大臣藤原緒嗣の像も祀られている。護摩の修法、修行僧の修行道場にも使われる。


大師堂 




大師堂


大師堂


地蔵堂、本尊は地蔵菩薩、十一面観音、弘法大師も祀られている。



医聖堂、平安様式の多宝塔、医界関係者などが祭祀されている。








鐘楼





茶所
 東山三十六峰今熊野山の麓に今熊野観音寺(いまくまの かんのんじ)はある。今熊野の地は古くより貴人の葬所であり、平安時代には観音霊場として、また藤の名所だった。熊野権現出現の伝説地として知られた。 
 後白河法皇(第77代)ゆかりの頭痛封じの伝承により、「頭の観音さん」と親しまれている。「今(新)熊野」「今(新)熊野観音」ともいう。正式には「観音寺」という。山号は後白河法皇より贈られた「新那智山」という。
 泉涌寺の塔頭の一つで真言宗泉涌寺派、本尊は十一面観世音菩薩。
 西国三十三所観音霊場の第15番札所、泉山(せんざん)七福神の第3番、恵比寿神は、商売繁盛、海運守護の信仰がある。ぼけ封じ・近畿十楽観音巡礼の第1番札所、京都七福神のえびす神、洛陽三十三所観音霊場の第19番札所、神仏霊場会第122番、京都第42番。弥勒菩薩(六七日)は京都十三仏霊場めぐりの第6番札所。京の通称寺霊場31番。
 頭痛封じ、ぼけ防止、開運厄除け、健康長寿、子護大師は子ども守護などの信仰がある。御朱印(6種類)が授けられる。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、807年、大同年間(806-810)、天長年間(824-834)とも、空海が熊野権現の霊示により、この地に庵を結んだことに始まるという。
 812年、825年頃、弘仁年間(810-824)とも、空海は第52代・嵯峨天皇の寄進、勅により諸堂を造営したという。
 天長年間(824-834)、伽藍は完成をみたという。
 左大臣・藤原緒嗣(774-843)により、その邸に伽藍造営が図られたともいう。
 855年、藤原緒嗣の子・春津に受け継がれ完成した。
 969年、 左大臣・藤原師尹(もろまさ)を同寺西岡に葬る。
 1016年、一条尼上(藤原道長室倫子の母・穆子<ぼくし>)を無常所に葬る。
 1135年、当寺が「二十五番札所」として記されている。(行尊『巡礼手中記』)
 1150年、当寺が「十八番札所」として記されている。(長谷僧正『巡拝記』)
 1160年、後白河上皇(第77代)がこの地の法住殿に熊野権現を勧請した。当山の本尊を本地仏と定め、「新那智山」の山号を贈り、今熊野観音と称した。
 1161年、当寺が「二十六番札所」として記されている。(覚忠『巡礼記』)
 平安時代-鎌倉時代、この地で、葬送、追善が行われる。
 鎌倉時代、1234年、後堀河上皇(第86代)没後、当寺北の観音寺陵が築かれ埋葬された。観音堂は北面し、末永く本尊を拝するように葬られている。
 1244年、第87代・四条天皇の二周忌に法華八講が修された。
 鎌倉時代-南北朝時代、永暦年間(1331-1334)、山麓に新熊野神社が建てられた。今熊野は、紀州熊野の観音霊場になぞらえられた。その本地仏安置の寺とされ、社殿が山麓に造営された。神社と寺を結ぶ観音寺大路(現在の泉涌寺道)が通され、熊野御幸のための御潔斎場の御精進屋が観音堂近くに建立された。
 室町時代、1468年、兵火により泉涌寺とともに焼失した。
 1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。北朝、足利将軍の援助により復興された。乱後、泉涌寺塔頭になったという。
 1516年、巡礼堂領を巡り訴訟となる。
 1517年、巡礼堂領を巡り訴訟となった。
 安土・桃山時代、1580年頃、現在の地に堂宇が建立されたとみられている。
 江戸時代、西国霊場巡拝が盛んになる。
 1712年、承徳年間(1711-1716)とも、宗絮祖元律師により、現在の本堂が建立された。
空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。
◆空海の伝承 空海にまつわる伝承がある。806年、空海が唐の国から帰国後、東寺で真言密教の秘法を修法した際に、東山の山中に光明がさし、瑞雲棚引いているのが見えた。
 そこへ赴くと、山中に白髪の老翁が姿を現わし、「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音を祀り、末世の衆生を利益し救済されよ。」という。また、一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えた。
 老翁に何者か尋ねると、「熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう」と告げて姿を消したという。現在の本堂の位置が空海が老翁に出会った場所という。
 空海はこの地に一堂を建立し、自ら一尺八寸(54.5㎝)の十一面観世音菩薩像を刻み、授かった一寸八分(5.45㎝)の像を胎内仏として納め、奉安したという。
清少納言 平安時代の歌人・清少納言(せい しょうなごん、966? -1025?)。父は清原元輔。曾祖父・清原深養父と共に中古三十六歌仙のひとり。橘則光と結婚し後に離別した。中関白・藤原道隆の後見する一条天皇皇后定子に仕えた。1000年、定子没後、遺児・脩子内親王に仕えた。摂津守藤原棟世と結婚し、小馬命婦を生む。
 晩年は、父清原元輔の邸宅があった現在の観音寺境内地付近に暮らしたという。皇后定子に寵遇を受けたため、皇后没後、鳥戸野陵が造営された地で、御陵に詣でつつ過ごしたとみられている。随筆集『枕草子』歌集『清少納言集』を著す。
◆島津義久 室町時代-安土桃山時代の武将・島津義久(しまづ よしひさ、1533-1611)。貴久の嫡子。1566年、家督を相続し島津氏第16代当主となる。1570年、薩摩統一、1572年、木崎原の戦いに勝利し、1573年、大隅統一を果たした。1577年、伊東氏を日向国から追放し、1578年、豊後大友氏を日向耳川に下し南九州3国を領する。1584年、沖田畷の戦いでは肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。1587年、豊臣秀吉の九州平定には降伏した。だが、弟の義弘・歳久らは抗戦を続けた。義久は降伏を命じたが歳久は応じなかった。秀吉は歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じている。弟は自刃、義久はその後、出家して竜伯と号した。1592年、朝鮮出兵には義弘らを派遣した。隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。歳久ゆかりの寺として浄福寺(上京区)がある。
◆熊野信仰今熊野修験 古くから熊野は、観音の補陀落浄土としての信仰の中心になっていた。平安時代後期に熊野詣が盛んになる。天皇や貴族が度々熊野を訪れた。後白河上皇も本宮に34回、新宮那智には15回も訪れている。
 当時、今熊野は熊野修験の中心地として、今熊野権現と本地仏への信仰があった。また、宇佐信仰の習合した山岳仏教、平安時代後期に、豊後国東半島一帯に起きた今熊野権現・本地仏を信仰する修験にも影響を及ぼした。
鳥戸野 東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、峰の南西一帯の今熊野の地は、鳥戸野(とりべの)ともいわれた。皇室の葬地であり、観音寺はそれらの管掌寺院となっていた。
 寺域には鳥戸野陵があり、平安時代、第66代・一条天皇の皇后・藤原定子(977-1001)をはじめ皇族、藤原道長(996-1027)などの貴族の火葬塚があり、葬儀や法要は観音寺が執り行っていた。
後白河法皇の頭痛封じ 後白河法皇には激しい頭痛の持病があった。今熊野観音に頭痛平癒の祈願を続けたところ、ある夜、法皇の枕元に観音が現れ、頭に向けて光明を差掛けたという。すると頭痛が癒え、以来、今熊野観音は頭痛封じの観音としてさらに知られるようになった。
◆仏像 本尊の「十一面観世音菩薩」(丈一尺八寸)は空海作ともいう。一刀三礼して自刻し、胎内仏として熊野権現より授かった天照大神作という「十一面観世音菩薩」(身丈・一寸八分)が納められている。頭の観音様として知られ、その霊験により後白河法皇も病平癒したという。頭痛・脳卒中平癒、知恵授かりの信仰がある。
 脇仏は、智証大師円珍(814-891)作ともいう「不動明王」、運慶(?1224)作ともいう「毘沙門天」、本尊御前立の「十一面観世音菩薩」がある。
 ほかに、本堂に「大聖歓喜天(聖天)」、「薬師如来」、「准胝観音」、「三面大黒天」、京都七福神の「恵比須神」を安置する。
 画像の「刀八(とうはち)毘沙門天像」は、室町時代作、兜跋(とばつ)毘沙門天の兜跋の当て字といい、3面の毘沙門天が獅子に乗り8本の刀を掲げ持つ。
◆建築 「本堂」は、かつて奥の院巡礼堂の地に建つ。弘法大師が熊野権現と出会った場所という。江戸時代、1712年に宗絮祖元律師によって建立された。
 
「鐘楼」、梵鐘は太平洋戦争時に金属供出となる。ただ、元のままの姿で残されていたという。1946年に修理された。
◆墓 墓地に石造宝塔三基の「藤原三代の墓」がある。藤原忠通、九条兼実、慈円が葬られている。
 平安時代末期の貴族・藤原忠通(1097-1164)は、忠実の子に生まれた。鳥羽、崇徳、近衛、後白河の四帝に仕え、摂政関白・太政大臣、関白太政大臣となる。法性寺で出家し、法性寺入道前と称した。詩歌、書の法性寺流を創始した。
 平安時代末期-鎌倉初期の公家・九条兼実(1149-1207)は、忠通の子。九条家の祖。源頼朝の後援により議奏公卿の上首、摂政となり、記録所を再興した。後に関白となる。明経の術、和歌、書道にも通じた。
 平安時代末期-鎌倉時代初期の僧・慈円(1155-1225、慈鎮和尚)は、忠通の子。兼実の弟。4度天台座主となる。天王寺別当にも就く。和歌にすぐれ、史論「愚管抄」を著した。
 「島津逆修の塔」には、安土・桃山時代の大名・島津義久が眠る。逆修(ぎゃくしゅ)とは、生前の墓、位牌の建立をいう。
◆五智水 空海が錫杖で岩根を穿つと湧き出したという五智水、五智井がいまも湧き出している。
◆医聖堂 医聖堂は、1981年に建立された。医道顕彰会は、奈良時代-幕末までの日本の医家122人を選定し祭祀した。その後、医療関係者も合祀されている。大祭(10月吉日)が行われている。
 その傍らに「医心方一千年記念碑」が立てられている。平安時代、984年、鍼博士・丹波康頼が著した日本最古の医学書『医心方』を記念した。
◆西国観音霊場三十三所 当寺は、「西国観音霊場三十三所」の第15番札所になっている。第1番の和歌山・青岸渡寺より、第33番の岐阜・華厳寺までを巡る近畿2府4県(1000km)の巡礼になる。
 長谷寺を開いた飛鳥時代の徳道(とくどう、656-? )は、病により仮死し、冥途で閻魔に出あった。閻魔は地獄に堕ちる者が多いとして、観音菩薩の慈悲を説き、33の霊場を参ると功徳を得られるとした。
 観音菩薩は浄土に往生せず、現世で苦しむ人々を救済するために、聖観音、十一面観音、千手観音など33(無限)の姿に身を変えるとされる。徳道は、閻魔より33の宝印、起請文を授かり現世に戻る。徳道は兵庫・中山寺に宝印を納めたという。
 巡礼は、奈良時代に始まる。その後、途絶したともいう。平安時代、花山法皇(第65代、968-1008)は、徳道の納めた宝印を掘り起こし、巡礼を再興したという。また、平安時代後期(12世紀)に再興されともいう。平安時代後期には天皇、公家が巡礼し、鎌倉時代-室町時代には、庶民にも広まった。江戸時代に最も盛んになる。周辺の伊勢神宮参り、熊野詣、善光寺参りとも結びついた。「三十三度行者」と呼ばれるのは、33所を33回も巡礼した人を意味した。御朱印、千社札の始まりにもなった。
◆京都十三仏霊場めぐり 弥勒菩薩(六七日)は京都十三仏霊場めぐりの第6番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。
 十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆七福神巡り 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9か寺を巡る。1951年以来続けられている。これらを福笹を持ちお参りしていく。
 1番は福禄寿・即成院、2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、3番は恵比寿神・今熊野観音寺、4番は布袋尊・来迎院、5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、6番は毘沙門天・悲田院、7番は寿老人・法音院。
◆年間行事  修正会(元旦-3日)、新年厄除開運大祈願祭(1月15日)、京都七福神巡り(昆布茶接待)(成人の日)、初観音会(1月18日)、節分星供大祈願会(2月3日)、春季彼岸会(3月彼岸中日)、弘法大師正御影供(4月21日)、青葉祭・弘法大師の御誕生法会(6月15日)、盂蘭盆会施餓鬼法要(8月16日)、四国八十八ヶ所お砂踏法要(9月21日-23日)、秋季彼岸会(9月彼岸中日)、医聖堂例大祭(10月吉日)、紅葉まつり(11月下旬)、お終い参り・除夜の鐘(大晦日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』『増補版 京都の医史跡探訪』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都のご利益手帖』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 古社名刹巡拝の旅 32 東山』


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大講堂

大書院

「子護弘法大師」、子ども守護

「ぼけ封じ観音」、「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」第一番札所。

平安時代のものという三重石塔

医心方の碑

今熊野西国霊場」、西国三十三ヶ所霊場の本尊が石仏として祀られている。

稲荷社

熊野権現社、空海は唐から帰国後、山中の光明にひかれてこの地に来て熊野権現と遭ったという。

金龍弁財天、池の近くで金色の巳(蛇の神)が現われたことから祀られたという。

五智の井、弘法大師が当山を開いた際に、錫杖で岩根を穿ち湧き出したという。五智水といい今も湧く。

市街地の眺望

「藤原三代の墓」、宝塔、右より慈円、藤原忠通、藤原長家という。左端は基礎がない。基礎に格狭間、円筒形の塔身、首部は二段、笠石軒下に二段の垂木型、隅木がある。相輪はなく、風輪、空輪がのる。花崗岩製、2m。

「島津逆修の塔」、五輪塔。石は薩摩より運んだという。「慶長五年(1600年)逆修、藤原氏島津義久」と刻まれている。
今熊野観音寺 〒605-0977 京都市東山区泉涌寺山内32  075-561-5511  8:00-17:00
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