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光明定院墓 (京都市上京区) Tomb of Princess Komyojoin |
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光明定院墓 | 光明定院墓 |
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相国寺門前町に、光明定院墓(こうみょうじょういん-の-はか)がある。 第113代・東山天皇皇女・多光明定院、第112代・霊元天皇皇曽孫女・真珠光院(しんじゅこういん)・得菩提院(とくぼだいいん)の3基の墓が立つ。 ◆歴史年表 江戸時代、1707年、光明定院が亡くなった。 1725年、真珠光院が亡くなる。 1730年、得菩提院が没した。 ◆光明定院 江戸時代前期の皇女・光明定院(こうみょうじょういん、1707-1707)。父・第113代・東山天皇、母・掌侍(しょう-じ )・高辻(菅原)長量の娘の第3皇女。即日亡くなる。0歳。 ◆真珠光院 江戸時代中期の王女・真珠光院(しんじゅこういん、1725-1725)。父)・京極宮家仁親王(きょうごくのみや-やかひと-しんのう)(第9代・京極宮[桂宮])、母・御息所(みやす-どころ)・鷹司(藤原)基子(鷹司兼熙[かねひろ]の娘)の第2王女。第112代・霊元天皇皇曽孫女になる。即日亡くなる。0歳。 ◆得菩提院 江戸時代中期の王女・得菩提院(とくぼだいいん、1730-1730)。父・京極宮家仁親王(きょうごくのみや-やかひと-しんのう)(第9代・京極宮[桂宮])、母・北小路[大江]雅子 (北小路俊在の娘)の第3王女。第112代・霊元天皇皇曽孫女になる。生後1カ月で亡くなった。0歳。 ◆墓 かつてこの地は、相国寺慈照院跡内墓地だったという。墓域の規模は小さい。内部を拝することはできない。門は南面して建つ。3墓同域になり、御墓は五輪塔が東面して立っている。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「城とか陵墓とか」、ウェブサイト「公卿類別譜(公家の歴史)」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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