妙顕寺(妙顯寺) (京都市上京区)
 
Myoken-ji Temple
妙顕寺 妙顕寺
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大門




小門







日像が由井ヶ浜で感得したという独特の「浜ゆり題目」の宝塔


「尾形光琳墓在此寺中」


本堂、右の燈籠が妙顕寺燈籠












妙顕寺型燈籠




三菩薩堂


三菩薩堂、「勅賜三菩薩」の扁額
 妙顕寺(みょうけんじ、妙顯寺)の南面した大門には、「門下唯一勅願寺」の木札が掲げられている。京都初の日蓮宗道場となる。創建以来、数々の弾圧を受け、寺地も各所を転々とした。境内は広大で2万坪(66115.7㎡)、建坪6000坪(19 834.7㎡)ある。
 山号は貝足山(ぐそくざん)、龍華院の院号もある。正式には四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺という。
 日蓮宗。本尊は釈迦多宝仏。
 日蓮宗四大本山の一つ。日蓮宗京都16本山(かつては21本山)の一つ。日蓮の孫弟子・日像(龍華樹院)により開山された「京都の三具足山(龍華の三具足)」(ほかに妙覚寺、立本寺)の一つ。御朱印(御朱印、御首題「波揺りのお題目」)が授けられる。
歴史年表 鎌倉時代、1294年、日蓮宗の僧・日像は入洛している。師・日蓮の遺命により、日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)を行った。
 1311年、綾小路大宮(下京区)付近に、拠点となる法華堂が建立されたとみられている。
 1321年、第96代・後醍醐天皇より弘通の勅許を得て、御溝の傍、今小路(上京区)に法華堂を移している。妙顕寺の起源ともいう。
 南北朝時代、1333年、後醍醐天皇皇子・護良親王(もりよし、もりなが)は、隠岐配流の父・後醍醐天皇の京都還幸を祈る令旨(りょうじ、命を伝える文書)を出した。
 1334年、後醍醐天皇の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)により、法華経の最初の勅願寺になった。洛中洛外の宗門の第一位と認められ、四海唱導妙顕寺といわれた。
 1336年、室町幕府将軍家の祈祷所となる。
 1341年、2世・大覚妙実の時、北朝初代・光厳院の院宣(いんぜん、院司が院の命を奉じて出す文書)により、四条櫛笥西頬(しじょうくしげにしづら)(中京区)に移転している。寺名も妙本寺と改称した。寺は栄え、以後、四条門流と呼ばれるようになった。光厳院祈願所となる。
 1352年、比叡山延暦寺衆徒との抗争により破却された。
 1358年、大覚妙実は、北朝第4代・後光厳天皇の詔により、衆僧300人で桂川で法華経による祈雨祈祷を行いすぐに効験が顕れたという。また、第97代、南朝第2代・後村上天皇により大覚妙実は、大僧正に任じられ、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が与えられた。その後、寺勢は増した。
 1387年、比叡山延暦寺衆徒により破却された。だが、叡山は再興を許さなかった。北朝最後の第6代・後小松天皇により、土地(四条以南、綾小路以北、壬生以東、櫛笥以西)を与えられた。
 室町時代、1393年、足利義満により三条坊門堀川(押小路以南、綾小路以北、壬生以東、櫛笥以西、中京区)を寄進された。移転するとともに、叡山の干渉があり、妙本寺と寺名を改めて再興した。
 1411年、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願寺となる。比叡山延暦寺衆徒との抗争により破却された。
 1413年、比叡山宗徒による破却が行われた。
 1483年、三条西洞院に移る。
 1519年、永正-大永年(1504-1528)とも、妙顕寺と寺名を戻している。
 1521年、室町幕府10代将軍・足利義稙により、二条西洞院南に再建された。
 1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、「天文法華の乱」(天文法乱)により破却され、堺に逃れた。
 1542年、二条西洞院南(中京区)に再興され、法華寺と改めている。
 安土・桃山時代、1575年に土地(二条以南、三条坊門北、油小路、西洞院間)を与えられる。
 1583年、羽柴秀吉の妙顕寺城建立(中京区古城町、押小路通小川西入北側)に伴い、その命により寺は現在地(小川寺ノ内)に移転させられた。秀吉は跡地に、政庁となる二条新邸を築いた。
 1595年、方広寺大仏殿千僧供養出仕では受派となり、その拠点となる。
 江戸時代、1633年、末寺193があった。
 1745年、末寺329があった。
 1788年、天明の大火により焼失している。
 1834年、再建された。
 近代に入り、法華各宗派が大合同し、身延山を祖山とする日蓮宗が結成、大本山として全国に300あまりの末寺を統率した。
 1941年、制度改革によって、全ての末寺を解放した。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子のひとり日朗に師事した。1275年身延の日蓮の弟子になり、日蓮が経一丸と命名し本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事。北陸を経て1294年、入洛、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1321年、洛内追放と3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受ける。1311年、妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆大覚妙実 鎌倉時代-南北朝時代の日蓮宗の僧・大覚妙実(だいかく みょうじつ、1297‐1364)。日像に師事、妙顕寺2世となる。中国地方での布教に成功した。1358年、雨乞の成功により、北朝第4代・後光厳天皇から大僧正に任じられ、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が与えられ、公武接近を果たした。なお、大覚妙実により妙顕寺が開かれたともいう。
◆尾形光琳 江戸時代前期の画家・尾形光琳(おがた こうりん、1658-1716)。京都の呉服商・雁金屋 (かりがねや)の尾形宗謙の次男。弟は陶芸家の尾形乾山、曾祖父・道柏の妻は本阿弥光悦の姉。少年時代から能楽、茶道、書道などに親しんだ。父、山本素軒より狩野派の画法を学んだ。1687年、父の遺産を相続する。35歳頃より光琳と称した。30歳代の終りより画家となる。1701年、法橋に叙せられた。1703年、奢侈禁止令の咎により「京市中住居お構い」により京都を追われる。1704年、江戸に一度出る。「中村内蔵助像」を描く。1709年、京都に戻る。作品に繰り返される絵柄で構成された「燕子花図屏風」(国宝、18世紀前半)。宗達を模写し、宗達の「風神雷神図屏風」を意識した傑作「紅白梅図屏風」(国宝、18世紀前半)などがある。本格的な画業を始めたのは、晩年の20年ほどだった。屏風絵のほか、香包、扇面、団扇、小袖、蒔絵、水墨画など幅広く手がけた。妙顕寺に葬られた。
◆仏像・木像 本堂須弥檀に宝塔があり本尊の十界曼荼羅に「南無妙法蓮華経」と書かれている。向かって左に釈迦如来、右に多宝如来、日蓮、日朗、日像、本覚、文殊菩薩、普賢菩薩、四天王などが安置されている。
 鎌倉時代-南北朝時代、14世紀(1301-1400)、院與作の「日蓮聖人坐像」がある。
 尊神堂に鬼子母神を祀り、安産子易祈願の信仰を集める。
 三菩薩堂に日蓮、日朗、日像を安置する。御真骨堂に三師の舎利を納めている。
◆妙顕寺城 安土・桃山時代、1583年、羽柴秀吉は、妙顕寺の境内地に妙顕寺城を築造し、寺は小川寺ノ内に移転させた。
 跡地に、二条新邸を築造し、平素は前田玄以が政務を行い、秀吉上洛の際に宿舎となった。聚楽第(1586)まで、京都の政庁として機能した。
 現在は、「妙顕寺城址碑」(中京区古城町、押小路通小川西入北側)が立てられている。
◆建築 江戸時代の1788年、天明の大火後に伽藍が再建された。本堂、客殿、三菩薩堂、表門など7棟が府有形文化財に指定されている。
 「本堂」は、江戸時代、1830年に上棟、1839年頃に完成した。日蓮宗様式を踏襲している。格天井の一つ一つの枡内に、檀信徒の家紋が描かれている。豪華な天蓋の内側に8人の天女が描かれている。内陣に三宝諸尊(日蓮、日朗、日像)の等身大像が安置されている。扁額「四海唱導」は、後光厳により大覚に贈られた称号になる。15間4面、御所紫宸殿に見られる蔀戸がある。総欅造、15間、間口28m、奥行25mの四面。
 「三菩薩堂」は、日蓮、日朗、日像を祀る。南北朝時代、1358年、妙顕寺2世・大覚により雨乞いが行われ、宗祖・日蓮に「大菩薩号」、開祖・日像と、その師・日朗に「菩薩号」が与えられた。このため、「三菩薩堂」と呼ばれた。扁額「勅賜三菩薩」が掛かる。
 「鐘楼」は、江戸時代、1788年の天明の大火で焼失後に再建された。1965年、大門の東隅から、五重塔があった現在地に移築された。
 「梵鐘」(京都府指定有形文化財)は、江戸時代、1713年の鋳造による。
◆妙顕寺型燈籠 本堂前の2基の常明燈は、妙顕寺型燈籠と呼ばれている。
 家屋型であり、屋根は入母屋造、軒裏に垂木がある。江戸時代、1661年作。
◆題目の巷 日像らの布教活動により、京の町には法華信者が増え、「題目の巷」とまでいわれた。近世の芸術家の中にも多くの信者があらわれた。狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山などの名がある。
◆分立・分出 妙顕寺一門としては、妙覚寺、立本寺があり、山号をともに具足山といい、その後分立した。また、妙蓮寺、本隆寺も分出した。
◆支院 久本、大妙、十乗、恵命、本妙、実成、教法、善行、法音、泉妙。
◆慶中稲荷 慶中稲荷はかつて御所に祀られ、女中の信仰を集めていた。
◆庭園 客殿の前庭は、「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」という枯山水式庭園になる。南に勅使門があり、本堂の大屋根が借景になる。白砂に南北に延壇が直線に敷かれ、東に石組みがある。サクラ、カエデなどが植えられている。
 書院前庭「光琳曲水の庭」は尾形光琳の屏風絵を元にして作庭されたという。樹齢400年の赤松の大木、黒松、梅、川の流れを表す白砂、苔地、飛石、石橋、植栽などで構成されている。
 「孟宗竹林の坪庭」は、五角形の庭面、苔地に孟宗竹だけが植えられている。
 塔頭・本妙院に「本妙院庭園」(京都市指定名勝)、塔頭・教法院に「妙顕寺北之方丈」(御題目庭園)などがある。
◆文化財 室町時代の紙本墨書「後小松天皇宸翰御消息」(重文)、「後醍醐天皇綸旨」(重文)。
 鎌倉時代-江戸時代の日像ら7代の歴代書状などの「妙顕寺文書」(重文)。
 鎌倉時代の日蓮筆「神国王書」(重文)、日蓮真筆「玄旨伝法本尊」、日蓮真筆「強仁状御返事」。日像筆の細字「極細字法華経」。鎌倉時代の「金字法華経巻巻第五」。
 狩野山楽筆の紙本金地墨画「 楼閣山水図 六曲屏風」(京都市指定有形文化財)。
 尾形光琳が晩年に描いた現存唯一の絵「寿老松竹梅図 三幅対」。
 酒井抱一筆「観世音菩薩像」は、光琳100回忌に描かれた。
◆遺跡 室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。
◆墓 塔頭・泉行院に江戸時代の絵師で工芸家の尾形光琳(1658 -1716)、陶工、絵師の尾形乾山(1663-1743)兄弟の墓がある。
 安土桃山時代-江戸時代の武将で、加賀藩第3代藩主・前田利光(利常、1594-1658)の墓がある。
◆樹木 イブキは区民の誇りの木に指定されている。オガタマノキが植えられている。
◆宿坊 女性専用の宿坊があり、宿泊できる。
◆年間行事 新年祈祷会(1月1日-3日)、二の午慶中様大祭(2月)、彼岸会(3月)、法華千部会(4月14日)、法華懺法会(後醍醐天皇聖忌会)(6月16日)、盆施餓鬼法要(8月10日)、彼岸会(9月)、宗祖御会式(開山日像菩薩御会式)(11月13日)、冬至除災祈祷会(お焚き上げ)(12月8日)。
 鬼子母神大祭(毎月8日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の寺社505を歩く 上』『事典 日本の名僧』『第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』『京都隠れた史跡100選』『京都 神社と寺院の森』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京都の隠れた御朱印ブック』


    光琳菩提所(泉妙院)      尾形光琳宅跡            妙覚寺     立本寺     妙蓮寺     本隆寺     法蔵寺       

庫裏



「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」

「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」

「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」

「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」


勅使門



「孟宗竹林の坪庭」

「光琳曲水の庭」


尊神堂、安産や子供の守護神、最悪を除き福をもたらす鬼子母神が祀られている。
 


御真骨堂、日蓮大聖人・日朗聖人・日像聖人の眞舎利を祀った、近代、52世・福田日耀上人の代に再建された。

納骨堂

梵鐘(京都府指定有形文化財)


慶中大菩薩、京都御所鎮護の守護神、願い事が必ず叶うといわれ、宮中に仕える女官たちに尊崇されていた。

妙見大菩薩

「四海唱導之霊蹟之霊蹟」の碑、後光厳天皇により2世・大覚の時に贈られた称号。

 妙顕寺 〒602-0005 京都市上京区妙顕寺前,寺之内通新町西入北側  075-414-0808  9:00-16:00
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