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妙顕寺(妙顯寺) (京都市上京区) Myoken-ji Temple |
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妙顕寺 | 妙顕寺 |
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![]() ![]() 大門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 小門 ![]() ![]() ![]() 日像が由井ヶ浜で感得したという独特の「浜ゆり題目」の宝塔 ![]() 「尾形光琳墓在此寺中」 ![]() 本堂、右の燈籠が妙顕寺燈籠 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() ![]() 妙顕寺型燈籠 ![]() ![]() 三菩薩堂 ![]() 三菩薩堂、「勅賜三菩薩」の扁額 ![]() 庫裏 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭) ![]() 「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」 ![]() 「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」 ![]() 「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」 ![]() ![]() 勅使門 ![]() ![]() ![]() 「孟宗竹林の坪庭」 ![]() 「光琳曲水の庭」 ![]() 尊神堂 ![]() 尊神堂、安産や子どもの守護神、最悪を除き福をもたらす鬼子母神が祀られている。 ![]() 尊神堂 ![]() ![]() 御真骨堂 ![]() 御真骨堂 ![]() 御真骨堂 ![]() 納骨堂 ![]() 梵鐘(京都府指定有形文化財) ![]() ![]() 慶中大菩薩 ![]() 慶中大菩薩 ![]() 妙見大菩薩 ![]() ![]() ![]() ![]() 宗祖開教750年記念宝塔 ![]() 「四海唱導之霊蹟之霊蹟」の碑、後光厳天皇により2世・大覚の時に贈られた称号。 ![]() ![]() ![]() ![]() 【参照】「妙顕寺前町」の町名板 |
妙顕寺(みょうけん-じ、妙顯寺)の南面した大門には、「門下唯一勅願寺」の木札が掲げられている。京都初の日蓮宗道場になる。創建以来、数々の弾圧を受け、寺地も各所を転々とした。境内は広大で2万坪(66115.7㎡)、建坪6000坪(19
834.7㎡)ある。 山号は貝足山(ぐそく-ざん)という。龍華院の院号もある。正式には四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺という。通称は「竜華(りゅうげ)」という。 日蓮宗。本尊は釈迦多宝仏。 日蓮宗四大本山の一つ。日蓮宗京都16本山(かつては21本山)の一つ。末寺263。日蓮の孫弟子・日像(龍華樹院)により開山された「京都の三具足山(龍華の三具足)」(ほかに妙覚寺、立本寺)の一つ。洛中法華宗の二大勢力の一つ。 御朱印(御朱印、御首題「波揺りのお題目」)が授けられる。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1294年、4月28日、日蓮宗の僧・日像は入洛した。師・日蓮の遺命により、日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)を行った。 1311年、綾小路大宮(下京区)付近に、拠点になる法華堂が建立されたとみられている。 1321年、12月8日、日像は、第96代・後醍醐天皇より弘通の勅許を得る。皇居御溝の傍、今小路(上京区)に法華堂を移した。この地は、安居院(あぐいん)の旧地になる。これが妙顕寺の起源ともいう。京都での日蓮宗最初の道場になる。 南北朝時代、1333年、後醍醐天皇皇子・護良(もりよし/もりなが)親王は、隠岐配流の父・後醍醐天皇の京都還幸を祈る令旨(りょうじ、命を伝える文書)を出した。 1334年、後醍醐天皇の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)により、法華宗号が公許され法華経の最初の勅願寺になった。洛中洛外の宗門の第一位と認められ、「四海唱導妙顕寺」といわれる。京都の16本山を総統した。 1336年、室町幕府将軍家、北朝光厳院の祈祷所になる。 1341年/1340年/1326年、2世・大覚妙実の時、北朝初代・光厳院の院宣(いんぜん、院司が院の命を奉じて出す文書)により、四条櫛笥西頬(しじょう-くしげ-にしづら)(中京区)に移転する。寺名も「妙本寺」と改称した。寺は栄え、以後、「四条門流」と呼ばれる。光厳院祈願所になる。 1352年、比叡山延暦寺衆徒との抗争により破却された。 1358年、大覚妙実は、北朝第4代・後光厳天皇の詔により、衆僧300人で桂川で法華経による祈雨祈祷を行い、すぐに効験が顕れたという。また、第97代、南朝第2代・後村上天皇により大覚妙実は、大僧正に任じられ、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が与えられた。その後、寺勢は増した。 1387年、比叡山延暦寺衆徒により破却された。だが、叡山は再興を許さなかった。北朝最後の第6代・後小松天皇により、土地(四条以南、綾小路以北、壬生以東、櫛笥以西)を与えられた。 室町時代、1393年、足利義満により三条坊門堀川(押小路堀川西、押小路以南、綾小路以北、壬生以東、櫛笥以西、中京区)を寄進される。移転するとともに、叡山の干渉があり、「妙本寺」と寺名を改めて再興した。 1411年、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願寺になる。比叡山延暦寺衆徒との抗争により破却された。 1413年、比叡山宗徒による破却が行われた。 1483年、三条西洞院に移る。 1511年、二条西洞院町に本妙寺(妙顕寺)の名がある。(『宣胤卿記』同年条) 1519年/永正-大永年間(1504-1528)、16世紀(1501-1600)初頭、「妙顕寺」と寺名を戻している。 1521年、室町幕府10代将軍・足利義稙により、二条西洞院南に再建された。 1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、「天文法華の乱」(天文法乱)により破却される。堺・妙法寺に逃れた。 1542年、帰洛し、二条西洞院南(中京区)に再興され、「法華寺」と改める。 安土・桃山時代、1575年に土地(二条以南、三条坊門北、油小路、西洞院間)を与えられる。 1583年、羽柴秀吉の妙顕寺城建立(中京区古城町、押小路通小川西入北側)に伴い、その命により寺は現在地(小川寺ノ内)に移転させられた。秀吉は跡地に、政庁になる二条新邸を築いた。 1588年より、「妙顕寺」の旧名に復した。 1595年、方広寺大仏殿千僧供養出仕では受派になり、その拠点寺になる。 江戸時代、1633年、末寺193があった。 1745年、末寺329があった。 1788年、天明の大火により焼失している。 1834年、再建された。 近代に入り、法華各宗派が大合同し、身延山を祖山とする日蓮宗が結成され、大本山として全国に300あまりの末寺を統率した。 1941年、制度改革によって、全ての末寺を解放した。 ◆日像 鎌倉時代中期-南北朝時代の日蓮宗の僧・日像(にちぞう、1269-1342)。俗姓は平賀、通称は肥後阿闍梨、号は竜華寿院。下総国(千葉県・茨城県)の生まれ。7歳で日蓮の六大弟子の一人・日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、経一丸と命名され本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事した。1293年、北陸を経て、1294年、入洛し、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。柳酒屋仲興(やなぎざかやなかおき)ら町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1311年、綾小路大宮(下京区)付近に、拠点の法華堂が建立されたとみられている。妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。1321年、第96代・後醍醐天皇より弘通の勅許を得る。今小路に法華堂を移し、妙顕寺の起源ともいう。京都での日蓮宗最初の道場になる。同年、洛内追放になる。3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受けた。著『秘蔵集』など。74歳。深草・宝塔寺(伏見区)に葬られる。 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。 ◆大覚妙実 鎌倉時代後期-南北朝時代の日蓮宗の僧・大覚妙実(だいかく-みょうじつ、1297-1364)。日像に師事し、妙顕寺2世になる。中国地方での布教に成功した。1358年、雨乞の成功により、北朝第4代・後光厳天皇から大僧正に任じられ、日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が与えられ、公武接近を果たした。なお、大覚妙実により妙顕寺が開かれたともいう。68歳。 ◆前田利家 室町時代後期安土・桃山時代の武将・前田利家(まえだ-としいえ、1538-1599)。幼名は犬千代、孫四郎、又左衛門尉、異名は槍(やり)の又左衛門、筑前守、加賀大納言。尾張国(愛知県)の生まれ。父・荒子城主・前田利昌、母・竹野氏の4男/次男。1551年、14歳で織田信長の近習になる。1556年、美濃の斎藤道三征伐、1559年、信長の勘気を受け蟄居した。1560年、桶狭間の戦いに加わる。1569年、信長に許され、その命で兄・利久に代わり前田家を継いだ。1570年、朝倉征伐、姉川の戦い、1575年、長篠の戦いなどで戦功をあげた。信長から越前(福井県)を与えられた柴田勝家の監視役として、佐々成政・不破光治と同国府中(武生市)に配され、府中三人衆とし施政に当たる。1581年、能登(石川県)七尾城主になり国持大名になった。1582年、本能寺の変後、対立した柴田勝家・羽柴(豊臣)秀吉と親密であり、1583年、勝家と秀吉が戦った賤ケ岳の戦で当初勝家に加担し、後に秀吉に降伏した。勝家の自殺後、加賀(石川県)の戦功で加賀北半を加増される。1584年、小牧の役で、徳川家康に応じた佐々成政(さっさ-なりまさ)を末守城で破る。1585年、その戦功により嫡子・利勝が越中3郡を得て、後の加賀藩領の原形になる。1586年、羽柴姓と秀吉の旧官名筑前守を譲られる。1587年、九州出兵、1590年、関東・奥羽平定に大軍を出し秀吉の全国統一に参加した。参議となり家康・上杉景勝らと五大老の一人になる。1592年から、朝鮮侵略では名護屋に駐留し、戦勝渡海しようとする秀吉を家康と共に諫止した。1595年、豊臣秀次の謀反後、秀吉の次男・秀頼の守り役になり、1596年、従二位権大納言に進む。1598年、秀吉没後、家康と反家康派の協調に努めた。1599年、家康を追及する先頭に立ち和解した直後に大坂で没した。62歳。 野田山(金沢)に葬られた。墓は妙顕寺(上京区)にもある。 加賀藩主前田氏の祖。民政・理財の才もあり、茶の湯・和歌に長じた。3女・摩阿(加賀殿)は秀吉の側室になる。4女・豪は秀吉の養女となって寵愛された。 ◆日筵 江戸時代前期の日蓮宗の僧・日筵(にちえん、1609-1681)。字は春山、号は隆源院。京都の生まれ。下総中村・小西(千葉県)の両檀林で学び、両檀林の化主(けしゅ)、京都・妙顕寺の住持になる。1667年、甲斐(山梨県)身延山久遠寺29世になる。1679年、久遠寺31世の後継者争いに関与し出羽秋田に流された。著『一期行業』『不受不施論記』など。73歳。 日筵を祖に仰ぐ法脈を莚師(えんし)法縁という。 ◆尾形光琳 江戸時代前期-中期の尾形家6代・画家・尾形光琳(おがた-こうりん、1658-1716)。名は惟富、惟亮、伊亮(これすけ)、幼名は市之丞、別号は積翠、道祟(どうすう)、寂明、方祝(まさとき)、澗声(かんせい)、青々、道号は日受。京都の生まれ。父・富裕な呉服商「雁金屋 (かりがねや)」の尾形宗謙の次男。弟・陶芸家の尾形乾山、曾祖父・道柏の妻は本阿弥光悦の姉。少年時代から能楽・茶道・書道などに親しんだ。父、山本素軒より狩野派の画法を学ぶ。1687年、父の遺産の半分を譲渡され、数年内に使い果たした。34-35歳頃より光琳と称した。39歳頃より画家になる。1699年、弟・乾山は鳴滝に開窯し、光琳は絵付けを手伝う。1701年、二条綱平の推挙により法橋に叙せられ、「小形」を用いた。1703年、奢侈禁止令の咎により「京市中住居お構い」により京都を追われる。1704年、江戸に一度出る。肖像画「中村内蔵助像」を描く。酒井家・津軽家などの大名屋敷にも出入りした。1709年、京都に戻る。1711年、自ら設計した建物で創作活動に打ち込む。59歳。 初め狩野派の画技を学び、土佐派、俵屋宗達・宗達派、光悦蒔絵、野々村仁清にも影響を受ける。独自の大和絵画風(後の琳派)を大成した。銀座役人・中村内蔵助、材木商・冬木家らが支援した。本格的な画業を始めたのは、晩年の20年ほどだった。作品に繰り返される絵柄で構成された「燕子花(かきつばた)図屏風」(国宝、18世紀前半)、宗達を模写し、宗達の「風神雷神図屏風」を意識した傑作「紅白梅図屏風」(国宝、18世紀前半)などがある。乾山に協力し絵付けを行った「黄山谷観鴎図角皿」、工芸「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝)、「白地秋草模様小袖」(重文)などの傑作を遺した。屏風絵のほか、香包、扇面、団扇、小袖、蒔絵、水墨画なども幅広く手がけた。 妙顕寺・興善院(後に泉妙院)(上京区)に葬られた。墓は、妙顕寺の塔頭・善行院の南にもある。 ◆仏像・木像 ◈本堂須弥檀に「一塔両尊(題目宝塔・釈迦如来・多宝如来)」・四士像(安立行菩薩・浄行菩薩・上行菩薩・無辺行菩薩)」合掌印を安置している。 宝塔があり本尊の十界曼荼羅に「南無妙法蓮華経」と書かれている。向かって左に釈迦如来が安置されている。「黄金釈迦如来像」と呼ばれ日蓮の念持仏だった。右に多宝如来、日蓮、日朗、日像、本覚、文殊菩薩、普賢菩薩、四天王などが安置されている。宗祖だけではなく三宝諸尊(日蓮、日朗、日像)の等身大像が祀られるのが当山の特徴になっている。 ◈「日蓮聖人坐像」がある。鎌倉時代-南北朝時代、14世紀(1301-1400)、院與作になる。 ◈尊神堂に「鬼子母神」を祀る。安産子易祈願の信仰を集める。 ◈三菩薩堂に日蓮、日朗、日像を安置する。 ◈御真骨堂に三師の舎利を納めている。 ◆建築 江戸時代後期の1788年、天明の大火後に伽藍が再建された。本堂、客殿、三菩薩堂、表門など7棟が府有形文化財に指定されている。 ◈「本堂」は、江戸時代後期、1830年に上棟、1839年頃に完成した。日蓮宗様式を踏襲している。格天井の一つ一つの枡内に、檀信徒の家紋が描かれている。豪華な天蓋の内側に8人の天女が描かれている。内陣に三宝諸尊(日蓮、日朗、日像)の等身大像が安置されている。扁額「四海唱導」は、北朝第4代・後光厳天皇により大覚に贈られた称号になる。御所紫宸殿に見られる蔀戸がある。入母屋造、総欅造。15間/16面4面、間口28m、奥行25m、瓦葺。 ◈「三菩薩堂」は、日蓮、日朗、日像を祀る。南北朝時代、1358年、妙顕寺2世・大覚により雨乞いが行われ、宗祖・日蓮に「大菩薩号」、開祖・日像と、その師・日朗に「菩薩号」が与えられた。このため、「三菩薩堂」と呼ばれた。扁額「勅賜三菩薩」が掛かる。 檜材、入母屋造、瓦葺。 ◈「鬼子母神堂」は、入母屋造流向背、瓦葺。 ◈「御真骨堂」は、総檜、二層造、瓦葺。 ◈「鐘楼」は、江戸時代後期、1788年の天明の大火で焼失後に再建された。現代、1965年、大門の東隅から、五重塔があった現在地に移築された。 「梵鐘」(京都府指定有形文化財)は、江戸時代中期、1713年の鋳造による。 ◈「客殿」は入母屋造、瓦葺。 ◈「書院」は、入母屋造、瓦葺。 ◈「奥書院」は入母屋造、瓦葺。 ◈「御真骨堂」には、日蓮大聖人・日朗聖人・日像聖人の眞舎利を祀った、近代、52世・福田日耀上人の代に再建された。鉄筋コンクリート多宝塔型、瓦葺。 ◈「宝蔵」は、土蔵造、瓦葺。 ◈「庫裏」は、入母屋造、瓦葺。 ◆庭園 ◈客殿の前庭は、「龍華飛翔(りゅうげひしょう)の庭(四海唱導の庭)」という。枯山水式庭園になる。南に勅使門があり、本堂の大屋根が借景になる。白砂に南北に延壇が直線に敷かれ、東に石組みがある。サクラ、カエデなどが植えられている。 ◈書院前庭「光琳曲水の庭」は尾形光琳の屏風絵を元にして作庭されたという。樹齢400年の赤松の大木、黒松、梅、川の流れを表す白砂、苔地、飛石、石橋、植栽などで構成されている。 ◈「孟宗竹林の坪庭」は、五角形の庭面、苔地に孟宗竹だけが植えられている。 ◈塔頭・本妙院に「本妙院庭園」(京都市指定名勝)、塔頭・教法院に「妙顕寺北之方丈」(御題目庭園)などがある。 ◆文化財 ◈室町時代の紙本墨書「後小松天皇宸翰御消息」(重文)、「後醍醐天皇綸旨」(重文)、「後光厳天皇綸旨」。 ◈鎌倉時代-江戸時代の日像・日像・大覚ら7代の歴代書状などの「妙顕寺文書」(重文)。 ◈鎌倉時代の日蓮筆「神国王書」2巻(重文)、日蓮真筆「玄旨伝法本尊」、日蓮真筆「強仁状御返事」、ほか「八宗違目抄」、「三八経」、「消息断片数軸」など。 ◈日像筆の細字「極細字法華経」。鎌倉時代の「金字法華経巻第五」。 ◈狩野山楽筆の紙本金地墨画「 楼閣山水図 六曲屏風」(京都市指定有形文化財)。 ◈尾形光琳が晩年に描いた現存唯一の絵「寿老松竹梅図 三幅対」。 ◈酒井抱一筆「観世音菩薩像」は、光琳100回忌に描かれた。 ◈歴代の曼荼羅が遺されている。 ◈古文書の多くは竜華文庫に収蔵されている。 ◆妙顕寺型燈籠 本堂前の2基の常明燈は、「妙顕寺型燈籠」と呼ばれている。 家屋型であり、屋根は入母屋造、軒裏に垂木がある。江戸時代前期、1661年作。 ◆題目の巷 日像らの布教活動により、京の町には法華信者が増え、「題目の巷」とまでいわれた。近世の芸術家の中にも多くの信者が現れている。狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山などの名がある。 ◆分立・分出 妙顕寺一門としては、妙覚寺、立本寺があり、山号をともに具足山という。その後分立した。また、妙蓮寺、本隆寺も分出した。 ◆支院 久本院、大妙院、十乗院、恵命院、本妙院、実成院、教法院院、善行院、法音院、泉妙院がある。 ◆歴代 江戸時代の16世・僧那院日豊(?-1669)は池上本門寺19世、17世・隆源院日延(?-1681)は身延29世、20世・勝光院日耀(?-1697)は中山法華経寺40世、24世・南無院日妙(?-1710)は法華経寺49世になった。 ◆慶中稲荷 「慶中稲荷」はかつて京都御所に祀られていた。御所鎮護の守護神であり、願い事が必ず叶うといわれた。宮中に仕える女官たちに尊崇されていた。 ◆妙顕寺城 安土・桃山時代、1583年、羽柴秀吉は、妙顕寺の境内地に妙顕寺城を築造し、寺は小川寺ノ内に移転させた。 跡地には、二条新邸を築造した。平素は前田玄以が政務を行い、秀吉上洛の際に宿舎になった。1586年の聚楽第の造営まで、京都の政庁として機能した。 現在は、「妙顕寺城址碑」(中京区古城町、押小路通小川西入北側)が立てられている。 ◆遺跡 室町時代後期、1536年に、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らは京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした。この天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。 ◆墓 ◈塔頭・善行院に江戸時代の絵師で工芸家の尾形光琳(1658-1716)の墓があった。江戸時代後期、1819年に酒井抱一が建立したという。現在は、墓跡に顕彰碑が立てられている。 塔頭・泉妙院にも尾形光琳の墓がある。 ◈陶工・絵師の尾形乾山(1663-1743)の墓がある。光琳は次兄になる。 ◈安土桃山時代-江戸時代の武将で、加賀藩第3代藩主・前田利光(利常、1594-1658)の墓がある。 ◆樹木 イブキは区民の誇りの木に指定されている。オガタマノキが植えられている。 ◆宿坊 女性専用の宿坊があり、宿泊できる。 ◆年間行事 新年祈祷会(1月1日-3日)、二の午慶中様大祭(2月)、彼岸会(3月)、法華千部会(4月14日)、法華懺法会(後醍醐天皇聖忌会)(6月16日)、盆施餓鬼法要(8月10日)、彼岸会(9月)、宗祖御会式(開山日像菩薩御会式)(11月13日)、冬至除災祈祷会(お焚き上げ)(12月8日)。 鬼子母神大祭(毎月8日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 上』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の寺社505を歩く 上』、『事典 日本の名僧』、『日蓮宗寺院大鑑』、『第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』、『京都大事典』、『京都隠れた史跡100選』、『京都 神社と寺院の森』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』、『京都の隠れた御朱印ブック』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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