安堵の塔・甲塚古墳 (京都市右京区)  
Ando-no-to(stone tablet)
安堵の塔・甲塚古墳 安堵の塔・甲塚古墳
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「日像上人題目石」の石標


安堵の塔


安堵の塔、「南無妙法蓮華経」と刻まれている。


安堵の塔の側面




【参照】近くを流れている有栖川
 嵯峨中又町(なかまたちょう)の下立売通の南、生垣の中に、「安堵の塔(あんど の とう)」という石碑が立つ。日蓮の孫弟子・日像ゆかりの題目卒塔婆という。日像の号「竜(龍)華寿院」に因み「ルルゲ(竜華)さん」とも呼ばれている。
 災難を避ける功徳があるという。
◆歴史年表 鎌倉時代、1314年、日像は、車折神社の社頭で、法華経の布教を行った。その時、他宗の迫害があり、近くの兜塚(冑塚、甲塚)古墳に身を隠し難を逃れたという。その後、感謝して題目石塔婆を立てたという。(駒札)。
 また、日像が京都七口に立てた石卒塔婆の一つともいう。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨、号は竜華寿院という。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子の一人・日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、経一丸と命名され本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事した。1293年、北陸を経て、1294年、入洛し、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。柳酒屋仲興(やなぎざかや なかおき)ら町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪になる。1311年、綾小路大宮(下京区)付近に、拠点の法華堂が建立されたとみられている。妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。1321年、第96代・後醍醐天皇より弘通の勅許を得る。今小路に法華堂を移し、妙顕寺の起源ともいう。京都での日蓮宗最初の道場になる。同年、洛内追放になる。3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受けた。著『秘蔵集』など。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあり、四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆安堵の塔 ◈ 鎌倉時代、1314年の春、日像が車折神社(右京区)の社頭で、法華経の布教を行った。その時、他宗の迫害を受けた。近くの兜塚(冑塚、甲塚)古墳に身を隠し、難を逃れる。その後、感謝し、古墳の石蓋に波動(なみのり)の題目を刻んで立てたという。
 高さ220㎝、幅150㎝、厚さ95㎝。
 ◈ また、日像が京都七口に立てた石卒塔婆の一つという。表面に「南無妙法蓮華経」と刻んでいる。
 ◈ なお、碑の東に流れている有栖(ありす)川には、かつて「安堵橋(あんどばし)」が架けられていた。現在は「甲塚橋(かぶとづかばし)」と呼ばれている。
 この「安堵」とは、空海にまつわる「阿刀(あと、阿刀氏)」よりの転訛ともいう。かつて、嵯峨・清凉寺で火災があり、比叡山衆徒が駆け付けた。橋の袂で宝樹寺の本尊が無事であり、安堵したことから名付けられたという。(『都名所図会』巻4)。
◆冑塚古墳 「冑塚古墳(かぶとづか こふん)」(右京区嵯峨甲塚町)は、安堵の塔の南東に位置している。民家敷地内にあり、「兜塚」「甲塚」とも記される。
 平地に築かれた円墳で、後期古墳、横穴式になる。南を正面にし、側面から見ると冑の形をしており、名の由来になった。封土は崩れている。羨道、玄室は残る。径38m、高さ5.5m。
 現在は、稲荷神を祀る祠がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 駒札、『昭和京都名所図会 4 洛西』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 安堵の塔・甲塚古墳 〒616-8347 京都市右京区嵯峨中又町
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