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良心碑 (京都市上京区) Мonument of Conscience |
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良心碑 | 良心碑 |
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![]() 良心碑 ![]() 良心碑、「新島襄」の自筆署名 ![]() 良心碑の裏面 ![]() 説明板 ![]() 説明板 |
同志社大学今出川キャンパス正門を入ると真正面の木立の中に、「良心碑(りょうしん-ひ)」が立てられているのが見える。 同志社建学の祖・新島襄の教育理念・建学精神の真髄である「良心教育」を象徴している。 ◆歴史年表 近代、1889年、11月23日、新島襄は、療養地の東京から同志社普通学校5年生・横田安止宛に書簡を送っている。 1940年、11月29日、同志社創立65周年記念・新島襄永眠50周年に際し、記念事業の一環として良心碑が立てられ、除幕式が行われた。 ◆新島 襄 江戸時代後期-近代のキリスト教宗教家・教育者・新島 襄(にいじま-じょう、1843-1890)。男性。幼名は七五三太(しめた)、名は経幹。父・安中藩士・新島民治、母・とみの長男。神田の江戸藩邸内の生まれ。1856年、但馬順輔より蘭学を学ぶ。1857年、漢学所助教に任じられる。安中藩祐筆補助役、御供徒士になった。添川簾斎より漢学、杉田玄随に蘭学を学ぶ。1860年、幕府の軍艦操練所に入所し、数学・航海術・洋式帆船の航海実技を学んだ。1862年、甲賀源吾の塾で数学・航海術・英学を学ぶ。1864年、3月、箱館に航海する。ロシア正教会司祭・ニコライ宅に寄宿し、日本語を教え英語を学んだ。6月、アメリカ船「ベルリン号」で脱国し、上海を経て、「ワイルド・ローヴァー号」で、1865年、7月、アメリカ合衆国ボストンに着いた。以後、船主・ハーディー夫妻により、9年間にわたり学費・生活費などの援助を得る。1866年、受洗した。その後、ボストンのフィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校に進む。1873年、岩倉遣外使節団(1871-1873)の通訳になり、欧米8カ国の教育制度の調査・視察を行う。1874年、アメリカ合衆国の外国伝道委員会(アメリカン・ボード)宣教師補に任命され、総会で日本での学校設立を訴え5000ドルの寄付を得て帰国した。キリスト教人格主義教育、全人教育を掲げ、当初は大阪に開学を予定した。木戸孝允により、京都府知事・槇村正直、顧問・山本覚馬を紹介される。1875年、11月、山本らの協力により、京都に官許の同志社英学校(寺町丸太町上ル中井屋敷)を開設した。当初の生徒は8人だった。1876年、新校舎(相国寺門前)に徳富蘇峰など熊本バンドの30余人が入学した。1877年、女学校を開校する。1886年、仙台に東華学校、1887年、京都看病婦学校を開校し、同志社病院の開院にも携わる。1888年、「同志社大学設立の旨意(しい)」を発表した。開学資金を募る中、1890年、神奈川県大磯で客死した。47歳。 私学によるキリスト教主義の育徳、自治・自立の国民の養成を目指した。夢は同志社を総合大学に発展させることだったという。 墓は同志社墓地(左京区)にある。 ◆横田 安止 江戸時代後期-近代の横田 安止(よこた-やすただ、1865-1935)。詳細不明。男性。熊本県の生まれ。1889年、同志社普通学校5年生の時、東京で療養していた新島襄から書簡を送られた。国民新聞記者、大阪第百銀行、九州商業銀行、横浜貯蓄銀行に勤めた。70歳。 安止は、最晩年の新島襄が徳富蘇峰と同様に、最も信頼した生徒の一人だったという。 ◆半田 善四郎 近代の実業家・半田善 四郎(1876-1951)。詳細不明。男性。群馬県安中の生まれ。半田家に養子に入る。山林経営に成功し、朝鮮半島でも山林・農場経営した。同郷の新島襄に心酔し、キリストに入信した。同志社大学、新島学園に多額の寄付をする。原市中学校(現・安中二中)を設立した。1912年、軽井沢で土地分譲・別荘分譲を始める。1935年、碓氷厚生病院(現・碓氷病院)の設立に関わる。75歳。 ◆徳富 猪一郎 江戸時代後期-近現代のジャーナリスト・評論家・歴史家・徳富 猪一郎(とくとみ-そほう、1863-1957)。男性。本名は猪一郎(いいちろう)。蘇峰(そほう)。洗礼名は掃留(ソウル)。肥後国(熊本県)水俣の生まれ。父・郷士・徳富一敬(淇水)、母・久子の5男。徳冨蘆花の兄。1870年、父が熊本藩庁に勤めるため一家で大江に移る。元田永孚、竹崎律次郎(茶堂)の私塾、兼坂諄次郎(止水)の漢学塾に学ぶ。1872年、熊本洋学校に入学する。年少を理由に退学になる。熊本バンドに加わった。1875年、熊本洋学校に再入学した。1876年、「奉職教趣意書」に端を発し熊本洋学校が閉鎖される。東京英語学校に入学した。退学し、同志社英学校に転入学する。在学中に西京第二公会で新島襄よりキリスト教の洗礼を受ける。1877年、蔵原維郭(これひろ)、大西祝(はじめ)らと「同心こう社」を結成した。1878年、デイヴィスのもとで教会活動を行う。1880年、クラス合併問題に端を発した「自責の杖」事件以後、卒業目前にして退学した。上京し、故郷に戻る。相愛社客員として自由民権運動に関わる。1882年、私塾・大江義塾を設立する。1886年、大江義塾を閉鎖し『将来之日本』刊行の成功により上京した。1887年、湯浅治郎の協力により民友社を創設し、雑誌『国民之友』を発刊する。1888年、新島のために「同志社大学設立の旨意」を意見交換し代筆し、『国民之友』別冊付録として公表した。1890年、国民新聞社を設立して「国民新聞」を創刊し平民主義を唱える。国権主義へと転換した。1896年-1897年、外遊する。1897年、第2次松方正義内閣の内務省勅任参事官に就任し、「変節」との非難を受けた。1911年、桂太郎の推薦で勅撰貴族院議員になる。内閣に関わる。1913年、国民新聞社は護憲派による焼討に遭う。1926年、国民新聞社の経営再建のために株式会社に改組する。1929年、根津嘉一郎との不和により国民新聞社を退き、1945年まで東京日日新聞社・大阪毎日新聞社賓になる。1941年、12月、日米開戦になる。皇室中心の国家主義思想を唱え、1942年、日本文学報国会・大日本言論報国会会長に就任した。1944年、『必勝国民読本』を刊行し、最後まで日本の戦争での勝利を確信していた。1945年、戦後、A級戦犯容疑者に指名され、自宅拘禁・公職追放処分になる。1947年、戦犯容疑は解除になる。1952年、公職追放も解除になった。史書『近世日本国民史』100巻を完成させた。94歳。 同志社大学設立に尽力し、同志社への支援を惜しまなかった。言論人、修史家、経営者でもあった。平民主義から、国権主義へと変化し、両者を繋ぐものとして皇室中心主義を唱えた。葬儀は遺言により赤坂・霊南坂教会で執り行われる。 墓は同志社墓地(左京区)の14番。碑銘は自筆による。 *「同心こう社」の「こう」は「好」の下に「心」 ◆良心碑 「良心碑」は同志社大学今出川校地(上京区)に、近代、1940年11月29日の同志社創立65周年記念・新島襄永眠50周年に際し、記念事業の一環として立てられた。 新島襄は、最晩年の1889年11月23日に、療養地の東京から同志社普通学校5年生・横田安止に書簡を送っている。原文には「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ望テ止マサルナリ」と記した。新島の教育理念・同志社建学精神の真髄である、「良心教育」の由来になった。「一国の良心」になる人物養成を使命としていた。 前年の1888年11月の『同志社大学設立の旨意』では、「目的とする所は、独り普通の英学を教授するのみならず、其徳性を涵養し、其品行を高尚ならしめ、其精神を正大ならしめんことを勉め、独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず、所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さん事を勉めたりき。」、「一国を維持するは、決して二、三英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふ可き人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」と宣言されている。 碑の表には、新島の自筆書体を拡大して刻んでいる。「良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ」とある。裏面には、徳富蘇峰による由来文「新島先生同志社大学運動中東京ヨリ在校ノ一学生ニ与ヘタル書簡中ノ一節ヲ録ス先生永眠五十周年ニ際シ追慕ノ余(あまり)門生胥議(しょぎ、皆で相談する)シテ之ヲ先生故郷ノ産碓氷石ニ勒(ろく)ス 昭和十五年(1940年)十月 蘇峰 徳富正敬書 石ハ社友 半田善四郎君ノ寄贈ナリ」と刻まれている。 碑の建立は、群馬県碓氷(うすい)郡原市の社友・実業家・半田善四郎の寄付による。石は碓氷石だった。 ◆ほかの良心碑 良心碑はほかにも、国内外8カ所に立てられている。 岩倉校地(京都市左京区)、京田辺校地(京田辺市)、学研都市キャンパス(木津川市)、国際学院初等部・国際部(木津川市)、香里中学校・高等学校(大阪府寝屋川市)、新島学園中学校・高等学校(群馬県安中市)、高崎自然歩道(群馬県高崎市)、フィリップス・アカデミー(アメリカ合衆国)になる。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「同志社大学」、『同志社山脈』、『新編 同志社の思想家たち 上巻』、『新編 同志社の思想家たち 下巻』、『京の思想家散歩』、『京都歴史案内』、『京の思想家散歩』、『京都大事典』 、『昭和京都名所図会 5 洛中』、ウェブサイト「徳富蘇峰記念館」、ウェブサイト「銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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