桂小五郎・幾松寓居跡 (京都市中京区)  
The ruins of temporary residence of Katsura, Kogoro
桂小五郎・幾松寓居跡 桂小五郎・幾松寓居跡
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「桂小五郎 幾松 寓居址」の石標


「長州藩控屋敷跡」とある。


料亭「幾松」


料亭「幾松」


料亭「幾松」
 木屋町通御池上ル東側に「桂小五郎 幾松 寓居址(かつらこごろう-いくまつ-ぐうきょあと)」の石標が立つ。
◆歴史年表 詳細は不明。
 江戸時代、かつてこの付近の鴨川西岸に、長州藩控屋敷があったという。桂小五郎は、三本木の芸妓・幾松と住んだという。
 1864年、池田屋事件では、新撰組に追われた小五郎は、寓居で幾松の機転により助かったという。
 近代、1890年、旅館として開業した。
 1877年、松子(幾松)は、夫・孝允(小五郎)の没後、剃髪し翠香院と号した。この地、木屋町へ転居に暮らしたという。
 現代、1956年より、現在の会社が料理旅館として営業する。
 2004年、歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財になった。
 2020年、10月、料理旅館「幾松」は閉店した。
◆木戸孝允 江戸時代後期-近代の政治家・木戸孝允(きど-たかよし/こういん、1833-1877)。本姓は和田、通称は桂小五郎(かつら-こごろう)、貫治、準一郎、号は松菊(しょうぎく)、木圭、竿鈴(干令)、変名は新堀松輔、あだ名は逃げの小五郎など。萩(山口県)の生まれ。長州萩藩医・和田昌景の次男。1840年、桂九郎兵衛(孝古)の養子になる。1849年、吉田松陰の門下になった。1852年、江戸に出て剣術・斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)に入り塾頭になる。後、江川太郎左衛門から洋式砲術を学ぶ。蘭学、造船術も学ぶ。水戸、越前、薩摩などの尊攘派と交わった。1860年、井伊大老の暗殺直後に、長州藩の軍艦・丙辰丸船上で水戸藩士・西丸帯刀らと「丙辰丸盟約」を結び、尊王攘夷に加わる。1862年、藩命により京都・長州藩邸へ入り情報収集を行う。1863年、8月18日の政変後に京都に潜伏した。1864年、6月、新撰組による池田屋襲撃では難を逃れた。7月、蛤御門(禁門の変)を防ぐことができず、但馬・出石に潜伏する。1865年、一旦、長州に帰藩した。1866年、長州藩代表として、京都・薩摩藩邸で坂本龍馬の立会により薩摩藩・西郷隆盛らと「薩長同盟」を結ぶ。1867年、長州藩を訪ねた大久保利通、西郷らと討幕挙兵を協議した。 1868年、新政府の太政官に出仕し、参与になる。由利公正、福岡孝弟らと「五箇条の御誓文」の起草に関与した。1869年、版籍奉還建白の実現に関わる。1870年、新政府の参議になる。1871年、西郷とともに廃藩置県の断行に関与した。開明急進派を主導し、漸進派の大久保と対立する。米欧遣外使節団(特命全権大使・岩倉具視)の全権副使として大久保、伊藤博文らと米欧視察する。木戸は諸国の憲法・法制を担当した。1873年、帰国後、憲法制定を建言した。西郷、板垣退助らの征韓論に対し、内治派(大久保、岩倉、木戸)らは、国力が充実していないとして反対し、西郷を下野させた。木戸は大久保の独裁政権成立後は大久保を批判した。1874年、富国強兵政策の台湾出兵(征台の役)の、征台論に反対し参議を辞する。1875年、一時、大久保らの政府主流派に妥協し政府に復帰する。第1回地方官会議(大阪会議)の議長になる。再び、大久保主導への不満から、1876年、辞職した。1877年、西南戦争の最中に京都で病没する。44歳。
 「維新三功臣(ほかに西郷隆盛、大久保利通)」の一人。勝海舟、坂本龍馬、横井小楠ら開明派とも親交があった。
 墓は霊山護国神社内墓地(東山区)にある。
◆木戸松子 江戸時代後期-明治時代初期の女性・木戸松子(きど-まつこ、1843-1886)。芸妓名は幾松、法名は翠香院。父は若狭小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛、母は医師・細川益庵(太仲)の娘・末子。父は町奉行の祐筆であり、藩内事件の責により、妻子を残し京都へ出奔する。一家離散し、母は実家に戻る。その後、母の再婚に伴い、1851年-1852年、上洛し、一条家諸大夫の次男・難波常二郎(恒次郎)養女になる。1856年、14歳で東三本木「吉田屋」より舞妓に出され、2代目・幾松の芸妓名を継ぐ。置屋「瀧中」に属した。勤皇芸者として売れっ子になる。1861年-1862年、桂小五郎(木戸孝允)と出会う。1864年、池田屋事件後、二条大橋に潜んだ桂に握り飯を届けたという。1864年-1865年、出石に潜伏した桂を迎えに行く。1870年、孝允と結婚し、長州藩士・岡部富太郎の養女になり、木戸松子と名乗る。社交界に登場し鹿鳴館で注目を浴びた。1877年、孝允没後、出家し翠香院と号した。晩年は三本木(木屋町とも)の寓居に暮らした。44歳。
 墓は夫・孝允とともに霊山護国神社内墓地(東山区)にある。
◆寓居跡 寓居跡には、長州藩控屋敷があったともいう。桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子)がしばしば暮らしたという。
 志士らは会合のために利用した。新撰組の探索に備え、鴨川への抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井、天井には、大きな石が仕掛けられていたという。
 1864年の池田屋事件後、潜伏していた小五郎は、二条大橋の下に乞食姿で身を隠し、幾松は握り飯を作り届けていたという。新撰組の近藤勇らが屋敷に踏み込んだ際に、幾松は二階の長持ちに桂を隠した。近藤に啖呵を切り引き下がらせたという。孝允の没後に、松子は余生をこの地に暮らしたという。
 現在は料亭「幾松」がある。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『新選組と幕末の京都』、『京都大事典』、『おんなの史跡を歩く』 、ウェブサイト「コトバンク」  


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 桂小五郎・幾松寓居跡 〒604-0923 京都市中京区上樵木町498,木屋町通御池上ル東側 
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