藤森神社・藤の森 (京都市伏見区) 
Fujinomori-jinja Shrine
藤森神社 藤森神社 
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正門(南門)


鳥居






「菖蒲の節句発祥の地」








西門


西門、社額「藤森神社」


西門


西門


西門


参道のクスノキの巨木


手水舎


手水舎




割拝殿

割拝殿

割拝殿
割拝殿


割拝殿


割拝殿


本殿




本殿


本殿

本殿


本殿、社紋


本殿

本殿

本殿

本殿







金太郎像


金太郎像、「勝運之神 菖蒲の節句発祥の地」


舎人親王崇敬碑、「学藝の祖 舎人親王崇敬碑」


舎人親王崇敬碑


舎人親王崇敬碑


クスノキ


御旗塚



御旗塚

御旗塚イチイの木の古株


「府社 藤森神社」の石標


神鎧像


神鎧像


不二の水


不二の水






絵馬舎

絵馬舎、奉納絵馬


斎館


神楽殿


フジバカマ


フジバカマ






藤森稲荷社


藤森稲荷社


藤森稲荷社




大日如来社


大日如来社




藤森七福神


祖霊社

祖霊社


七宮社



七宮社


八幡宮(重文)



大将軍社(重文)


大将軍社


天満宮社



天満宮社


蒙古塚



宝物殿


宝物殿、かへし石


宝物殿、アニメ「活劇 刀剣乱舞」


神馬像


神馬像


「紀念建石」


歌碑


紫陽花


第2紫陽花苑


第1紫陽花苑


義民碑、「焼塩屋権兵衛顕彰碑」


義民碑


義民碑


京都歩兵聯隊跡の碑



京都歩兵聯隊跡の碑、碑文






伏見城の城壁の一部



伏見城城壁の一部、印
 藤森神社(ふじのもり-じんじゃ)は、菖蒲の節句発祥の神社とされ、「弓兵政所(ゆずえまんどころ)」ともいわれた。「藤森天王社」、「御田社」とも称された。通称として「紫陽花の宮(あじさいのみや)」とも呼ばれた。かつて、京都の三大社(糺の社、天王の社)の一つといわれた。 
 祭神は、本殿(中座)に素盞鳴命(すさのおのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、第15代・応神(おうじん)天皇、第16代・仁徳天皇、神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちのすくね)。東殿(東座)に、日本書紀の編者で、日本最初の学者の学問の神・舎人(とねり)親王、第40代・天武天皇。西殿(西座)に、非業の死を遂げた早良(さわら)親王、伊豫(いよ)親王、井上(いがみ)内親王ら12柱が祀られている。御霊社。旧府社。    
 京都十六社朱印めぐりの一つ。伏見五利益(五福)めぐりの一つ。京都刀剣御朱印めぐりの一つ。
 勝運と馬の神としても知られる。武運、男子守護、勝負勝運、学問、競馬守護として、騎手、調教師などの競馬関係者の信仰を集める。イチイの木は腰痛平癒の信仰がある。勝運賭け馬・駈馬守、打毬守、ゲートボール勝運守なども授与される。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 弥生時代、203年、神功皇后(じんぐう-こうごう)による新羅凱旋の後、藤森の地に纛旗(とおき、軍中の大旗)を立て、兵具の塚を造ったことに始まるともいう。(社伝)
 かつて深草郷には、複数の小社が鎮座していたとみられている。深草一帯の勢力を持っていた紀氏(きし)一族の産生神として、信仰を集めていたともいう。
 奈良時代、早良親王(750?-785)が篤く崇敬したという。山城国紀伊郡藤尾の地に祭神が祀られていたともいう。
 759年、藤鬼舎人親王を祀る東殿(東座)、塚本の早良親王を祀る西殿、中座が合祀され藤森神社になったともいう。
 神護景雲年間(767-769)、渡来系・秦氏の守護神、真幡寸(まはたき)神社になった。
 781年、夷狄来襲に際して大将軍に任じられる。当社に戦勝を祈願した。
 平安時代、794年、第50代・桓武天皇より、弓兵政所(ゆずえのまんどころ)の宝称が授けられ、遷都奉幣の儀式が執り行われた。また、平安京を守護する4社のうち、南の方除神である大将軍社が、八幡宮とともに合祀される。
 1110年、「藤森社」と記されている。(『百錬抄』)
 室町時代、1438年/永亨年間(1429-1441)、藤尾社(祭神は天武天皇、舎人親王)が6代将軍・足利義教によって、伏見稲荷大社の藤尾社旧地より深草・藤森(現在地)に遷座された。それに伴い、藤森に鎮座していた大将軍社、真幡寸社は社籍を残し、城南宮、竹田の真幡寸里にそれぞれ遷る。早良親王の怨霊を鎮める塚本社、それを引き継いだ古天王真幡寸神社がいずれも焼失していた。
 1470年、真幡寸社、藤尾社、塚本社が藤森神社に合祀され、祭神に御霊神・早良親王、伊豫親王、井上内親王が加えられる。
 江戸時代、幕府は200石の朱印領を与えた。
 1657年、正月、儒者・神道家・山崎闇斎は、『倭鑑(やまとかがみ)』を起草しようとして当社を詣でた。
 1712年、現在の本殿は第114代・中御門天皇による宮中賢所の寄進に伴い、移築して建立された。
◆神功皇后 古代の第14代・仲哀天皇皇后・神功皇后(じんぐう-こうごう、?-?)。女性。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、息長帯比売命)。父・第9代・開化天皇の曾孫・気長宿禰(おきながのすくね)王、母・新羅より但馬に 渡来したアマノヒホコ玄孫・タカヌカヒメ。第14代・仲哀天皇の皇后になる。199年、天皇の熊襲(くまそ)征討に従い、筑紫(つくし)に赴く。天皇が急死したため、200年、自ら兵を率いて新羅、百済、高句麗を服させた。皇后は臨月にもかかわらず鎮懐石により産気を鎮め、帰国後、200年、第15代・応神天皇を出産する。反逆を鎮め、大和で皇太子を後見、国政にも関与し69年間執り、100歳で没したという。
 皇后親子は母子神信仰につながり、八幡宮の祭神として祀られる。当社が安産祈願の信仰を集めるのも、妊娠した皇后が出産を遅らせ、無事に応神天皇を産んだことに起因する。以来、安産の神として崇敬された。後に、豊臣秀吉は朝鮮出兵に際し、皇后にあやかり、願文に太刀を添えて当社に奉納した。
◆早良親王 奈良時代の皇族・早良親王(さわら-しんのう、750-785)。男性。崇道(すどう)天皇。父・第49代・光仁天皇(白壁王)、母・高野新笠(たかの-の-にいがさ)の第2皇子。山部親王(第50代・桓武天皇)の同母弟。京都に生まれた。768年、出家し東大寺に住した。770年、父・光仁天皇の即位により親王になる。781年、兄・桓武天皇の即位に伴い、父の意図により皇太弟に立てられた。785年、桓武天皇の寵臣だった造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件が起きる。早良親王は首謀者であり、天皇擁立計画があったとされた。連座して、大伴継人、竹良、佐伯高成、大伴家持らも官位などを奪われた。早良親王は皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉される。淡路に流される途中、無実を訴えながら河内国高瀬橋付近で絶食死したという。遺骸は淡路島に運ばれた。35歳。
 事件は、桓武天皇の第1皇子・安殿(あて)親王(第51代・平城天皇)の擁立に伴う謀略とみられている。以後、藤原氏の地位が低下し、桓武天皇の権力が強化された。その後、高野新笠、藤原乙牟漏の死、皇室・藤原氏の病死者も相次ぎ、災害、悪疫の流行も続いた。陰陽師は、安殿親王の病弱の原因も、早良親王の怨霊による祟(たた)りとした。800年、桓武天皇は、早良親王に崇道(すどう)天皇の号を追贈する。墓も改葬させ、淡路に寺を建立し、大和の八嶋陵に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれる。以後も、親王の怨霊は長く平安貴族を悩ます祟りの一つとして畏れられた。
◆舎人親王 奈良時代の皇族・舎人親王(とねり-しんのう、676-735)。男性。父・第40代・天武天皇、母・第38代・天智天皇の皇女・新田部(にいたべ)皇女の第3皇子。子には大炊王(第47代・淳仁天皇)らがいる。右大臣藤原不比等のもとに、養老律令の改修を行う。720年、編纂責任者になり『日本書紀』全30巻、系図1巻として完成し、知太政官事(ちだいじょうかんじ)になり、太政官を統轄する。第44代・元正天皇、第45代・聖武天皇に皇親の長老として仕える。729年、長屋王の変で王の罪を糾明し、光明皇后を定めた。歌人として『万葉集』に入集。60歳。
 没後、太政大臣を贈られた。758年、大炊王が淳仁天皇に即位し、崇道尽敬(すどうじんきょう)皇帝の称号を贈られた。
◆小侍従 平安時代後期-鎌倉時代前期の歌人・小侍従(こじじゅう、1121-1202)。女性。父・石清水八幡宮別当・紀光清、母・菅原在良の娘・花園左大臣家小大進。中納言・藤原伊実の妻になり後に死別した。第78代・二条天皇、太皇太后・宮多子、第80代・高倉天皇に仕えた。1179年、出家する。晩年、後鳥羽院(第82代)歌壇で、『正治初度百首』『千五百番歌合』に出詠した。藤原実定との和歌の贈答により「待宵(まつよい)の小侍従」と呼ばれた。(『平家物語』月見の段)。歌集『小侍従集』。81歳。
 平経盛、源頼政・師光、藤原実定・隆信などの歌人と交流した。殷富門院大輔と共に女性歌人の双璧とされた。
◆建築  ◈「拝殿」は、中央に通路がある割拝殿になる。御所より移築された。
 切妻平入、唐破風の向庇。四面吹き放し。
  ◈「本殿」は、江戸時代前期、1712年に、第114代・中御門天皇(1702-1737)により宮中内賢所が移された。現存する賢所としてはもっとも古い形だという。
 正面に拝所が付き、千鳥破風、唐破風を重ねる。入母屋造、檜皮葺。
  ◈「大将軍社」(重文)は、室町時代中期、1438年/1467年-1572年?に、室町幕府第6代将軍・足利義教(1394-1441)の建立によるという。 
 一間社流造、杮(こけら)葺。奥拝正面に蟇股が見られる。
  ◈「八幡宮社」(重文)は、室町時代中期、1438年/1494年?は、足利義教(1394-1441)の建立による。
 一間社流造、杮葺。
  ◈「絵馬舎」は、かつては拝殿だった。
◆文化財 ◈「紫絲威鎧(むらさきいと-おどし-よろい)大袖付」(重文)は、南北朝時代作という。三鍬形の筋兜になる。徳川幕府第4代将軍・徳川家綱(1641-1680)奉納の鎧であり、最後の征夷大将軍・有栖川熾仁親王(1835 -1895)が着用したという。
 ◈太刀「鶴丸国永(つるまるくになが)」の写しがある。平安時代中期の刀工・国永(くになが)の造刀による。かつて、藤森祭の神事でも用いられた。織田信長、伊達家などどを経て、現在は宮内庁所蔵になる。現代、2017年、刀匠・藤安将平(ふじやす-まさひら、1946-)による写しが奉納された。宝物殿に展示されている。
 ◈「狛犬一対」(重文)は、平安時代の作で木造になる。胎内に鎌倉時代後期、1307年補修の銘がある。
 ◈『仮名日本紀』全巻は、平安時代中期の歌人・清少納言(966?-1025?)筆ともいう。
 
◈絵馬舎には、白馬、黒馬の絵馬が掛かる。江戸時代前期、1613年の銘があり、京都でも古いものの一つという。
◆東殿・藤尾社 東殿の主祭神・舎人親王(第40代・天武天皇皇子)は、当初、平安時代前期、759年に藤尾(ふじお)の地(伏見稲荷大社の社地)に祀られた。第47代・淳仁天皇は、祟道儘敬(すどうじんけい)皇帝と追号した。
 室町時代中期、1438年に第102代・後花園天皇の勅により、室町幕府第8代将軍・足利義政は、藤尾大神を藤森社に遷し東殿に合祀した。
 旧地(藤尾)の伏見稲荷大社には、参道北にいまも小祠・藤尾社が祀られている。
◆西殿・塚本宮 西殿に主祭神・早良親王(第49代・光仁天皇皇子)を祀る。平安時代前期、800年に伏見稲荷社近くの塚本の地(塚本社、塚本の宮、東山区本町16)に祀られる。この地は、桓武天皇の同母弟・早良親王の旧宅跡とされ、御霊社として塚本社が祀られていたという。第50代・桓武天皇は祟道天皇と追号している。
 平安時代前期、826年に、第53代・淳和天皇の詔勅により、伊予親王、井上内親王は、塚本の宮に合祀される。平安時代後期、1055年、法性寺の類焼により焼失している。第72代・白河天皇の勅により、1077年に再建された。鎌倉時代前期、1192年、第82代・後鳥羽天皇による奉幣の儀が執り行われている。鎌倉時代、九条道家による東福寺建立に伴い、鎌倉時代中期、1239年に深草・極楽寺の南、深草古天王(小天皇塚、聖母小学校北向)へ遷された。室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。1470年に早良親王が生前に藤森神社を崇敬していたことから藤森社西殿に合祀された。
 旧地は、法性寺の南に「塚本社跡」として残されている。
◆藤・藤森 藤森神社と呼ばれたのは、室町時代以降のことという。かつて、一帯には藤の木が繁茂し、遠方からも藤が見えた。あたかも「藤の森」のようであり、この名が付けられたともいう。「むらさきの雲とぞよそにみへつる木高き藤の森にそ有ける」(小侍従)など和歌、俳句にも藤森、藤が多く詠われている。
 藤は、『万葉集』ではホトトギスとともに詠まれた。平安時代には、屏風絵の題材として描かれ、歌合の歌題としては松と対になり多く詠われた。旺盛な繁殖力、芳香、花弁の紫色は高貴な色として愛された。繁栄の象徴として家紋にも多く使用される。『源氏物語』で、藤は貴族の庭園にある光景として描かれる。『枕草子』にも「めでたきもの」として、松とともに挙げる。鎌倉時代には、阿弥陀如来の来迎を暗示する紫雲(往生雲)の意味も含まれるようになる。
 「藤」は、関係深い伏見稲荷大社の社地「藤尾」の藤尾社(藤野井社)に由来するともいう。稲荷社は、山上の社殿が火災焼失し、室町時代中期、1438年に現在の藤尾山に遷された。この地には、すでに藤尾社が鎮座していたため、藤尾社は現在地の深草・藤森の地(藤森神社)に遷されたという。(『稲荷事実考証』)。藤尾社は、奈良時代、神護景雲年間(767-769)の創建とされ、天皇塚と呼ばれ舎人親王陵墓との伝承がある。
 ほかにも、ふぢ(藤)は経津(ふつ)、経道(ふちみ)よりの転訛であり、「人が住み通ったところ」の意味ともいう。森は山、村を意味する。また、川、池の淵(ふち)の森が藤森になったともいう。地名の藤森は、鎌倉時代末『とはずがたり』巻2・5に「藤の森」とあり、すでに定着していたという。
 藤の花は神を招く依り代とされ、藤森に在る神を祀る地として藤森神社が建てられたともいう。
◆摂末社  ◈末社・藤森稲荷社がある。
  ◈摂社・八幡宮社は祭神・応神天皇(おうじんてんのう)を祀る。
 ◈祖霊社は、藤森神社に功労、功績を残した人々の神霊を祀る。
 ◈七宮社には蔵王社、広田社、諏訪社、厳島社、住吉社、熊野社、天満社がある。
  ◈摂社・大将軍社は祭神・磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀る。方除けの神として崇敬を集める
  ◈末社・霊験天満宮(天満宮社)は祭神・菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る。
◆大将軍社 摂社「大将軍社」は、祭神・磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀る。
 大将軍はかつて古代中国からもたらされた。日本の陰陽道では、金星(太白星)に関連する星神とされ、四方を司る神とされた。大将軍は3年ごとに移動するとされ、12年で一巡し四方を正す。その間、その方角で事を行うと「三年塞がり」と呼ばれた。凶になると怖れられた祟り神であり、諸事が忌まれた。ただ、遊行日が定められており、その間は凶事が回避されるといわれた。
 平安京には、都の四方に守護神の大将軍神社が置かれている。東は東三条大将軍社(大将軍神社)、西は大将軍八神社、南は藤森神社境内の大将軍社、北は今宮神社境内の大将軍社、あるいは西賀茂大将軍神社をいう。
 江戸時代以前には大徳寺門前にもあり、今宮神社に遷されたともいう。異説もある。また、かつて祇園社境内にもあったともいう。以後、大将軍信仰は全国的に広まる。平安時代中期-鎌倉時代に盛んになり、天皇から庶民にいたる信仰を集めた。
◆藤森七福神 本殿の東に、藤森七福神(寿老人、大黒天、恵比須、毘沙門天、布袋、弁財天、福禄寿)が祀られている。江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)前後には、藤森祭で七福神の行列が行われていた。
 鎮座1800年祭に行列の復活を祈念し、氏子総代により奉納された。
◆塚  ◈「御旗塚」は、本殿の東にある。当社発祥の地とされる。平安時代前期、794年に、第50代・桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われた。
 神宮皇后が新羅に攻め入った時に、新羅凱旋の兵器を納め、「纛旗(とおき、軍旗の中で最も大きいもの)」を埋めた(立てた)場所ともいう。
 また、「旗」は秦氏に通じ、「秦塚(はたづか)」ともいう。
 植えられているイチイガシは「いちのきさん」と呼ばれ、腰痛除守のご利益があり、新撰組組長・近藤勇も祈願し治したという。 現在は、塚上には、古株が祀られている。
  ◈「蒙古塚(もうこづか)」はかつて7つの塚があり、「七ツ塚」ともいわれた。 伝承では蒙古兵の首塚、神宮皇后が朝鮮より凱旋し、戦利品の兵器を納めた場所ともいう。
◆かへし石 神宝殿の前に、「かへし石(力石)」といわれる三角形の3石(240kg、128kg、96kg)が置かれている。
 かつて、京都所司代の巡検の際に、神人が拝殿から鳥居まで石を転がす行事があったという。また、祭礼の際に、人々が力試しにこの石を抱き上げたともいう。
◆神鎧像 本殿の東側に神鎧像が立つ。藤森祭に武者行列として参加する朝渡・皇馬・拂殿の武者姿を表している。
 なお、端午の節句に飾る武者人形には、藤森の神が宿るという。
歌碑 絵馬舎近くの藤棚下に、小侍従(こじじゅう)の歌碑、「むらさきの雲とよそよにみへつるは木高き藤の森にそ有ける」が立つ。
 歌に藤森の地名が入っており、かつてこの地に藤の叢林があったと見られている。
◆石川五右衛門 手水舎の水鉢の台石は、安土・桃山時代の大盗賊・石川五右衛門(?-1594)が、宇治浮島の十三重の塔の第9層を持ってきたものという。
伏見義民 境内に「焼塩屋権兵衛顕彰碑」が立つ。権兵衛は深草出身で、幕府に直訴した7人の天明の伏見義民(伏見義民一揆)の一人だった。
 江戸時代中期、1785年に、伏見奉行・小堀政方(まさみち、1742-1803)は賄賂や遊興により、7年間で10万両の御用金で私腹を肥やした。奉行所が着船や船客から石銭を取り上げていたことに端を発し、人足の組頭、町年寄が取りやめの沙汰を申し出る。
 町年寄の文殊九助(刃物鍛治)、丸屋九兵衛(農業)、麹屋伝兵衛(麺製造業)、伏見屋清左衛門(塩屋)、柴屋伊兵衛(薪炭商)、板屋市右衛門(製材業)、焼塩屋権兵衛(器製造業)ら7人は、江戸幕府・松平伯耆守に直訴した。自らの死を覚悟したものだったという。願書は却下になり、告発した7人は投獄される。
 小堀は伏見奉行を罷免され、領地没収、大久保加賀守へのお預け、お家断絶になる。7人に対して、田沼意次に代わり老中首座になった松平定信が赦免を申し渡した。だが、時遅く、全員が病死や牢獄死していた。
◆新撰組 南門(正門)の石造鳥居に、現在は社号額が掛からない。かつて、江戸時代、第108代・後水尾天皇(1596-1680)筆の神額「藤森大明神」が掲げられていた。なお、西門には現在も「藤森神社」の額が掲げられている。
 鳥居前の街道は西国大名の参勤交代の道筋に当たっていた。社前を通過する際に大名は、駕篭から一度降り、この額に拝礼し槍は倒して進んだという。
 幕末の動乱期に、新撰組隊長・近藤勇(1834-1868)は、このように悠長なことでは時代に対応できないとして額を外させたという。
 なお、近藤は腰痛持ちでもあったらしく、藤森神社旗塚にあしげく通い、治癒祈願わしていたともいう。境内の南西に近藤遭難の地があり、御陵衛士残党に狙撃された地という。
◆伏見城遺構 境内の南、西の参道入口両側の石垣は、伏見城取り壊しの際に、城壁の一部を奉納されたという。
 石には、伏見城城壁建造時に寄進した大名の印が一部に刻まれている。
◆旧陸軍  境内に「京都歩兵聯(連)隊跡の碑」が立つ。現代、1968年に、京都歩兵連隊跡記念碑建設会による。
 第二次世界大戦以前には、現在も名の残る師団街道を挟み、周辺には旧陸軍の施設が集中していた。境内東、現在の京都教育大学の敷地には歩兵第9連隊本部、さらにその北に陸軍病院、砲兵隊、騎兵連隊、名神高速道路の北に第16師団司令部(現在の聖母女学院)、師団通西には、北から京都兵器廠、京都練兵場、輜銃隊(しじゅうたい、輸送を行う雑卒)などが置かれていた。
 藤の森神社東側には、50年にわたり郷土歩兵連隊が駐屯し、10万をこえる将兵の置かれた深草兵営があった。
 歩兵第9連隊は近代、1874年に大津で創設され、これを母隊として、1896年に歩兵第38連隊を編成し、1897年7月、この地に駐屯した。1925年5月の軍制改革により、歩兵第38連隊は奈良へ移駐し、歩兵第9連隊の主力がここに駐屯した。歩兵第9・第38連隊は、日露戦争(1904-1905)に参戦する。第4師団に属し、満洲の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参戦した。
 1931年の満洲事変では、京都第16師団に属し、北満の警備に従事する。日中戦争(1937-1945)では、北支・中支に転戦し、南京城陥落、徐州、長駆大別山、武漢攻略戦に転戦した。
 歩兵第9連隊は、太平洋戦争(1941-1945)では、フィリピン島、バターン半島、マニラへ侵攻した。だが、1944年12月8日、レイテ島守備戦で米軍主力の反攻により壊滅した。
 歩兵第109連隊は、近代、1928年にこの地で編成され、中支、揚子江中流地域の警備、湘江・芷江(しこう)に転戦し帰還した。
 太平洋戦争(1941-1945)では、この地に置かれた通称中部第37部隊のうち、インド、インパールに進攻した歩兵第60連隊(祭)、ビルマに侵攻した歩兵第128連隊(安)、沖縄線の歩兵第63旅団(石)、ミンダナオ島の独立守備歩兵第35大隊(幸)、本土防衛の護京・比叡・山城諸兵団の歩兵連隊などがある。
◆不二の水 
本殿の東に岩間から湧水する「不二の水」は、「二つとないおいしい水」の意味という。地下100mより湧く。
 武運長久、学問向上、勝運を授ける水という。 
◆樹木・アジサイ ◈クスノキ、クロガネモチ、狛犬横のケヤキがある。絵馬堂前にムクノキ、西門近くにイチョウ、カヤなどがある。
 ◈ハクショウ(三鈷の松)は、マツ科の高木であり、中国大陸に産する。20年ぐらいの幹で樹皮が剥げ、白い樹脂粉を分泌し帯青白色の斑になる。葉は長さ5-10cmあり、4葉に枝分かれしている。3葉、2葉もある。「白皮松」「白骨松」とも称され、中国では宮殿などに植えられた。近代、1935年頃に、京都16師団長就任記念に寄進された。朝鮮産という。
 ◈アジサイは第1紫陽花が苑南門から参道左側に、第2苑は、本殿の北側に裏に広がる。3500株が植栽され、延べ1500坪(4959㎡)が広がる。紫陽花祭(月15日-7月上旬)が開かれる。
◆ホタル 一帯は、京都市指定文化財環境保全地区になっている。
 境内の紫陽花苑内の小川では、地元のNPOにより、ホタル復活の計画が進められている。かつて稲荷山などに多くのホタルが生息していたが、近年は見られなくなったという。
◆京都十六社朱印めぐり 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)は、現代、1976年に始まり当初は14社だった。古社16社を巡拝し、各社より朱印を授かる。すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるという。専用の朱印帳で期間中に全てのご朱印を受けると干支置物が授けられる。
◆アニメ ◈アニメーション『刀剣乱舞-花丸-(第1期)』『続 刀剣乱舞-花丸-(第2期)』(原作・DMM GAMES/Nitroplu、監督・直谷たかし(第1期)・越田知明(第2期)、制作・動画工房、第1期2016年10月-12月、第2期2018年1月-3月、第1期全12話、第2期全12話)の舞台になった。作品は2006年にゲームから始まり、その後ミュージカル、舞台化、アニメ、映画化された。
◆宝物殿 宝物殿には、宮司が集めた武具百数十点が収められ、馬の博物館も併設されている。
 かつて刀剣の「鶴丸国永」が奉納されていた。宝物殿にその写し、「三日月宗近」の写しが展示されている。
◆藤森祭 ◈祭礼・藤森祭(深草祭・春季大祭)は、御出祭(おいでさい)(5月1日)、神輿神霊遷(みこしみたまうつし)(5月3日)、藤森祭(5月5日)と続く。
 祭礼の創始は、平安時代前期、貞観年間(859-876)/860年/863年ともいわれる。第56代・清和天皇(850-881)の宝祚に際し、奉幣の神事が行われたことに由来するという。公卿・藤原良房(804-872)が清和天皇の勅により行った「深草貞観の祭」が始まりという。菖蒲の節句発祥の祭といわれる。菖蒲は「尚武」、「勝負」に通じ、勝運を呼ぶ神として信仰を集めてきた。
 室町時代には、衛門府出仕の武官、江戸時代には、伏見奉行所の衛士警護の武士、江戸時代後期には氏子により執り行われた。
 朝廷からは毎年、撫物(鎮魂の供え物)として、白銀5枚の下賜があった。江戸時代には、幕府により太刀一振、馬一頭が献上される。九条家は弓矢・鎧を奉納していた。
 ◈藤森祭の行列は1列に朝渡(あさわたり、祭神・早良親王が東征した際の行列の扮装)、高張提灯、榊、台傘、立傘、挟箱、槍、大鳥毛、歩武者、弓槍、三道具、歩武者、乗馬武者、稚児、旗、五色纏、御弓(おゆみ、公家武家民の栄昌の行列)、遠見、三道具、御鎧、大太刀、小太刀、御兜持(おかぶともち)、長刀などが続く。2列に皇馬(こんま)の列(清和天皇による深草祭の行列の扮装)、払殿(ほって、祭神神宮皇后の纛旗を掲げての新羅凱旋の扮装)などが続き、最後に3基の神輿である第1御輿(宮本下ノ郷)、第2御輿(深草郷)、第3御輿(東福寺上ノ郷)になる。
 現在の神輿3基は、江戸時代の氏子が財力を注ぎ、京都随一の豪華な装飾を施していることで知られる。当社の旧地は、伏見稲荷大社の末社・藤尾社になる。藤森祭では、当社神輿3基は、氏子町内を巡行し、瀧尾神社で休憩する。その後、伏見大社楼門前に渡御し、藤尾社に寄せられる。2基は神饗があり、当社に還御する。この時、氏子は「土地返しや、土地返しや」と囃し立て、旧社地の返還を求める慣わしがある。伏見稲荷大社の神官は、これに「神様はお留守、お留守」と応えた。
 ◈駈馬(かけうま)の神事は御霊会の神事であり、怨霊を鎮める意味があるとみられている。武術である駈馬・走馬などのが早い段階で祭事に取り入れられた。藤森祭は武術としての馬術がある祭りの原型といわれる。
 甲冑・鎧による武者行列は、奈良時代、781年に祭神・早良親王(750-785)が、陸奥の反乱の征討将軍の勅を受け、藤森神社に祈誓出陣した際の再現ともいわれる。出陣の日が5月5日であり、祭礼の日になったという。また、蒙古征討(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)行装を表すともいう。早良親王が蒙古征伐の際に、当社に祈願し敵を滅ぼしたという故事?に因むともいう。
 駈馬の神事は、かつて網の襦袢を着て、頭に竹の皮を帽子を被った。表参道から伏見街道など境内外で繰り広げられていた。現在は境内の表参道を疾走する。7種の技がある。騎乗で伝達する「一字書き」、矢の中を駆ける「手綱潜り」、逆さになり落馬に見せかける「藤下がり」、逆立ちにより敵を嘲る「逆立ち・杉立ち」、前後逆に跨り敵の動静を見る「逆乗り・地蔵」、矢を払い駆ける「矢払い」、馬に姿を隠す「横乗り」など曲馬(くせうま)の技が披露される。
 現代、1983年に「藤森神社駈馬」として京都市登録「無形民俗財」に指定されている。
 ◈剣鉾は、瀧尾神社が奉仕し、現代、2003年頃から東福寺郷の神幸列先頭を務めている。東福寺郷には、瀧尾神社が祀られ、近世(安土・桃山時代-江戸時代)には藤森神社の御旅所が置かれたという。
 鉾差しは、伏見稲荷大社表参道・東福寺中門前・東大路泉涌寺交差点で行われ、その後、剣鉾は神幸列から離れて瀧尾神社に戻る。
◆年間行事 歳旦祭(0時-2時に祝い箸、御神酒接待、13時より振る舞い餅、藤森太鼓奉納)(1月1日)、二日祭(1月2日)、元始祭(1月3日)、鏡開(1月4日)、成人祭(成人の日)、御木始(おきはじめ)(1月16日)・御弓始(おゆみはじめ)(1月16日)、 節分祭並追儺式(10時、甘酒接待。18時、藤森太鼓奉納、18時半、雅楽・舞踏奉納、20時、追儺式・豆撒き)(2月節分)、末社・藤森稲荷初午祭(2月初午)、紀元祭(2月11日)、祈年祭(2月17日)、 雛祭(3月3日)、春分祭(春分の日)、是斎定の神事(これいみさだめのしんじ)(3月31日)、 昭和の日祭(4月29日)、御出祭(おいでさい)(5月1日)、神輿神霊遷(みこしみたまうつし)(5月3日)、宵宮祭・節句祭・みどりの日祭(5月4日)、藤森祭(5月5日)、親王祭(5月20日)、紫陽花祭(紫陽花苑でのアジサイ観賞、献花神事、蹴鞠、雅楽奉納、紫陽花娘の抹茶接待)(6月15日-7月中旬までの1カ月間)、夏越大祓式(なごしのおおはらいしき)(茅の輪神事)(6月30日)、海の日祭(7月16日)、末社・天満宮祭(7月25日)、七夕祭(8月7日)、大日如来祭(8月27日)、敬老祭(敬老の日)、摂社・八幡宮祭(9月15日)、秋分祭・祖霊社祭(秋分の日)、体育の日祭(体育の日)、摂社・大将軍祭(10月28日)、御供祭(ごくうさい)(11月1日)、秋季大祭並火焚祭(11月5日)、末社・藤森稲荷火焚祭(11月8日)、舎人親王祭(11月14日)、シンシン祭(11月第2か第3月曜日 )、新嘗祭(にいなめさい)(11月23日)、天皇誕生祭(12月23日)。
 月次祭(毎月1日・5日・15日)、 願駈祭(がんかけさい)(毎月5日 )。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 ウェブサイト「藤森神社」、藤森神社各種駒札、『京都・山城寺院神社大事典』、『伏見の歴史と文化』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都古社寺辞典』、『新版 京・伏見 歴史の旅』、『京都史跡事典』、『伏見学ことはじめ』、『古代地名を歩くⅡ』、『京都の地名検証 3』、『京都の寺社505を歩く 下』、『剣鉾まつり』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都のご利益手帖』、『京のしあわせめぐり55』、『京の福神めぐり』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 京都を歩く 41 伏見・大山崎』、ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、ウェブサイト「コトバンク」


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藤森神社 〒612-0864 京都市伏見区深草鳥居崎町609  075-641-1045
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