近藤勇遭難の地 (京都市伏見区)  
The Assassination of Kondo-lsami, location
近藤勇遭難の地 近藤勇遭難の地
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「この付近 近藤勇遭難の地」の石標




副碑

 墨染通に面して「この付近 近藤勇遭難の地(このふきん-こんどう-いさみ-そうなんのち)」の石標、副碑が立てられている。
 幕末に、この地で新撰組組長・近藤勇が狙撃され負傷したという。
◆歴史年表 江戸時代後期、1867年、12月18日、近藤勇は墨染通付近(藤森神社付近、丹波橋付近とも)で、御陵衛士残党に報復のため狙撃され負傷したという。
 現代、2009年、12月、伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会により石標、副碑が立てられた。
◆近藤勇 江戸時代後期の新撰組局長・近藤勇(こんどう-いさみ、1834-1868)。本姓は宮川、幼名は勝太、名は昌宜(まさよし)、変名は大久保大和など。武蔵国(東京都調布市)の生まれ。父は豪農・宮川久次郎、母・えいの3男。1848年、天然理心流3世・近藤周助の試衛館に学び、4世を襲名する。1849年、周助の実家・島崎家養子になり、1860年、近藤勇藤原昌宜と称した。1862年、将軍・徳川家茂の上洛に先んじ、門下の土方歳三、沖田総司、山南啓助らを引き連れ、清河八郎らの浪士組に加わる。1863年、上洛の浪士組先番宿割役になり、一時は三番組小頭を務めた。尊王攘夷派の清河らに従わず、京都に残留し壬生浪士組局長になる。その後、芹沢鴨らと京都守護職支配下に属し、新撰組を組織した。芹沢の粛清後、新撰組局長に就く。1864年、池田屋事件で尊攘派志士を襲撃した。1865年、長州訊問使・永井主水正尚志に随行した。1867年、新撰組隊士が幕府召しかかえになる。近藤は幕臣になり見廻組与頭格に任ぜられた。西軍武力討幕蜂起の諜報を京都守護職に報じ、幕府に大政奉還を決意させる一要因になる。油小路事件で伊東甲子太郎ら新撰組を脱退した御陵衛士を粛清した。御陵衛士により、伏見街道墨染辺りで、報復狙撃され重傷を負う。1868年、鳥羽・伏見の戦いは副長・土方歳三が指揮し敗れる。近藤は江戸に移り、甲陽鎮撫隊を組織し隊長として官軍と戦う。甲州勝沼で敗走し、下総流山で官軍に自ら投降した。板橋で斬首され、首は同所、三条河原、大坂で晒されたという。35歳。
◆阿部十郎 江戸時代後期-近代の新撰組隊士・御陵衛士・阿部十郎(あべ -じゅうろう、1837-1907)。諱は隆明。別姓は高野、維新後は阿部隆明など。出羽国(山形県・秋田県)生まれ。百姓・阿部多郎兵衛とヨネの次男。出羽国亀田藩の高野林太郎の養子になり武士になる。後に脱藩し、1863年以前、阿部慎蔵の名前で壬生浪士組(後の新撰組)に入隊し、伍長・砲術師範などを勤めた。後、脱走し水戸藩士・吉成勇太郎に匿われた。薩摩藩士・中村半次郎と知り合う。後、高野十郎と名乗り、大坂の谷万太郎の下で剣術を学ぶ。1865年、谷と共に大坂ぜんざい屋事件などで活躍した。1867年、新撰組から分離し、伊東甲子太郎らと御陵衛士を結成する。油小路事件では難を逃れ、薩摩藩邸に逃げ込む。御陵衛士残党らと伏見墨染で近藤勇を襲撃し負傷させた。1868年、鳥羽・伏見の戦いなどに参加し、後に赤報隊に加わる。弾正台、開拓使、北海道庁に出仕した。退官後、札幌でリンゴ栽培の果樹園を営む。71歳。
◆篠原泰之進 江戸時代後期-近代の新撰組隊士・御陵衛士・志士・篠原泰之進(しのはら -たいのしん、1828 -1911)。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内など。筑後国(福岡県)生まれ。父は豪農・石工業者・篠原元助の長男。幼時より武芸を好み、久留米藩・森兵右衛門、種田宝蔵院流槍術師範に槍術・剣術を学ぶ。1845年、良移心倒流柔術師範・下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。1852年、藩士・小倉一之進に仕えた。後、家老・有馬右近の中間になる。1858年、有馬の江戸藩邸勤番に伴い上京し、北辰一刀流を学ぶ。1860年、桜田門外の変後、藩邸を脱出し水戸に滞在する。1861年、江戸の揚心流柔術師範・戸塚彦介のもとに潜伏し、旗本・講武所柔術師範・窪田鎮勝のもとに滞在し攘夷論の影響を受ける。1862年、大阪・京都で尊攘志士と交わり、諸国を巡る。1863年、神奈川奉行所定番役頭取取締・窪田鎮勝に従い奉行所に雇われる。横浜の外国人居留地警備に当たり、服部武雄、加納鷲雄らと交遊を深める。イギリス人3人による税関乱入に対し、暴行事件を起こし江戸に潜伏する。この頃、伊東甲子太郎と交遊を深める。1864年、伊東、三木三郎らと上京した。1865年、新撰組に加わり、諸士調役兼監察・柔術師範を務める。近藤勇、伊東に重用され、1866年、長州征伐後の訊問使の一人として広島に下向した。1867年、御陵衛士結成に伴い新撰組を離脱した。油小路事件後、薩摩藩邸に匿われた。事件の報復のために、御陵衛士らと伏見街道で近藤を襲撃する。1868年、鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の一員として戦う。戊辰戦争で赤報隊に加わり投獄される。後、釈放され、会津戦争、北越戦争に参戦した。維新後、戦功により永世士族の身分になり、1869年、弾正台少巡察、1872年、大蔵省造幣使の監察役を任じられた。後、実業家になる。晩年、キリスト教に入信した。手記『秦林親日記』に近藤を撃ったと記した。84歳。青山霊園(東京)に墓がある。
◆襲撃事件 幕末の1867年12月18日午後に、新撰組隊長・近藤勇は、陣のある伏見奉行所より二条城に赴く。京都町奉行所若年寄・永井尚志(1816-1891)との軍議のためだった。公卿らに薩長・尊王攘夷派の排除を訴えたという。
 近藤は帰り道に護衛20人(4-5人とも)を伴っていた。島田魁、横倉甚五郎、石井清之進、馬丁の久吉らだったと見られている。御陵衛士残党の阿倍十郎、佐原太郎、内海次郎の3人は、京都寺町で買い物をしていた。近藤らの姿を偶々見かけ、油小路事件の報復を思い立つ。
 阿部らは伏見薩摩藩邸に戻ると、小銃2丁を借り受け、藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助、富山弥屋兵衛ら10人ほどで近藤らを待ち伏せすることにした。その場所については、伏見街道が屈曲する墨染通付近、新撰組関連の文献では伏見街道の藤森神社付近ともいわれる。実際には、藤森神社の南方1.5kmの京町通(旧伏見街道)の丹波橋筋付近ともいう。
 阿倍、富山が空き家に潜み銃を構えた。富山の放った弾が馬上の近藤に当たった。近藤は右肩に銃創を負う。ただ、致命傷には至らず、咄嗟に島田が馬の尻を叩いて走らせ伏見奉行所(伏見城とも)に逃げ込んだ。阿部らは石井、久吉を倒したものの、双方ともそれ以上の戦闘には至らなかった。
 近藤は大坂城の幕府典医・松本良順の治療を受けている。以後、近藤は沖田総司とともに城で療養した。その後、新撰組指揮は副隊長・土方歳三が執る。1868年の鳥羽・伏見の戦いに、静養の身の近藤は参戦できなかった。
◆墨染通 墨染の地名は、墨染寺(ぼくせんじ)の境内にある墨染桜に因んでいる。墨染付近は、3街道の分岐点にあたり、街道の宿場町として要衝地だった。京都へ通じる伏見街道、大津へ向かう大津街道、八科峠を越え六地蔵、宇治に向かう道があった。
 江戸時代に参勤交代の西国大名行列は、この付近の墨染から東の藤森神社の南鳥居前を進み、西寺町、谷口町を経て、山科の勧修寺前、山科川を渡り、小野随心院を北に折れ、追分、大津に向かう道が定められていた。街道は人馬往来が激しく、土産物屋では伏見人形、深草団扇、深草焼塩、伏見鋸などが売られていた。
 藤森神社の鳥居に現在は額が掛からない。かつて、第108代・後水尾天皇筆の神額「藤森大明神」が掲げられていた。鳥居前の道は大名の参勤交代の道筋に当たった。このため、社前を通る際に大名は、駕篭から降り額に拝礼し、槍は倒して進んだという。幕末の動乱期に、新撰組隊長・近藤勇は、そのように悠長なことでは時代に対応できないとして額を外させたという。近藤は腰痛持ちでもあり、当社の旗塚にも参詣していたという。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「副碑-伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会」、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『新選組高台寺党』、『新選組隊士録』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 近藤勇遭難の地 〒612-8432 京都市伏見区深草柴田屋敷町6-7
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