東海庵 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Tokai-an Temple
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方丈玄関


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山門


山門


山門


山門


鐘楼


鬼瓦


延段





庫裏



本堂(方丈)



方丈前庭「白露地の庭」



方丈前庭「白露地の庭」、棗形の手水鉢



方丈前庭「白露地の庭」、手前より敷瓦(磚)、縁石、溝石(雨落ち)、縁石、砂紋



方丈前庭「白露地の庭」



方丈前庭「白露地の庭」、築地塀



方丈前庭「白露地の庭」、塀は右(南方向)に向けて緩やかに傾斜している。塀だけではなく庭面も同様に傾斜している。遠近法の利用とともに、庭面の排水の意味もある。



方丈前庭「白露地の庭」、砂紋



濡縁の飾り金具


書院西庭「東海一連の庭」



書院西庭「東海一連の庭」、露地風(左)、三尊石組(中央)、神仙蓬莱様式(右)の3つの庭が組み合わされているという。


書院西庭「東海一連の庭」、三尊石


書院西庭「東海一連の庭」、苔地中の水分石
 妙心寺の境内中央付近に塔頭の一つ、東海庵(とうかいあん)が建つ。妙心寺四派本庵の一つ。
 臨済宗妙心寺派。 
◆歴史年表 室町時代、1484年、雪江宗深により天授庵の北、玉鳳院西の地を与えられた妙心寺11世・悟渓宗頓(ごけい そうとん)が開山になり建立された。美濃加茂城主・斉藤越前守利国の室・利貞尼(りていに)が宗頓に請じた。「東海庵」と称し、2世・授翁宗弼(じゅおう そうひつ)の塔所になり、その護持の任に就く。以後、この地が妙心寺四派本庵の一つ東海派の本庵になる。
 1500年、宗頓の没後、玉浦宗珉(ぎょうくほ そうみん)が利貞禅尼の援助により整備する。利貞禅尼は宗頓の塔所を建立し、開基になる。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、武将・石川一光(東海庵殿)が現在の規模に拡張する。
 1599年、武将・石川一宗(頼明)は、兄・一光の17回忌を営み、中興した。
 江戸時代、1814年、東睦宗補(とうぼく そうほ)により書院西庭「東海一連の庭」が作庭された。
◆悟渓宗頓 室町時代の臨済宗の僧・悟渓宗頓(ごけい そうとん、1416-1500)。尾張国に生まれる。17、18歳で犬山・瑞泉寺の日峰の下で禅の修行、その後、妙心寺・日峰、汾陽寺・雲谷玄祥(うんこく  げんしょう)、愚渓寺・義天玄詔(ぎてん げんしょう)、伊勢の大樹寺・桃隠玄朔(とういん げんさく )に付く。1464年、龍安寺・雪江宗深(せっこう そうしん)の法を嗣ぎ、悟渓の名を与えられる。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により帰郷する。瑞泉寺に臥龍庵を営む。1468年、守護代・斎藤妙椿(利藤)の帰依により、美濃に瑞龍寺を建立し開山(勧請開山は雪江)になる。1471年、大徳寺を経て、1481年、妙心寺11世住職になり復興の基礎を築く。草庵・東海庵を結び東海派の発祥になる。瑞龍寺に戻り、尾張余野の徳林寺開山になる。1497年、朝廷より生前の諡号・大興心宗禅師を受け、妙心寺初例になる。瑞龍寺・済北院で死去した。著作に『虎穴録』。
 妙心寺東海派の祖。1848年、350回遠忌の際に第121代・孝明天皇より仏徳広通国師の諡号を受ける。天縦宗受(てんしょう そうじゅ)など八哲と呼ばれた濃尾地方の弟子がいる。
◆利貞尼 室町時代の女性・利貞尼(りていに、1455?-1536/1537)。関白・一条兼良の娘・ 細姫(ほそひめ)。野間入道の娘(甘露寺親長の養女)とも。美濃の豪族・斎藤利国の妻になり、夫・利国の戦死後、妙心寺の悟渓宗頓の弟子につき尼になる。1509年、遺領、土地を妙心寺に寄進、境内を3倍の広さに拡大する。山内に、大珠院、聖沢院、天授院、東海庵を寄進した。
◆石川一光 室町時代-安土・桃山時代の武将・石川一光(いしかわ かずみつ、?-1583)。美濃加賀島城主・石川家光の3男。羽柴(豊臣)秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いで一番槍になり、柴田勝家軍と戦い討死した。賤ヶ岳七本槍と同格の功とされ、弟・頼明に1000石が与えられたという。
◆石川一宗 安土・桃山時代の武将・石川一宗(?-1600)。頼明。1583年、賤ヶ岳の戦いでの兄・兵助一光の戦死後、その戦功により羽柴秀吉に小姓として取り立てられた。1598年、播磨国、丹後国で加増。1600年、関ヶ原の戦いに西軍として加わり、伏見城の戦い、安濃津城攻め、大津城の戦いに従軍した。だが、西軍が敗れ、井伊直政に降伏、切腹になり、首は三条河原に晒された。
◆片山尚景 江戸時代前期-中期の画家・片山尚景(かたやま しょうけい、1628-1717) 。狩野尚信に学ぶ。肥前・平戸藩藩主・松浦氏に招かれた。京都に戻り、1709年、御所の障壁画を描く。法橋に叙せられた。晩年は、平戸に住んだ。建仁寺・両足院、大徳寺・正受院、妙心寺・小方丈、霊雲院にも作品がある。
◆東睦宗補 江戸時代後期の臨済宗の僧・東睦宗補(とうぼく そうほ、?-1828)。豊後杵築の養徳寺で出家した。江戸の庭師・石龍(平石竜)より作庭を学び、東海庵の庭を手掛けた。妙心寺・桂春院に移る。島本鳳泉に篆刻を習う。1814年、紀伊田辺・海蔵寺住持。『築山染指録』を著わす。
◆木像・仏像 方丈の室中の間中央に開山「悟渓宗頓の木像」を安置する。
 その右に歴代の位牌、左に「観音菩薩像」、第121代・「孝明天皇(1831-1867)木像」を安置する。
◆建築 ◈「方丈(本堂)」は江戸時代、1675年以前に、また1661年-1671年に再建されたともいう。六室平面取り、室中正面に双折桟唐戸、室中と仏間の間に菱形模様の欄間がある。仏間内中央に亨堂がある。方丈に雪江宗深筆の扁額「東海庵」が掛かる。桁行9間半(18.9m)、梁行6間半(12.7m)、一重、入母屋造、桟瓦葺。
 ◈「書院」は、江戸時代、1675年以前に、また1661年-1671年に再建されたともいう。
 ◈「庫裏」は江戸時代初期建立と見られている。吹き抜けの天井、入り口土間に竈の焚口がある。桁行13.8m、梁行13.1m、一重、切妻造、妻入、桟瓦葺。
◆四派四本庵 室町時代、塔頭の龍泉庵、東海庵に加え、聖澤院、霊雲院が創建された。
 雪江宗深の法嗣から四派の、景川宗隆(けいせん そうりゅう、龍泉派)、悟渓宗頓(ごけい そうとん、東海派)、特芳禅傑(とくほう ぜんけつ、霊雲派)、東陽英朝(とうよう えいちょう、聖澤派)が出る。四本庵はそれぞれ龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院を拠点にした。以後、「四派四本庵(しはしほんあん)」による運営体制が確立した。この四派により、一山の全権が掌握され、住持も決定された。
 師・雪江は4人に1期3年で順次住持を務めさせた。雪江は4人を評し、「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした。
 東海派は妙心寺派のなかでも格式高く、東海、関東を中心に勢力を伸ばした。妙心寺派末寺3500あまりの半数、最大を占めている。派下には独秀乾才、仁川詔喜、一宙東黙、海山元珠、海南、単伝士印、玉浦宗珉などを輩出した。
◆庭 方丈前庭「白露地の庭」、書院西庭「東海一連の庭」、方丈坪庭の3つの庭がある。いずれも江戸時代、1814年、紀州田辺の海蔵寺15世・東睦宗補の作庭によるという。
 ◈ 方丈南庭の枯山水庭園庭園は、「白露地の庭」と呼ばれている。築地塀に囲まれた庭面一面に一木一草もない。ただ、白砂のみが敷かれ、東西方向に直線の砂紋(流水紋)が引かれている。ここでは、儀式のための空間という、方丈南庭の本来の姿を留めている。
 左手、東端手前の雨落の中に、大型の棗形(なつめがた)手水鉢が一つ置かれ、水を湛えている。実用の意味はないという。
 借景として庭の右手(南西)方向に仏堂、法堂の伽藍屋根が取り入れられている。庭面は南側にわずかに傾斜し、築地塀も南へ緩やかに傾斜して造られている。これらは、遠近法の手法により、庭面を広く見せるための工夫という。庭面の排水の意味もある。
 ◈ 書院西庭(国の史跡、名勝)は座観式枯山水庭園になる。江戸時代、1814年、文化年間(1804-1818)とも、東睦宗補の作庭による。(『筑山染指録』)。「東海一連の庭」とは、中国・臨済宗松源派の祖・松源崇岳に連なる松源禅の系譜を意味しているという。
 庭面は南北方向にある長方形で、その中央付近に三尊石が立てられている。中央に不動石、左は日天石、右は月天石とされる。その手前、天平石の白雲石(玉座石、台座石)は水受石であり、右手下に小さな水分石がある。三尊石の左に龍門石、その手前に波切石(龍波石、波返石)が立てられ、ここでは枯滝組にもなっている。
 庭の北に築山が築かれ、三島とされている。北より瀛(えい)州島、方丈島、蓬莱島であり、神仙蓬莱の枯山水式という。それぞれの島に三本の松が植えられている。その手前に北より鶴石、平石の礼拝石(安居石)、亀頭尾石が置かれている。
 手前の濡縁直ぐには、自然石から切り出したという大きな一文字手水鉢が置かれている。
 ◈ 南の廊下付近に露地風の庭があり、茶室はないが苔地に飛石が続いている。南東角に春日型六角灯籠が立てられ、その傍に石橋の橋脚を再利用したという橋柱手水鉢、その周りに鞍馬石の丸石が敷き詰められ、さらに黒い丸石(鴨川石?)が敷かれている。近くに、火燃石(手桶居石)、礎石とみられる伽藍石がある。
 ◈ 「書院南庭」は、中庭とも呼ばれている。これも、東睦宗補の作庭によるとみられている。書院と方丈との間の中坪枯山水式庭園であり、東西方向の長方形の壺庭になっており、周囲を縁廊下が囲んでいる。四方正面の庭面は7坪(23.1㎡)ある。一面に白砂が敷かれ、大小7つの石が、ほぼ東西の直線上に配されている。
 石は7つだが、七五三石組の手法を踏襲している。七は二、五の成数であり、五は二、三の成数であることから、七つであっても七五三の数が含まれている。ただ、実際には3群あり、中央の要石の小石1石を挟んだ、大小3石の2群が対峙する形(点対象)の、三一三に並べられている。
 要石を中心として2群の石は均衡している。それぞれの石は四方を向き、要石より同心円の砂紋(波心)が水紋のように周囲に拡がる。これらの石と白砂とで小宇宙が表現されているという。また、中央の石は日本海を航行する舟と見立てて、左右に松源一流(松源派)、中国と日本の法脈の6人(松源崇岳、運庵普岩、虚堂智愚、大応<南浦紹明>、大灯<宗峰妙超>、関山慧玄)を配置しているともいう。また、本来は南の書院内より鑑賞するとされ、その際には西の小石1つが見えない。また、北側から見ても1石が隠れる。ここでは、6石だけを見せる一石隠し(隠し石)の手法が採られている。
 西の3石のうち中心の要石を軸として、その外の2つの石に反りが見られる。大きい石には内(左)に反りがあり、石は左回りに力を受け、圧が加わっているようにも見える。あるいは砂紋が左回りに渦潮のように回転しているともいう。庭の四方の回廊を右周りに廻りながら中央の要石に視点を置くと、周囲の砂紋が回転しているように見える。また、動きを止めると逆に石が回転しているように見えるともいう。
◆七五三配石 定型の「七五三配石」とは、陰陽五行思想では七五三の和である一五が、自然界を構成する象徴の数とされ、陰陽和合し生命を生む天地自然の法理とされる。
 石庭には二、五、五、三と並べられている。二とは地、三とは天地の和合、五とは天地の間に気が通じ万物生成のこと、七とは天地の間に気が通じて大地に物が萌芽することを表すものという。
 なお、五行説で七石は五石+二石の成数、五は三石+二石の生数、三石の組み合わせになる。この生数とは、事物の発生を象徴する一から五まで、成数とは事物の形成を象徴する六から十までをいう。
◆文化財 室町時代-安土・桃山時代の狩野元信(1476?-1559)の紙本水墨画「瀟湘八景図」4幅(重文)は、中国湖南省の景勝地を描いている。四季観も表現され、下方に「元信」の印が入る。
 江戸時代後期の「孝明天皇宸翰徽号(しんかんきごう)勅書」(重文)がある。
 元時代(1271-1368)の蔡山(さいざん)筆の絹本著色「十六羅漢図」(重文)は、背景の点景を省き、頭光を備えている。
 明時代(1368-1644)の陳子和(ちんしわ)の筆「花鳥図」(重文)。
 本堂、書院に障壁画、杉戸絵などが残る。狩野派ともいう。制作年代、作者など詳細は不明。
◆障壁画 書院に狩野派の片山尚景(かたやま なおかげ、1628- 1717)筆という「水墨山水図」24面がある。
 

*普段は非公開。
*建物の一部、室内の撮影は禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 10』『妙心寺史』『妙心寺 650年の歩み『昭和京都名所図会 4 洛西』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『妙心寺』『探訪 日本の庭 七』『京都秘蔵の庭』『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』『京都大事典』



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書院西庭「東海一連の庭」、橋柱手水鉢。

方丈坪庭、西側より見る。

方丈坪庭、南側(書院)より見る。

方丈坪庭、要石

方丈坪庭、西の3石のうちの2石。右の小石は書院内からは隠れる隠し石になっている。大きい石には内(左)に反りがあり、左側より石に圧が加わっているようにも見える。
 東海庵 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町61    075-462-4326
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