道元禅師示寂の地 (京都市下京区) 
place where Dogen died
道元禅師示寂の地 道元禅師示寂の地 
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「道元禅師遺蹟之地」の鞍馬石の顕彰碑、揮毫は永平寺76世・慧玉による。


石柱
 住宅街の一角に、鎌倉時代の僧・道元の終焉の地といわれる「道元禅師示寂の地(どうげんぜんし-じじゃく-の-ち)」の碑が立っている。示寂とは、高僧などが亡くなることをいう。
◆歴史年表 鎌倉時代、1252年、道元は永平寺で病になる。(『建撕記』『行業記』)
 1253年7月、道元の病状が悪化する。7月14日、道元は弟子・懐獎に住持職を譲る。8月5日、外護者・波多野義重の勧めにより、治療、療養のため弟子・懐奘を伴い、この地にあった俗弟子で医師・左金吾禅門覚念(さきんごぜんもん-かくねん)の屋敷(高辻西洞院)を訪れた。
 8月28日早朝、道元はこの邸で亡くなったという。同日、東山赤辻で荼毘に付される。
 9月6日、遺骨は懐奘により永平寺に持ち帰られた。
 9月10日、遺骨は永平寺に着く。
 9月12日、入涅槃の儀式を行い山内西北に埋葬された。
 室町時代,、1482年、この地に、浄土宗の永養寺が開かれた。
 1585年、羽柴秀吉の命により、永養寺は恵美須町(下京区)に移る。
 江戸時代、1637年、付近は永養寺町(ゑようし町)と呼ばれる。(『洛中絵図』)
 近代、1938年、京都史蹟会により石柱が建立される。
 現代、1978年、道路拡張工事に伴い、敷地が懐奘の七百回大遠忌報恩記念に購入整備され、顕彰碑が新たに建立された。
 1979年、碑が建立される。
◆道元 鎌倉時代前期-中期の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。俗姓は源氏、号は希玄(きげん)、道玄、字は仏法房、諡号は仏性伝東国師、承陽大師。京都の生まれ。父は内大臣・源(土御門)通親/通親の子・通具(みちとも)、母は太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くした。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺・良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。天台宗で、衆生は仏性を具えているのにもかかわらず、既に仏である者が修行し続ける理由が解けず、1214年、比叡山を下りる。園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより、1217年、臨済宗の建仁寺に移り、栄西(相見していないとも)、その高弟・明全に学び臨済の印可を受けた。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。1224年、育王山・広利寺、径山(きんざん)・万寿寺、天台山・万年寺などを歴訪した。1225年、明全が亡くなる。天童山で曹洞宗・長翁(天童)如浄(にょじょう)に師事し、曹洞禅を学び印可を受けた。1227年、如浄の法統を得て帰国する。1228年、建仁寺に入る。日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を著す。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、檀越・波多野義重の領地である越前の志比荘(しびのしょう)に逃れる。1244年、義重の請により、越前に大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向した。1252年、病になり、1253年、後事を弟子・孤雲懐奘(こうん-えじょう)に譲り、京都西洞院高辻の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。54歳。遺骸は東山・赤辻で荼毘に付され、遺骨は永平寺に埋葬された。
 日本曹洞宗の開祖。道元は、自己に本来具わる仏法は修行によって初めて現れ成就する(身心脱落)とした。無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐(しかんたざ)」などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 』95巻(1230-1252)を著した。門弟には、懐奘、詮慧(せんね)、僧海(そうかい)らがいる。
 1854年、第121代・孝明天皇より諡号の仏性伝東国師、1879年、第122代・明治天皇より承陽(じょうよう)大師を贈られた。
◆波多野義重 鎌倉時代中期の御家人・波多野義重(はたの-よししげ、?-1258?)。本名は宣政(信政)、通称は波多野五郎、法名は如是。波多野忠綱の子。相州(神奈川県)波多野に住した。1221年、承久の乱で北条時氏に従い、墨俣(すのまた)の戦いで矢を右目に受けて隻眼になる。乱後、北条武士、越前地頭、六波羅評定衆になり出雲守に任じた。道元の外護者になり、1243年、道元を所領の越前志比(しい)荘に招く。1244年、吉祥山・大仏寺(後の永平寺)建立を支援した。1247年、鶴岡八幡宮放生会で先陣随兵の筆頭を務めた。1251年、鎌倉由比浦で犬追物の検見の役、1552年、宗尊親王の鎌倉下向の際に供奉人を務めた。1253年、病に伏した道元を治療のために京都に戻した。
◆禅 前5世紀、現在のネパールの釈迦は、菩提樹の下での坐禅により悟りを得た。6世紀前半、南インドの達磨大師は、これを中国に伝える。平安時代、宋より栄西は臨済宗と看話禅を、鎌倉時代、道元は曹洞宗と黙照禅を日本に伝えた。江戸時代、明の隠元が来日し、黄檗宗を開いた。
 曹洞宗では、余念なく坐禅を組むことで悟りを開く、只管打座を重視した。
源氏物語 『源氏物語』第4帖「夕顔」巻で、光源氏は某院(なにがしのいん)に夕顔を誘う。「夕顔の宿」とは、西洞院大路の西、高辻小路北付近(永養寺町)ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・宗祖の旅 道元』、『京都 道元禅師を歩く』、『京都・山城寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『京都 歴史案内』、『京都の地名検証 3』、『紫式部と平安の都』、ウェブサイト「コトバンク」


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道元禅師示寂の地  〒600-8463  京都市下京区永養寺町,高辻通西洞院西入ル北側 
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