誕生寺 (京都市伏見区)
Tanjo-ji Temple
誕生寺  誕生寺
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「おろかなる 吾れは佛けにならずとも 衆生を渡す僧の身なれば」道元詠










本堂


本堂


少年期の道元像



鐘楼


豊川稲荷、祭神はだ枳尼真天、寺鎮守になる。身体健全の信仰がある。


ブッタガヤの仏石跡


道元禅師両親の墓



道元父・源(久我)通親の供養塔、1997年に復元。



道元母の藤原伊子の供養塔、もとになった宝篋印塔(鶴の塔)は鎌倉時代後期に建立されたという。



道元禅師産湯という井戸の石標



道元禅師産湯の井戸


【参照】近くを流れる桂川と久我橋、寺は橋の西詰にある。
 誕生寺(たんじょうじ)は、桂川、西高瀬川、鴨川の三川が合流する地点、桂川西岸、久我(こが)の地にある。道元の誕生地のひとつといわれている。正式には、誕生山妙覚寺という。 
 曹洞宗祖。本尊は千手観音像。
◆歴史年表 平安時代以来、この地には、村上源氏の祖・久我(源)師房以来の別業「久我水閣」が営まれていた。
 鎌倉時代、この付近に、久我通光(1187-1248)の別荘が営まれたともいう。通光は道元の異母弟とされる。
 1200年、日本曹洞宗の宗祖・道元は、この地に生まれたともいう。また、宇治木幡の母方祖父・藤原(松殿)基房の「松殿家山荘」に生まれ、生後間もなくこの地に移ったともいう。
 近代、1918年、大本山永平寺66世・日置黙仙(へきもくせん)禅師が、道元ゆかりのこの地に堂宇の建立を発願した。
 1919年、建立された。
 1920年、仮本堂で入仏遷座式が営まれる。
 現代、1982年以来、春木龍仙師により復興が始まり、以後、本堂、山門、庫裏が完成する。
 1998年/1997年、17年の歳月をかけ、華厳山妙覚寺(福井県小松市)を移し、坐禅堂、鐘楼堂、報恩塔などが完成している。
◆源師房 平安時代後期の公家・歌人・源(久我)師房(みなもと-の-もろふさ、1008-1077)。初名は資定。第62代・村上天皇皇子・具平親王の子。村上源氏の祖。中院流祖。土御門右大臣と号した。当初は資定王(すけさだおう)と称し、後に姉・隆姫女王の夫・藤原頼通の猶子となる。1020年、元服し、源姓を賜与・臣籍降下、源師房と改めた。1024年、藤原道長の五女・尊子(頼通の異母妹)と結婚し、藤原氏との関係により昇進を重ねる。1077年、太政大臣となるが同日出家し、亡くなる。漢詩・和歌に優れ、有職故実の流派は「土御門流」と呼ばれた。著『叙位除目抄』、日記『土右記(どゆうき)』。 70歳。
◆道元 鎌倉時代前期-中期の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。俗姓は源氏、号は希玄(きげん)、道玄、字は仏法房、諡号は仏性伝東国師、承陽大師。京都の生まれ。父は内大臣・源(土御門)通親/通親の子・通具(みちとも)、母は太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くした。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺・良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。天台宗で、衆生は仏性を具えているのにもかかわらず、既に仏である者が修行し続ける理由が解けず、1214年、比叡山を下りる。園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより、1217年、臨済宗の建仁寺に移り、栄西(相見していないとも)、その高弟・明全に学び臨済の印可を受けた。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。1224年、育王山・広利寺、径山(きんざん)・万寿寺、天台山・万年寺などを歴訪した。1225年、明全が亡くなる。天童山で曹洞宗・長翁(天童)如浄(にょじょう)に師事し、曹洞禅を学び印可を受けた。1227年、如浄の法統を得て帰国する。1228年、建仁寺に入る。日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を著す。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、檀越・波多野義重の領地である越前の志比荘(しびのしょう)に逃れる。1244年、義重の請により、越前に大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向した。1252年、病になり、1253年、後事を弟子・孤雲懐奘(こうん-えじょう)に譲り、京都西洞院高辻の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。54歳。遺骸は東山・赤辻で荼毘に付され、遺骨は永平寺に埋葬された。
 日本曹洞宗の開祖。道元は、自己に本来具わる仏法は修行によって初めて現れ成就する(身心脱落)とした。無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐(しかんたざ)」などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 』95巻(1230-1252)を著した。門弟には、懐奘、詮慧(せんね)、僧海(そうかい)らがいる。
 1854年、第121代・孝明天皇より諡号の仏性伝東国師、1879年、第122代・明治天皇より承陽(じょうよう)大師を贈られた。
◆源通親 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・歌人・源(久我)通親(みなもと-の-みちちか、1149-1202)。号は久我(こが)、土御門(つちみかど)。村上源氏久我雅通の子。道元の父。1180年、参議、内大臣となり、土御門内大臣と号した。後白河法皇の死後、法皇の寵姫・丹後局高階栄子と結んで勢力を築く。1196年、政変により、源頼朝と提携する親幕派の九条兼実を廟堂から追放する。養女在子が産んだ土御門天皇の外祖父として権勢を振るう。文、和歌に優れた。著『高倉院厳島御幸記』など。 54歳。
◆藤原伊子 平安時代後期-鎌倉時代前期の女性・藤原伊子(ふじわら-の-いし、1167?- 1207?)。松殿伊子、冬姫。藤原北家嫡流の一人で関白・藤原(松殿)基房の三女、母は関白・藤原基房の娘。道元の母。1183年、源義仲が後白河法皇の御所法住寺殿襲撃後、義仲は失権していた父・基房と接近した。義仲は伊子を正室とする。1184年、義仲は源頼朝が遣した義経に攻められ戦死する。戦の最中、義仲は伊子との別れを惜しんだため、部下2人は切腹して義仲を諌めたという。基房は伊子を公卿・源通親の側室にする。1200年、伊子は宇治木幡松殿家山荘(久我の通親別邸とも)で道元を産む。1202年、通親亡き後、母子で隠れ住んだという。道元を仏道に導いたという。葬儀は高尾・神護寺で行われ、道元は無常を感じ発心したという。
◆久我通光 鎌倉時代前期-中期の公卿・久我通光(こが-みちみつ、1187-1248)。号は後久我。源通親(みちちか)の3男、母は藤原範子(はんし)。村上源氏の嫡流。道元の異母弟という。1219年、内大臣、1221年、承久の乱後辞任。1246年、後嵯峨上皇(第88代)のもとで太政大臣。従一位。琵琶名手、歌人としても知られ『百人一首』、勅撰集におさめられている。62歳。
◆仏像・木像 ◈本堂安置の千手観音像は、妙覚寺より遷された。
 ◈道元自作という坐像が安置されている。道元が越前に向った時、妙覚寺に立ち寄る。永住を望んだ住職に対し、庭の梅の木により自ら刻んだものという。
 ◈日置黙仙禅師木像、道元両親の位牌も安置されている。
◆史跡・墓 境内に、道元禅師産湯の井戸、道元禅師両親(源通親、藤原伊子)の宝篋印塔が立つ。1997年に復元された。
 もとになった宝篋印塔(鶴の塔)は、鎌倉時代後期に建立された。呉越国王銭弘淑が造った金塗塔形式といい、久我では古くより「鶴の塔」と呼んだ。道元が母の菩提のために建立したという。塔身四隅に護法鳥の梟が彫られている。かつて、久我村の仏光寺にあったという。寺は戦国時代に廃寺になる。戦後までは、妙真寺(久我東町)にあった。最古の石造宝篋印塔(重文)とされ、いまは北村美術館(上京区)に保管されている。
 久我本町の住宅地に「久我家墓所 御墓山(みはかやま)」が残されている。平安時代以来、久我家墓所になっていたともいう。平安時代末期、1127年、3代・雅実(1059-1127)の葬礼に際し、6代・通親は、父・雅通の墓を詣で、「ちりつもるこけのしたにもさくら花をしむ心やなほのこるらん」(『千載集』)と詠んだ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・宗祖の旅 道元』、『京都 道元禅師を歩く』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都府の歴史散歩 中』、『日本の名僧』、『平安京散策』、『稲荷信仰と宗教民俗』、ウェブサイト「コトバンク」


菱妻神社  久我神社(伏見区)    道元禅師示寂の地  道元生誕の地・松殿山荘茶道会(宇治市)  高台寺    
誕生寺  〒612-8492 京都市伏見区久我元町  075-932-4650
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