正伝永源院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) 
Shoden-eiken-in Temple
正伝永源院 正伝永源院 
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庫裏


鎮守社


鐘楼


唐門



方丈(客殿)


方丈


方丈、「正伝院」「永源庵」の院号、庵号の扁額



方丈、杉戸絵



方丈、杉戸絵



茶室「如庵」


「如庵」の扁額、細川護貞(1912- 2005)揮毫。旧肥後熊本藩主細川家第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。第79代内閣総理大臣細川護熙(ほそかわ もりひろ、1938- )は長男。




茶室「如庵」


茶室「如庵」

 正伝永源院(しょうでん えいけんいん/しょうでん えいげんいん)は建仁寺本坊の北にある。境外塔頭の一つになる。
 臨済宗建仁寺派大本山。本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 鎌倉時代、文永年間(1264-1275)、建仁寺12世・紹仁義翁(ぎおう しょうにん)が正伝院(祇園花見小路四条下ル)を建立した。
 南北朝時代、正平年間(1346-1370)、永源庵は、建仁寺39世・無涯禅師を開山とし、細川家始祖・細川頼春の菩提寺として当初は東山清水坂辺に創建されたという。肥後細川家の最初の菩提寺となる。後に建仁寺塔頭になる。細川家より入寺、住持となるものも多かったという。
 室町時代、1398年、永源庵は、現在地に移ったという。
 天文年間(1532-1555)以来、正伝院は荒廃する。
 1552年、建仁寺とともに焼失した。
 江戸時代、1618年、正伝院は織田有楽斎(長益)により再興された。隠居所と、茶室「如庵」が建てられた。有楽斎は中興の祖となる。建仁寺北東、祇園町南円小路にあったという。
 1622年、有楽斎の没後、隠居所は正伝院に寄進された。
 1651年、また、有楽の孫・三五郎長好の没後、隠居所は正伝院に属したともいう。以後、近代まで、織田藩の柳本藩、芝村藩の各一万石の扶持により維持される。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃された。無住となっていた永源庵は堂宇のみを残した。
 1872年、京都府による窮民産業所設立のため、正伝院は境内の建物(祇園町南の旧有楽館付近)を放棄し、寺号のみを残して替地となった西の旧永源庵の現在地に移る。授産施設設立計画はその後、中止になる。
 1873年、永源庵が廃寺になる。正伝院は永源庵と合併し、寺号を正伝永源院と改めた。この時、茶室「如庵」、書院などは祇園町有志に払い下げられる。宴会場「有楽館」となる。
 1909年、1908年とも、正伝院の旧地の伽藍(書院、庫裏、総門、唐門、二重閣門、長好閣)が売却され、移転となる。書院、茶室「如庵」、露地も東京に移された。有楽館も売却された。
 現代、1962年、織田有樂斎、その夫人、娘、孫の墓が、正伝院旧地より現在地に移された。
 1980年、方丈が修復される。
 1996年、茶室「如庵」が復元される。
◆義翁紹仁 鎌倉時代の臨済宗の僧・紹仁義翁(ぎおう しょうにん、1217-1281)。南宋に生まれた。1246年、蘭渓道隆に随い来日し、その法を継ぐ。建仁寺12世、鎌倉・建長寺住持となる。大覚派。諡号は普覚(ふがく)禅師。
◆無涯仁浩  鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・無涯仁浩(むがい にんこう、1294-1359)。出羽に生まれた。鉄庵道生の法を継ぐ。元に渡り24年間滞在した。1345年、帰国する。肥後・能仁寺、鎌倉・東勝寺、建仁寺39世住持となった。
◆細川頼春 南北朝時代の北朝の武将・細川頼春(ほそかわ よりはる、1299-1352)。公頼の子に生まれる。1335年、足利尊氏の建武政府離反に従い、南朝軍と各地で戦い、四国平定にも尽力する。越前守護となる。高師直と尊氏弟・直義が対立した観応の擾乱(1350-1352)では尊氏に属した。1352年、南朝軍が京都に進行した際にに、七条大宮付近で戦死した。能射の名とされた。細川家始祖。
◆織田有楽斎 安土桃山時代-江戸時代前期の大名・茶人の織田有楽斎(おだ うらくさい、1547-1622)。長益(ながます)。織田信秀の11男、織田信長の実弟。豊臣秀吉側室・淀殿の叔父。1582年、甲州成敗ではわずかの手勢で松本城を落とした。本能寺の変で、信長嫡男・信忠とともに二条御所に籠城する。御所は炎上、信秀は自刃するが、有楽斎は安土へ落ち延びたという。変後、臣下の豊臣秀吉に仕え御伽衆となり摂津を領した。1590年、剃髪し有楽と号した。1594年、秀吉の前田利家邸への御成に際し室礼などを指導した。1600年、関ヶ原の戦では徳川方に属し、大和で石を与えられた。1614年、大坂冬の陣で大坂城に入り、家康との講和斡旋を続けた。その後、二条に隠棲する。1615年、大坂冬の陣には加わらなかった。1618年、建仁寺に正伝院を再興して移る。北に退隠所を建て住んだ。
 茶の湯は利休に学び、利休十哲の一人、後に有楽流が開かれ祖となる。キリシタンであり洗礼名はジョアン、有楽斎如庵(うらくさいじょあん)などとも号した。東山で没し、正伝院に葬られた。
◆永源庵 建仁寺塔頭・永源庵は、無涯仁浩(1294-1359)を開基とし、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失、10世・九岩中達(きゅうがん ちゅうたつ)が再興した。
 イエズス会の関わりがある。1550年、堺を経て入洛したイエズス会の司祭フランシスコ・ザビエル(1506-1552)の布教活動は、戦乱と荒廃により成功せず、ザビエルはわずか11日で離京した。その後、1559年、イエズス会司祭のガスパル・ヴィレラ(1525-1572)は、再度京都に入る。革棚町(四条新町西入ル郭巨山町)の小屋を拠点とし布教を始める。だが、人々の投石に悩まされたという。
 ヴィレラは、キリシタンに理解を示す永源庵住職宛ての紹介状を頼りに庵を訪ね、将軍への仲介を依頼する。当時、妙覚寺(衣棚通押小路妙覚寺町)に逗留していた13代将軍・足利義輝との面会が実現した。神父は住職を伴い寺を訪ね、砂時計を将軍に献上している。将軍は3ヵ条の制札を下付し、以後、人々の狼藉は止んだという。ヴィレラは、大友義鎮、伊勢貞孝らの助力も得て布教を続ける。1565年、正親町天皇により伴天連追放の女房奉書が出され、ヴィレラは堺に逃れた。以後、豊後、平戸、堺などに移る。1570年インドに渡り、ゴアで病没した。
◆窮民産業所 近代、1872年、京都府は窮民産業所設立の名目により、建仁寺、蓮乗院、蓮華光院などから18000坪の土地を上知させた。その後、祇園で働く女性のための婦女職工引立会社に土地を払い下げ、跡地に京都の花街のひとつ祇園が生まれた。
◆建築 かつて、如庵に隣接して有楽斎の隠居所「旧正伝院書院」(重文)が建てられていた。「如庵」、露地、「書院」は祇園町有志の「有楽館」を経て、東京・三井邸から大磯・三井邸、現在は、有楽苑(愛知県犬山市)に移築され保存されている。内部には長谷川等伯(1539-1610)、狩野山雪(1590-1651)などの襖絵がある。
 「長好閣」、「客殿」、「月見台」は京都・大浦邸へ移される。
 「紹鴎塔(じょうおうとう)」は、有楽が堺より移した。大阪・藤田邸、さらに太閤閣へ移された。
◆茶室・露地 現在ある当院に建てられている茶室「如庵(じょあん)」は、有楽斎が旧正伝院に建立した国宝茶室の写しになる。1996年に中村昌生の指導により復元・建立された。元の「如庵」は、現在、「有楽苑」(愛知県犬山市)に移築されている。「国宝茶席三名席」の1つ(ほかに、京都山崎妙喜庵内の「待庵」、大徳寺・龍光院内の「密庵」)に数えられている。
 茶室は、江戸時代、1618年、織田有楽斎が旧正伝院に建立した。近代、廃仏棄釈の混乱期、1873年、正伝院が永源院と合併し、茶室は祇園町有志に払い下げられた。その後、1908年、東京の三井本邸(港区)に移築される。1936年、当時の重要文化財に指定された。1938年、三井総領家10代・三井高棟(1857-1948)により大磯の別荘(神奈川県中郡)に移築された。1951年、国宝指定となる。1970年、名古屋鉄道の所有となる。1972年、名鉄により有楽苑(愛知県犬山市)に移築され現在も保存されている。なお、有楽斎はいくつかの「如庵」を建てた。大坂天満屋敷の茶室「如庵」も、有楽苑内に「元庵」として復元されている。亭主が上座につく、亭主床の床構えになる。
 茶室は、妻に「如庵」の木額が掲げられている。庭より庇内の土間、廊下の間を経て躙口より入る。二畳半台目の炉は向切になる。床柱より茶道口に向け斜行する壁を立て、足元には三角形の地板、板畳鱗板(うろこいた)を敷く。これは、給仕口に替わる工夫とされる。また、室内を広く見せる。「筋違の数奇屋」とも呼ばれた。アララギ六角のなぐりの床柱、相手柱はコブシ皮付、床框は黒塗、落掛は杉面皮。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切り、炉先の半畳、下部は火灯形に丸く切り欠いて吹き通しにした。これはほかに例がないという。突上窓、連子窓、下地窓が開く。引手障子の外に篠竹を打ち詰めた「有楽窓」は、竹の間から漏れる光を取り入れる。壁は聚楽土塗、裾に巾木。古暦を腰貼りにした「暦張(こよみばり)」、躙口などにも特徴があり、「暦張りの席(暦亭)」とも呼ばれた。水屋(3畳)は一文字棚の上下に釣棚、丸炉、流し、無双窓がある。茶席の床脇斜壁の空間(水屋側)は閉じられている。入母屋風、こけら葺、切妻屋根を正面とする。前面に庇が付く。
 京都にある如庵写しの茶室としては、建仁寺・清住院、両足院、仁和寺・遼廓亭がある。
 有楽苑(犬山市)の如庵の露地に、「左女牛(さめがい)の井」が据えられている。有楽斎は、村田珠光ゆかりの「左女牛の井」(六条堀川)を修復した際に、井筒を移した。同形として「左女牛の井」と呼ばれ、「元和元年(1615年)九月二日有楽」の銘が入る。
 有楽苑(犬山市)の如庵の露地にある蹲踞は、加藤清正(1562-1611)が文禄の役(1592-1593)に際して釜山沖より持ち帰ったもので「釜山海(ふざんかい)」の銘がある。「天正七年(1579年)」の刻名も入る。長方形の自然石奇岩に穴が穿たれている。
◆木像 客殿仏間に、「織田有楽斎木像」(80㎝)が安置されている。僧衣の坐像で70歳の時の姿という。安土・桃山時代作。
◆文化財 南北朝時代(14世紀)、絹本著色「無涯仁浩 中巌円月賛」。江戸時代(1622)、絹本著色「織田長益像 古澗慈稽賛」。明時代(15世紀)、絹本著色「架鷹図」(8幅のうちの4幅)。明時代(15世紀)、絹本著色「戯嬰図」1幅。
 織田有楽斎の遺品、有楽斎作「赤楽茶碗」、江戸時代(18-19世紀)、奥田頴川作「呉州赤絵写花鳥文片口」、江戸時代(19世紀)、仁阿弥道八作「白釉山羊形手焙」など。
 「紅花緑葉天目台」、有楽斎が秀次から贈られた千利休作の「象牙茶杓」などの茶道具、武野紹鷗茶杓。 
 鎌倉時代(13世紀)の「九条袈裟」は、建仁寺11世・大覚禅師・蘭渓道隆所用、附座具、袈裟包。
 武将・大名の福島正則(1561-1624)寄進の「朝鮮鐘」。
◆障壁画 客殿室中の間に狩野山楽(1559-1635)筆の紙本金地著色障壁画「蓮鷺図(れんろず)」16面がある。金地に緑青で蓮の葉、白蓮、双頭蓮、つがいの鷺、燕が描かれ、蓮の花の蕾から満開、枯れるまでの移ろいが描写されている。
 狩野山楽筆襖絵「鍾馗図」。
 2013年、奉納された細川護煕(1938-)元首相の襖絵、東山の夜桜を描いた「知音」、西山連山の暁の紅葉を描いた「秋聲」がある。
 有楽苑(犬山市)に移された旧書院には、長谷川等伯、狩野山雪、狩野常信、狩野安信、鶴沢探山の襖絵がある。
◆庭園 池泉式庭園は、創建時のものではない。白砂にハイビャクシン、松などが植えられている。池の周囲に石組の護岸、対岸に石橋が架かり、低い築山に五重石塔が立てられている。
◆有楽斎の墓 有楽斎の墓にまつわる逸話がある。
 当初、有楽斎の墓は正伝院に立てられた。近代になり廃寺になる。永源院に統合され、寺号も正伝永源院となる。墓は旧地にそのまま残されていた。正伝院跡には次々と祇園甲部の茶屋が建てられ、やがて墓の周りを取り巻いた。
 ある茶屋棟上の前夜、不審火により茶屋は焼失する。炎中には大入道(有楽斎の霊とも)が現れたとの噂がたった。1962年、墓は当寺に遷された。この時、墓下には2つの素焼きの壺が現れ、有楽斎夫妻の遺骨の一部が残されていたという。
 子・道八の墓は、左阿彌楼後庭に五輪塔が立つ。
◆墓 長益(有楽斎)の墓がある。法名「正伝院殿如庵有楽大居士」、夫人・雲仙院(生没年不詳)、孫・長好(1617-1651)、織田頼長の娘・一条昭良正室(生没年不詳)の墓が並ぶ。
 安土桃山時代-江戸時代前期の武将・大名の福島正則(1561-1624)とその家臣の墓がある。正則は「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られ、永源庵に住したことがあるという。その父、武将・福島正信(1525? - 1597)も眠る。
 武野紹鴎の供養塔は、有楽斎が堺より退隠所に遷した。
 境外墓地に鎌倉時代後期から南北朝時代の武将、守護大名・細川頼春(1304/1299-1352)、その子武将、守護大名の頼有(1332-1391)、同じく武将、守護大名の頼長(1332-1391)ら一族の墓がある。


*普段は非公開、室内、建物の一部は撮影禁止。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の禅寺散歩』『京都秘蔵の庭』『京の茶室 東山編』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 中』『週刊 日本の美をめぐる 18 利休・織部と茶のしつらえ』


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茶室「如庵」

茶室「如庵」、明り取りの天窓

茶室「如庵」

蹲踞


方丈南の庭園


方丈西の庭

墓地、1962年、織田有樂斎、夫人、娘、孫の墓が正伝院旧地より移された。

織田有楽斎の墓。「正伝院殿如庵有楽大居士」とある。切石、基礎には単弁反花、初軸部に四方仏、笠石、相輪は失われ、露盤宝珠がのる。江戸時代初期の作。6m、花崗岩製

織田有楽斎正室・雲仙院の墓。「雲仙院殿蓬岡清寿大姉 平出政秀女」
法名は「霊仙殿逢丘清寿大姉」。父、戦国時代の武将・平手政秀(1492-1553)は織田信秀、信長に仕えた。

織田長好(1617-1651)の墓。
長好は頼長(1582-1620)の長男、祖父は長益(有楽斎)、織田信長の大甥にあたる。
 1620年に父、翌1621年に祖父を相次ぎ亡くす。茶の湯の有楽流を継承した。「織田有楽像」(正伝永源院蔵)を描かせた。
 死に際し、織田高重(1602-1661)、織田貞置(1617-1705)、千玄室らに宛てた『織田三五郎(長好)遺品分配目録』がある。妻子なく、墓は建仁寺と鎌倉の建長寺にある。

織田頼長の娘、一条昭良正室の墓。氏名不詳。
頼長(1582-1620)は織田長益(有楽斎)の次男、娘は孫にあたる。江戸時代初期の第107代・後陽成天皇第9皇子で摂政・関白一条昭良(1605-1672)の正室となった。

細川家歴代の墓。

細川家歴代の墓、「細川石」とある。

細川家歴代の墓。

「徳峯院竹翁宗茂」
 正伝永源院 〒605-0811 京都市東山区小松町586,大和大路四条下る  075-531-0200
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