正伝永源院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) 
Shoden-eiken-in Temple
正伝永源院 〔建仁寺〕 正伝永源院 〔建仁寺〕
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庫裏


鎮守社


鐘楼


唐門



方丈(客殿)


方丈


方丈、「正伝院」「永源庵」の院号、庵号の扁額



方丈、杉戸絵



方丈、杉戸絵



茶室「如庵」


「如庵」の扁額、細川護貞(1912- 2005)揮毫




茶室「如庵」


茶室「如庵」




茶室「如庵」


茶室「如庵」、明り取りの天窓


茶室「如庵」


蹲踞



方丈南の庭園




方丈西の庭





墓地、織田有楽斎、夫人、娘、孫の墓


織田有楽斎の墓


織田有楽斎正室・雲仙院の墓



織田長好)の墓



織田頼長の娘、一条昭良正室の墓



細川家歴代の墓


細川家歴代の墓、「細川石」とある。


細川家歴代の墓。


「徳峯院竹翁宗茂」
 正伝永源院(しょうでん えいけんいん/えいげんいん)は建仁寺本坊の北にある。境外塔頭の一つになる。かつて、正伝院、永源庵が合併している。
 臨済宗建仁寺派大本山。本尊は釈迦如来。
◆正伝院の歴史年表 鎌倉時代、文永年間(1264-1275)、建仁寺12世・紹仁義翁(ぎおう しょうにん)が正伝院(祇園花見小路四条下ル)を建立した。
 室町時代、天文年間(1532-1555)以来、正伝院は荒廃する。
 1552年、建仁寺とともに焼失した。
 江戸時代、1614年、大坂冬の陣の後、織田有楽斎(長益)が隠棲した。
 1618年、織田有楽斎(長益)により再興された。隠居所と、茶室「如庵」が建てられる。有楽斎は中興の祖になる。建仁寺北東、祇園町南円小路にあったという。
 1622年、有楽斎が亡くなり葬られた。以後、隠居所は正伝院に寄進された。
 1651年、また、有楽の孫・三五郎長好の没後、隠居所は正伝院に属したともいう。以後、近代まで、織田藩の柳本藩、芝村藩の各1万石の扶持により維持される。
 近代、1872年、京都府による窮民産業所設立のために、正伝院は境内の建物(祇園町南の旧有楽館付近)を放棄した。寺号のみを残して替地になった西の現在地(旧永源庵)に移る。その後、授産施設設立計画は中止になる。
 1873年、正伝院は永源庵と合併し、寺号を「正伝永源院」に改めた。(『坊目誌』)。この時、茶室「如庵」、書院などは祇園町有志に払い下げられる。宴会場「有楽館」になる。
 1909年、1908年とも、正伝院の旧地の伽藍(書院、庫裏、総門、唐門、二重閣門、長好閣)が売却、移転された。書院、茶室「如庵」、露地も東京に移される。有楽館も売却された。
 現代、1962年、秋、織田有樂斎、その夫人、娘、孫の墓が、正伝院旧地より現在地に遷された。
 1980年、方丈が修復される。
 1996年、茶室「如庵」が復元される。
◆永源庵の歴史年表 南北朝時代、正平年間(1346-1370)、永源庵は、建仁寺39世・無涯禅師を開山にした。細川家始祖・細川頼春の菩提寺として、当初は東山清水坂辺に創建されたという。肥後細川家の最初の菩提寺になる。後に建仁寺塔頭になる。細川家より入寺、住持になる者も多かったという。
 室町時代、1398年、永源庵は、現在地に移ったという。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。
 福島正則(ふくしま まさのり、1561-1624)が、度々住したという。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈後、建仁寺塔頭の多くが廃された。無住になっていた永源庵は、堂宇のみを残した。
 1873年、永源庵は廃される。正伝院と合併し、寺号を「正伝永源院」に改めた。(『坊目誌』)
◆義翁紹仁 鎌倉時代の臨済宗の僧・紹仁義翁(ぎおう しょうにん、1217-1281)。南宋に生まれた。1246年、蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)に随い来日し、その法を継ぐ。建仁寺12世、鎌倉・建長寺住持になる。大覚派。諡号は普覚(ふがく)禅師。
◆無涯仁浩  鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・無涯仁浩(むがい にんこう、1294-1359)。出羽に生まれた。鉄庵道生の法を継ぐ。元に渡り、24年間滞在した。1345年、帰国する。肥後・能仁寺、鎌倉・東勝寺、建仁寺39世住持になった。
◆細川頼春 鎌倉時代-南北朝時代の北朝の武将・細川頼春(ほそかわ よりはる、1299-1352)。父は公頼。1331年、元弘の変より足利尊氏に従い、1333年-1336年、建武政権では蔵人になる。1335年、尊氏の建武政府の離反に従い、南朝軍と各地で戦う。1336年、尊氏の九州落ちで、兄・和氏と四国に派遣された。尊良親王を越前・金崎城に破り、伊予で南朝軍を平定し、四国平定に尽力した。1338年、鎌倉幕府開創後は、阿波・備後などの守護になる。越前守護になり、細川・斯波確執の遠因になる。1348年、四条畷の戦で高師直らと楠木正行を破る。観応の擾乱(1350-1352)では、師直と尊氏弟・直義が対立し、直義方に属し、後に尊氏に付く。侍所頭人になる。1352年、南朝軍が和議を破り京都に進行し、七条大宮付近で戦死した。能射の名手とされた。細川家始祖。無涯仁浩と師壇の縁を結ぶ。
 墓は正伝永源院(東山区)にある。
◆細川頼有 南北朝時代の武将・細川頼有 ほそかわ よりあり、1332-1391)。讃岐十郎。細川頼春の次男。1349年-1352年、観応の擾乱の頃、畿内・阿波で南朝方と戦う。1356年、備後守護になり中国管領の兄・頼之に協力した。1390年、兄と共に山名時煕を追討した。泉州府君祖、刑部大輔。
 墓は正伝永源院(東山区)にある。
◆細川頼長 南北朝時代-室町時代の武将・細川頼長(1375-1411)。父は細川頼有。1398年、刑部大輔、1400年、土佐守護。1408-141年、和泉半国守護。
 墓は正伝永源院(東山区)にある。
◆織田有楽斎 安土桃山時代-江戸時代前期の大名・茶人・織田有楽斎(おだ うらくさい、1547-1622)。長益(ながます)。織田信秀の11男、織田信長の実弟。豊臣秀吉側室・淀殿の叔父。1582年、甲州成敗ではわずかの手勢で松本城を落とした。本能寺の変で、信長嫡男・信忠と共に二条御所に籠城する。御所は炎上し、信秀は自刃するが、有楽斎は安土へ落ち延びたという。変後、臣下の豊臣秀吉に仕え、御伽衆になり摂津を領した。1590年、剃髪し有楽と号した。1594年、秀吉の前田利家邸への御成に際し、室礼などを指導した。1600年、関ヶ原の戦では徳川方に属し、大和で石を与えられた。1614年、大坂冬の陣で大坂城に入り、家康との講和斡旋を続けた。その後、二条に隠棲する。1615年、大坂冬の陣には加わらなかった。1618年、建仁寺に正伝院を再興して移る。北に退隠所を建て住んだ。
 茶の湯は利休に学び、利休十哲の一人、後に有楽流が開かれ祖になる。キリシタンであり洗礼名はジョアン、有楽斎如庵(うらくさいじょあん)などとも号した。東山で没し、正伝院に葬られた。
 墓は正伝永源院(東山区)にある。
◆雲仙院 織田有楽斎の正室・雲仙院(?-?)。詳細不明。お清。父は武将・平手政秀(1492-1553)であり、父は織田信秀、信長に仕えた。
 墓は正伝永源院(東山区)にある。
◆福島正則 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・福島正則(ふくしま まさのり、1561-1624)。尾張生まれ。福島市兵衛正信の長男、母は豊臣秀吉の伯母木下氏。1578年、豊臣秀吉に仕える。1583年、秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦では、「賤ヶ岳の七本槍」筆頭になる。1585年、伊予今治に移り、島津征伐、小田原の役、朝鮮出兵にも従う。1595年、尾張清洲城に移る。1600年、会津征討で徳川家康下、豊臣武将とともに従軍したが、石田三成の挙兵後は家康の味方になる。関ヶ原の戦で先鋒第一番手の戦功をあげる。広島城に移る。大坂の陣の際には、家康に江戸屋敷に留めおかれた。1619年、広島城の無断修築により幕府に咎められ、出家する。その後、信州川中島に移され、病没した。茶人としても知られた。 永源庵に住したことがあるという。家臣が火葬し、遺骨は妙心寺・海福院(右京区)、建仁寺・正伝永源院(東山区)に分葬したという。墓はそのほか各所にある。
◆織田長好 江戸時代前期の武士・織田長好(おだ ながよし、1617-1651)。三五郎。織田頼長の長男、織田信長の従孫。茶の湯・有楽流を継承し、茶人として知られる。妻子はなかった。死に際し、織田高重、織田貞置、千玄室らに宛てた茶人大名の所持名物『織田三五郎(長好)遺品分配目録』がある。 35歳。
 墓は正伝永源院(東山区)、鎌倉・建長寺にもある。
◆武野紹鷗 室町時代の茶人・富商・武野紹鷗(たけの じょうおう、1502-1555)。新五郎。道号は一閑、大黒庵。堺の生まれ。父は信久、母は大和の豪族・中坊氏の娘。若狭の守護大名・武田氏の一族であり、祖父・仲清は応仁・文明の乱(1467-1477)で戦死、父・信久は泉州堺に移り、姓を武野に改めたという。舳松(へのまつ)町に住み、皮革を家業にした。連歌を志し上京する。24歳の時、父は四条室町上ル夷堂の隣(現在の金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、「大黒庵」と号した。1528年以降、公卿・歌人・三条西実隆に師事した。32歳で剃髪、大徳寺・古岳宗亘に参禅したという。36歳で父、師を失い、大林宗套により堺・南宗寺が建立された。
 茶は村田珠光の「侘び茶」、十四屋宗陳(もずやそうちん)、十四屋宗悟に学ぶ。茶道は禅から起こり、茶の湯が求めることは、禅と同一とする「茶禅一味」を唱えた。茶の湯の簡素化し、小座敷の数寄屋を考案した。門人に千利休、津田宗及、山岡宗無、女婿・今井宗久などがある。なお、「大黒庵」の遺構は、堺・南宗寺の天慶院「大黒庵」になるという。
 墓は堺・臨江寺にある。織田有楽は建仁寺・正伝院(正伝永源寺)(東山区)に供養塔を立てた。 
◆木像 客殿仏間に、「織田有楽斎木像」(80㎝)が安置されている。安土・桃山時代作になる。僧衣の坐像であり、70歳の時の姿という。
◆建築 正伝院の旧建物は、現在、各所に移転、保存されている。
 ◈かつて、如庵に隣接して有楽斎の隠居所「旧正伝院書院」(重文)が建てられていた。「如庵」、露地、書院は祇園町有志の「有楽館」を経て、東京・三井邸から大磯・三井邸、現在は、有楽苑(愛知県犬山市)に移築され保存されている。内部には長谷川等伯(1539-1610)、狩野山雪(1590-1651)などの襖絵がある。
 ◈「長好閣」、「客殿」、「月見台」は京都・大浦邸へ移される。
 ◈「紹鴎塔(じょうおうとう)」は、有楽が堺より当地に移した。その後、大阪・藤田邸、さらに太閤閣へ移された。
 ◈伏見の松本酒造(伏見区大黒町)には、1954年に建てられた迎賓施設、数寄屋造の「万暁院(まんぎょういん)」がある。ここに、正伝院より移築された切妻造の表門、唐派風造の玄関がある。江戸時代初期の建物という。
 当社は、江戸時代、1791年に建仁寺境内の南で創業しており、七条を経て、近代、大正期(1912-1926)に伏見に移転した。
◆茶室・露地 現在、当院に建てられている茶室「如庵(じょあん)」は、有楽斎が旧正伝院に建立した国宝茶室の写しになる。現代、1996年に中村昌生の指導により復元・建立された。元の「如庵」は、現在は、「有楽苑」(愛知県犬山市)に移築されている。「国宝茶席三名席」の1つ(ほかに、京都山崎妙喜庵内の「待庵」、大徳寺・龍光院内の「密庵」)に数えられている。
 茶室は、江戸時代、1618年、織田有楽斎が旧正伝院に建立した。近代、廃仏棄釈の混乱期、1873年、正伝院が永源院と合併し、茶室は祇園町有志に払い下げられた。その後、1908年、東京の三井本邸(港区)に移築される。1936年、当時の重要文化財に指定された。1938年、三井総領家10代・三井高棟(1857-1948)により、大磯の別荘(神奈川県中郡)に移築される。1951年、国宝指定になる。1970年、名古屋鉄道の所有になった。1972年、名鉄により有楽苑(愛知県犬山市)に移築され、現在も保存されている。
 なお、有楽斎は幾つかの「如庵」を建てた。大坂天満屋敷の茶室「如庵」も、有楽苑内に「元庵」として復元されている。亭主が上座につく、亭主床の床構えになる。
 茶室は、妻に「如庵」の木額が掲げられている。細川護貞(1912-2005)揮毫による。「如庵」の庭より庇内の土間、廊下の間を経て躙口より入る。二畳半台目の炉は向切になる。床柱より茶道口に向け斜行する壁を立て、足元には三角形の地板、板畳鱗板(うろこいた)を敷く。これは、給仕口に替わる工夫とされる。また、室内を広く見せる。「筋違の数奇屋」とも呼ばれた。アララギ六角のなぐりの床柱、相手柱はコブシ皮付、床框は黒塗、落掛は杉面皮になる。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切り、炉先の半畳、下部は火灯形に丸く切り欠いて吹き通しにした。これは、ほかに例がないという。突上窓、連子窓、下地窓が開く。引手障子の外に篠竹を打ち詰めた「有楽窓」は、竹の間から漏れる光を取り入れる。壁は聚楽土塗、裾に巾木。古暦を腰貼りにした「暦張(こよみばり)」、躙口などにも特徴があり、「暦張りの席(暦亭)」とも呼ばれた。水屋(3畳)は一文字棚の上下に釣棚、丸炉、流し、無双窓がある。茶席の床脇斜壁の空間(水屋側)は閉じられている。入母屋風、杮葺、切妻屋根を正面とする。前面に庇が付く。
 京都にある如庵写しの茶室としては、建仁寺・清住院、両足院、仁和寺・遼廓亭がある。
 有楽苑(犬山市)の如庵の露地に、「左女牛(さめがい)の井」が据えられている。有楽斎は、村田珠光ゆかりの「左女牛の井」(六条堀川)を修復した際に、井筒を移した。同形として「左女牛の井」と呼ばれ、江戸時代、「元和元年(1615年)九月二日有楽」の銘が入る。
 有楽苑(犬山市)の如庵の露地にある蹲踞は、加藤清正(1562-1611)が文禄の役(1592-1593)に際して、釜山沖より持ち帰ったもので「釜山海(ふざんかい)」の銘が入る。安土・桃山時代、「天正七年(1579年)」の刻名も入る。長方形の自然石奇岩に穴が穿たれている。
◆文化財 南北朝時代、14世紀の絹本著色「無涯仁浩 中巌円月賛」。
 江戸時代、1622年の絹本著色「織田長益像 古澗慈稽賛」。
 明時代、15世紀の絹本著色「架鷹図」(8幅のうちの4幅)。
 明時代、15世紀の絹本著色「戯嬰図」1幅。
 織田有楽斎の遺品、有楽斎作「赤楽茶碗」、江戸時代、18-19世紀の奥田頴川作「呉州赤絵写花鳥文片口」、江戸時代、19世紀の仁阿弥道八作「白釉山羊形手焙」など。
 「紅花緑葉天目台」、有楽斎が秀次から贈られた千利休作の「象牙茶杓」などの茶道具、「武野紹鷗茶杓」。 
 鎌倉時代、13世紀の「九条袈裟」は、建仁寺11世・大覚禅師・蘭渓道隆所用、附座具、袈裟包。
 武将・大名の福島正則(1561-1624)寄進の「朝鮮鐘」。
 
茶室「如庵」の「如庵」の木額は、細川護貞(1912-2005)揮毫による。旧肥後熊本藩主・細川家第17代当主になる。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。第79代内閣総理大臣・細川護熙(ほそかわ もりひろ、1938-)は長男になる。
◆障壁画 ◈客殿室中の間に狩野山楽(1559-1635)筆の紙本金地著色障壁画「蓮鷺図(れんろず)」16面がある。金地に緑青で蓮の葉、白蓮、双頭蓮、つがいの鷺、燕が描かれ、蓮の花の蕾から満開、枯れるまでの移ろいが描写されている。
 ◈狩野山楽(1559-1635)筆の襖絵「鍾馗図」。
 ◈東山の夜桜を描いた「知音」、西山連山の暁の紅葉を描いた「秋聲」がある。2013年に奉納された細川護煕(1938-)元首相の襖絵になる。
 ◈有楽苑(犬山市)に移された旧書院には、長谷川等伯、狩野山雪、狩野常信、狩野安信、鶴沢探山の襖絵がある。
◆庭園 旧正伝院庭園は知られ、江戸時代『都林泉名所図会』巻1(1799)にも紹介されている。
 現在の池泉式庭園(書院式平庭)は、創建時のものではない。池の周囲に石組の護岸、対岸に石橋が架かり、低い築山に五重石塔が立てられている。池の中央に中島がある。白砂にハイビャクシン、松などが植えられている。
◆永源庵 建仁寺塔頭・永源庵は、無涯仁浩(1294-1359)を開基とし、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。10世・九岩中達(きゅうがん ちゅうたつ)が再興した。
 イエズス会の関わりがある。1550年、堺を経て入洛したイエズス会の司祭フランシスコ・ザビエル(1506-1552)の布教活動は、戦乱と荒廃により成功しなかった。ザビエルはわずか11日で離京した。その後、1559年、イエズス会司祭のガスパル・ヴィレラ(1525-1572)は、再度京都に入る。革棚町(四条新町西入ル郭巨山町)の小屋を拠点とし布教を始める。だが、人々の投石に悩まされたという。
 ヴィレラは、キリシタンに理解を示す、永源庵住職宛ての紹介状を頼りに庵を訪ね、将軍への仲介を依頼する。当時、妙覚寺(衣棚通押小路妙覚寺町)に逗留していた13代将軍・足利義輝(1536-1565)との面会が実現した。神父は住職を伴い寺を訪ね、砂時計を将軍に献上している。将軍は3ヵ条の制札を下付し、以後、人々の狼藉は止んだという。ヴィレラは、大友義鎮(宗麟、1530-1587)、伊勢貞孝(?-1562 )らの助力も得て布教を続ける。1565年、第106代・正親町天皇により伴天連追放の女房奉書が出され、ヴィレラは堺に逃れた。以後、豊後、平戸、堺などに移る。1570年にインドに渡り、ゴアで病没した。
◆窮民産業所 近代、1872年、京都府は窮民産業所設立の名目により、建仁寺、蓮乗院、蓮華光院などから18000坪(59504㎡)の土地を上知させた。
 その後、祇園で働く女性のための、婦女職工引立会社に土地を払い下げ、跡地に京都の花街の一つ祇園が生まれた。
◆有楽斎の墓 有楽斎の墓にまつわる逸話がある。
 当初、有楽斎の墓は正伝院に立てられた。近代になり廃寺になる。永源院に統合され、寺号も正伝永源院に改められた。墓は旧地にそのまま残されていた。正伝院跡には次々と祇園甲部の茶屋が建てられ、やがて墓の周りを取り巻いた。
 ある茶屋棟上の前夜に、不審火により茶屋は焼失する。炎中には大入道(有楽斎の霊とも)が現れたとの噂がたった。1962年、墓は当寺に遷された。この時、墓下には2つの素焼きの壺が現れ、有楽斎夫妻の遺骨の一部が残されていたという。
 なお、子・道八の墓は、左阿彌楼(東山区)の後庭に五輪塔が立つ。
◆墓 現代、1962年、織田有楽斎、夫人、娘、孫の墓が正伝院旧地より移された。
 ◈長益(有楽斎)の墓は、法名「正伝院殿如庵有楽大居士」と刻まれている。かつて、正伝院旧地祇園町南にあり、現代、1962年に一族の墓とともに現在地に遷されている。
 切石、基礎には単弁反花、初軸部に四方仏、笠石、相輪は失われ露盤宝珠がのる。江戸時代初期の作。五重石層塔、6m、花崗岩製。
 ◈有楽斎正室・雲仙院(?-?)の墓には、「雲仙院殿蓬岡清寿大姉 平出政秀女」とある。柱状石塔。
 ◈有楽斎の孫・織田長好(1617-1651)の墓がある。宝塔。
 ◈織田頼長の娘(?-?)の墓が並ぶ。公卿・一条昭良(1605-1672)の正室だった。五輪石塔。
 ◈安土桃山時代-江戸時代前期の武将・大名の福島正則(1561-1624)の墓がある。無銘自然石が立つ。
 その父、武将・福島正信(1525?-1597)、家臣も眠る。
 ◈室町時代の茶人・武野紹鷗(1502-1555)の供養塔は、有楽斎が堺より退隠所に遷した。
 ◈境内北の境外墓地に鎌倉時代後期-南北朝時代の武将・守護大名・細川頼春(1304/1299-1352)、その子・武将・守護大名・頼有(1332-1391)は一つの墓に入る。自然石が立つ。傍らに「細川石」の石碑がある。
 同じく武将・守護大名・頼長(1375-1411)、歴代の持有(1395-1438)、教春(1423-1450)、常有(1424-1480)、政有(1449-1481)、元有(1459-1500)、元常(1482-1554)ら一族7代の墓がある。いずれも灯籠型の石塔になる。
 傍らに江戸時代、1866年に立てられた儒者・木下業広(1805-1867、犀潭<さいたん>)の銘文碑がある。


*普段は非公開、室内、建物の一部は撮影禁止。
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の禅寺散歩』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都秘蔵の庭』『京の茶室 東山編』『京都大事典』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 中』『週刊 日本の美をめぐる 18 利休・織部と茶のしつらえ』 、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 正伝永源院 〒605-0811 京都市東山区小松町586,大和大路四条下る  075-531-0200
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