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有楽稲荷大明神 (織田稲荷) (京都市東山区)
Uraku-inari-daimyojin Shrine
有楽稲荷大明神 (織田稲荷) 有楽稲荷大明神 (織田稲荷) 
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 花街の祇園町南側(ぎおんまち みなみがわ)にある町家一角に、有楽稲荷大明神(うらく いなり  だいみょうじん)がある。織田稲荷とも呼ばれる。 
 かつて、この地には織田有楽斎が再興した正伝院があり、その墓所もあったという。
 有楽稲荷大明神は、有楽斎に因み、「楽しみが有る」とされ、芸能の稲荷社になる。芸妓の技芸上達、茶屋の商売繁盛の信仰も集めた。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代、13世紀(1201-1300)後半、建仁寺12世・義翁紹仁(ぎおう しょうにん)が、祇園町南側(現在地付近)に正伝院を創建した。
 安土・桃山時代、天文年間(1532-1555)以降、衰退する。
 江戸時代、1618年、有楽斎は、正伝院を再興し、この地(祇園町南側)に移る。
 1622年、有楽斎が亡くなり、墓が立てられる。
 その後、大火により正伝院は焼失した。墓はこの地(祇園町南側)に残された。
 近代、1872年、この地一帯にあった建仁寺境内が上知になる。正伝院は現在地(正伝永源院、東山区大和大路四条下ル小松町)に移された。有楽斎らの墓は、この地に残される。
 大正期(1912-1926)初期、この地に有楽稲荷大明神が祀られたとみられる。
 現代、1962年、有楽斎らの墓はこの地より正伝永源院の一角に遷された。
◆織田有楽斎 安土桃山時代-江戸時代前期の大名・茶人の織田有楽斎(おだ うらくさい、1547-1622)。長益。織田信秀の11男、織田信長の実弟。豊臣秀吉側室・淀殿の叔父。1582年、甲州成敗で、わずかの手勢で松本城を落とした。 同年、本能寺の変では、信長嫡男・信忠とともに二条御所に籠城する。御所は炎上し、信秀は自刃する。有楽斎は安土へ落ち延びたという。変後、臣下の豊臣秀吉に仕える。御伽衆となり摂津を領した。1590年、剃髪し有楽と号した。1594年、秀吉の前田利家邸への御成に際し、室礼などを指導した。1600年、関ヶ原の戦では徳 川方に属し、大和で石を与えられた。1614年、大坂冬の陣で大坂城に入り、家康との講和斡旋を続けた。その後、二条に隠棲する。1615年、大坂冬の陣には加わらなかった。1618年、建仁寺に正伝院を再興して移る。北に退隠所を建てて住んだ。
 茶の湯は利休に学び、利休十哲の一人、後に有楽流が開かれ祖になる。キリシタンであり洗礼名はジョアン、有楽斎如庵(うらくさいじょあん)などとも号した。東山で没し、正伝院に葬られた。
祇園町南側
◆有楽斎の墓 有楽斎の墓にまつわる逸話がある。
 当初、有楽斎の墓は正伝院((祇園町南側)に立てられた。現在の、有楽稲荷明神背後付近という。有楽、夫人、娘、孫・長好の墓があった。
 近代になり正伝院は廃寺になる。寺は、永源院に統合され、寺号も正伝永源院に改められる。墓は旧地(祇園町南側)にそのまま残されていた。
 正伝院跡には次々と祇園甲部の茶屋が建てられる。茶屋は、やがて墓の周りを取り巻いた。
 ある茶屋棟上の前夜に、不審火があった。茶屋は焼失する。炎中に、大入道(有楽斎の霊とも)が現れたとの噂がたったという。
 1962年、墓は現在地の正伝永源院の一角に遷された。この時、墓下に2つの素焼きの壺があった。まだ、有楽斎夫妻の遺骨の一部が残されていたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『京都・山城寺院神社大事典』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『稲荷信仰と宗教民俗』


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map 有楽稲荷大明神 〒605-0074 京都市東山区祇園町南側570-170  
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