菊水井跡・大黒庵跡(武野紹鸚邸跡) (京都市下京区)
Kikusui-i (well)
菊水井跡・大黒庵跡(武野紹鸚邸跡) 菊水井跡・大黒庵跡(武野紹鸚邸跡)
50音索引  Home 50音索引  Home

大黒庵武野紹鸚邸跡の碑と井戸跡


「大黒庵武野紹鸚邸」の石標


「菊水の井」


説明板

 四条室町上った菊水鉾町に、「大黒庵武野紹鸚(鷗)邸跡」の石標と井戸跡「菊水井(きくすい い)」が残されている。
◆歴史年表 室町時代、この地は夷町と呼ばれ、夷社が祀られていた。境内(現在の金剛能楽堂内)には名水といわれた「菊水の井」があったという。
 室町時代末、茶人・武野紹鴎(たけの じょうおう、1502-1555)が、24歳-36歳まで境内の南隣に住んだ。茶亭「大黒庵」を結ぶ。庵名は、恵比寿(夷)、大黒の二福神に掛けたともいう。紹鴎は、手洗井戸「菊水」を愛したという。
 現代、2007年、石標が立てられ、井戸跡が再現された。この地でのビル建設に際し、井戸遺構である井桁組などが発見されたことによる。
◆菊水 菊水の名の由来は、能楽「菊慈童」、謡曲「枕慈童」、『太平記』にある。
 枕慈童(菊慈童)という中国の仙人は、菊咲き乱れる場所に700年間も生きたという。その枕には『法華経』が書いてあり、菊の葉に経文を写して川の流れに浮かべた。雫は不老不死の薬になったという。このことから、菊水が長寿の象徴とされた。
 井戸の菊水については、牛王地社跡(東山区下河原町)の民家にも残されている。この井戸は、三条小鍛冶が刀を鍛えた井水であるという。
 祇園祭の菊水鉾の名の由来も、この菊水井にある。鉾は、江戸時代末、1864年の大火で焼失し、1952年に再建されている。
◆武野紹鷗 室町時代の茶人・富商・武野紹鷗(たけの じょうおう、1502-1555)。新五郎。法号は紹鴎、道号は一閑、大黒庵と号した。堺の生まれ。父は信久、母は大和の豪族中坊氏の娘。若狭の守護大名・武田氏の一族であり、祖父・仲清は応仁・文明の乱(1467-1477)で戦死、父・信久は泉州堺に移り、姓を武野に改めたという。舳松(へのまつ)町に住み皮革を家業にした。連歌を志し上京する。24歳の時、父は四条室町上ル夷堂の隣(現在の金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、「大黒庵」と号した。1528年以降、公卿・歌人・三条西実隆に師事した。32歳で剃髪、大徳寺・古岳宗亘に参禅したという。36歳で父、師を失い、大林宗套により堺・南宗寺が建立された。
 茶は村田珠光の「侘び茶」、十四屋宗陳(もずやそうちん)、十四屋宗悟に学ぶ。茶道は禅から起こり、茶の湯が求めることは、禅と同一とする「茶禅一味」を唱えた。茶の湯の簡素化し、小座敷の数寄屋を考案した。門人に千利休、津田宗及、山岡宗無、女婿・今井宗久などがある。なお、「大黒庵」の遺構は、堺・南宗寺の天慶院「大黒庵」になるという。
 墓は堺・臨江寺にある。織田有楽は建仁寺・正伝院(正伝永源寺)(東山区)に供養塔を立てた。 


*参考文献 説明板、『京都 歴史案内』『京都大事典』『京都史跡事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」 、ウェブサイト「コトバンク」   


関連・周辺      周辺      関連大徳寺     関連正伝永源院〔建仁寺〕    関連芳春院〔大徳寺〕     
菊水井跡・大黒庵跡(武野紹鸚邸跡)  京都市下京区菊水鉾町,四条室町上ル   
  Home     Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光