両足院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) 
Ryosoku-in Temple
両足院 両足院 
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本堂(方丈)は、室中に二重格天井、蟻壁を備え、内陣に本尊「阿弥陀如来立像」を安置


本堂




瓦の月星紋








方丈東の庭園



方丈南の庭園



府指定名勝の「書院前庭」



茶室から見た「書院前庭」



半夏生、白い部分は花ではなく実は葉であり、葉の付け根から垂れている黄緑の房状のものが花になる。
夏至の前後に花をつけるという。花が終わると葉は再び緑色に変化するという。



坪庭「閼伽井庭」



もう一つの坪庭



「水月亭」


 建仁寺境内の西に塔頭・両足院(りょうそくいん)がある。「学問寺」として、また、「饅頭始祖の寺」、庭園は「半夏生(はんげしょう)の庭」としても知られ「三白草(みつじろぐさ)の寺」ともいわれている。 
 臨済宗建仁寺派。本尊は阿弥陀如来立像。
 御朱印が授けられる。初夏特別拝観、特別拝観・予約拝観限定の御朱印がある。
◆歴史年表 鎌倉時代、龍山徳見(りゅうざん とっけん、1284-1358)が知足院(知足庵)を創建した。
 1358年、龍山徳見が亡くなり、知足院(知足庵)に葬られる。
 室町時代、五山文学の建仁寺友社になる。
 1398年、龍山徳見弟子・天祥一麟は建仁寺焼失後、興禅護国院再建のために知足院境内を北に移す。この時、龍山の卵塔も遷される。
 1428年、両足院は、徳見の弟子で3世・文林寿郁(ぶんりん じゅいく)により創建された。寿郁は、饅頭の祖・林浄因の孫にあたる。開基は龍山徳見による。当初は、建仁寺開山堂・護国院の中にあり、知足院の別院、あるいは同じ法系で受け継がれる徒弟院(つちえん)とされた。
 1464年、足利義政が知足院の所領安堵する。
 1478年、足利義政が知足院の所領、末寺など返付する。
 天文年間(1532-1554)、1552年とも、焼失した。
 天文年間(1532-1554)、再建される。その際に、知足院と両足院は併合になり、両足院と称した。
 1589年、一華院が両足院の配下になる。
 安土・桃山時代-江戸時代、8世・利峰東鋭(りほう とうえい)の代まで、主に林浄因の子孫により法灯が護られた。
 安土・桃山時代、1589年、1552年とも、7世・梅仙東逋(ばいせん とうほ)の時、塔頭・一華院を併合している。
 江戸時代、寛永年間(1848-1854)、15世・荊叟東ぶん(「ぶん」は王+文)により再建された。
 1848年、本院が改造された。
 近代、1872年、浩養院を併合した。
 1888年、毘沙門堂を庫裡南に新築する。
 1909年、境内東北隅に、大村彦太郎寄進の「水月亭」の建築を始める。薮内家11代・透月斎が庭園修理を指導する。
 1922年、毘沙門堂を庫裡南より境内西北方に移転する。
 1926年、大村家より高台寺にあった茶席「臨池亭」を寄進され、移築する。
 現代、1948年、太平洋戦争に際して、防火予防のため天井張り替え、修理を行う。
 1950年、茶席「水月亭」が風害を被ったため修復する。
 1951年、毘沙門講を組織する。
 1953年、台風により、毘沙門堂西北隅の土塀、石崖が崩壊する。
 1954年、土塀、石垣の修復をした。
 1985年、庭園が京都府指定の「名勝庭園」になる。
 1987年、書院、庫裏を全半焼する。
 2007年、玄関庇、唐破風門屋根、くぐり門屋根、庭小門屋根、茶室屋根などの修復、方丈壁塗り、方丈内戸帳、打敷を新調した。
◆龍山徳見 鎌倉時代の僧・龍山徳見(りゅうさん とくけん/とっけん、1284-1358)。下総国に生まれた。鎌倉・寿福寺の寂庵上昭に師事し出家、円覚寺の渡来僧・一山一寧(いっさん いちねい)に参禅する。1305年、元に渡り、天童山の東岩浄日、古林清茂などに参禅。黄龍、栄西などに臨済宗を学び、兜率寺に住した。当時、中国で衰微していた臨済宗黄龍派を中興した。元での40年の滞在の後、1349年、帰国、足利尊氏の弟・足利直義の招きにより、建仁寺35世、天龍寺、南禅寺に住した。漢詩文優れた。
 病いとなり死期を悟った徳見は、建仁寺に赴き、自ら墓穴を掘り、甕を埋めたという。天龍寺で没後、その遺言に従い知足院に葬られたという。諱名は真源大照(しんげん たいしょう)。
◆文林寿郁 室町時代の臨済宗の僧・文林寿郁(ぶんりん じゅいく/じゅいつ、1428-?)。宋人・林浄因の曾孫。知足院3世。1428年、両足院を創建した。建仁寺137世。
◆雲外東竺 江戸時代の臨済宗の僧・雲外東竺(うんがい とうちく、?-1673)。1673年、碩学禄を受ける。延宝年間(1677-1679)以酊庵22世、輪住する。1685年、建仁寺310世、1690年、南禅寺による号を賜る。
◆荊叟東玟 江戸時代の臨済宗の僧・荊叟東玟(けいそう とうぶん、?-1886)。以酊庵82世、3度(1843年、1854年、1864年)輪住した。嘉永年間(1848-1854)両足院15世となり、再建する。1868年建仁寺352世、1872年、建仁寺派初代管長就任。  
◆三輪執斎 江戸時代の儒者・三輪執斎(みわ しっさい、1669-1744)。京都生まれ、19歳で江戸・山崎闇斎の高弟・佐藤直方より朱子学、後に陽明学を学ぶ。上野・厩橋藩に仕えた。京都を経て、江戸に学舎明倫堂を設立、子弟を教えた。陽明学の普及に尽力した。和歌に秀でた。
◆末次平蔵 安土・桃山時代-江戸時代の貿易商・代官・末次平蔵(すえつぐ へいぞう、?-1630)。博多の生まれ。1571年頃、長崎に移り、長崎貿易に関わる。1616年、代官の村山等安を幕府に告発した。1618年、長崎代官に任命され、外交、貿易、市政に関与した。1628年、関税を巡る紛争、台湾事件(浜田弥兵衛事件)により狂死した。
◆大村彦太郎 江戸時代の商人・大村彦太郎(おおむら ひこたろう、1636-1689)。長浜村生まれ。1651年頃、京都に材木店を出店、1662年、江戸の通町に小間物店を出す。江戸の呉服問屋「白木屋」は、東急百貨店日本橋店の前身になる。
◆藪内竹心 江戸時代の茶人・藪内竹心(やぶのうち ちくしん、1678-1745)。茶道藪内流5代紹智。美濃大垣の儒者、京都の医家、4代剣渓紹智の子とも。利休への回帰を説き「真仰状」を創始した。藪内流中興の祖。
◆知足院・也足院・両足院 龍山徳見の弟子・天祥一麟は、知足院の北に也足軒を創建した。知足院の寮舎が也足院だった。また、塔頭・霊泉院(後に廃寺)も創建している。
 龍山徳見は兜率(とそつ、知足の意味)寺に住したことから知足院と命名したという。両足院への寺名改称の一因として、「知足」が当時の第105代・後奈良天皇の実名「知仁」と重なり、これを避けた「避諱」(ひき)によるともいう。なお、両足院の「両足」とは、仏の別称「両足尊」に因むという。また、知足院と也足院の、「二つの足」に因み両足院になったともいう。
◆学問面 「学問面」といわれる建仁寺にあって、両足院は、室町時代中期までは同じく臨済宗建仁寺派の霊源院(東山区)と共に、「五山文学」の最高峰の寺院だった。江戸時代にはその中核を担う。10世・雲外東竺は、学徳優れた僧に与えられ、最高の名誉とされた「碩学禄」(奨学金)を授与されている。
 両足院は、数多くの建仁寺住持を輩出している。
◆以酔庵修簡職 五山のうち、南禅寺を除く天龍寺、相国寺、東福寺、建仁寺からは、対馬に輪番で僧が派遣されていた。対州修文職(以酔庵修簡職)と呼ばれ、2年の任期(当初は1年)で朝鮮との外交官の役割を担った。外交文書の交信、朝鮮通信使の応接などがその役目だった。
 かつて、対馬太守・宗義調(宗氏16代)の請に応じ、博多・聖福寺の景徹玄蘇が、対馬に開いた禅寺「以酊庵(いていあん)」に始まる。その後、豊臣秀吉、徳川家康の命により、朝鮮との外交文書を取り扱うようになる。1635年より住持を輪番制として、京都五山の塔頭から碩学が選ばれるようになった。
 1580年から1866年まで、87人、のべ126人、建仁寺からは18人が対馬に赴いた。同一人が再任されることもあり、輪番後は、碩学料として米100俵が支給された。両足院からは、12世・雲外東竺、15世・荊叟東ぶん、13世・高峰東晙、14世・嗣堂東緝らの住持が任に就いている。
◆饅頭 饅頭(まんじゅう)は、南北朝時代、1349年、禅僧の龍山徳見が元より帰国した際に連れてきた宋人・林浄因(りん じょういん)により日本にもたらされたという。林は徳見の俗弟子であり、浙江省杭州出身だった。
 中国の本来の饅頭(まんとう)は肉饅頭を意味した。日本では肉食が許されない僧のために、饅頭は茶菓子として工夫される。小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加え、餡を皮に包んで蒸した。この今日の饅頭が新案された。形は、山房の傍の庵蔓樹の実を模したという。
 林浄因は、奈良に住し、日本で初めて餡入りの饅頭を作る。林家は、奈良・漢国神社(奈良市漢国町)近くに饅頭屋を開く。やがて饅頭は、寺院に集う上流階級の間で評判になる。室町時代、1460年、4代・惟天盛祐は京都に移った。以来、林家は、奈良の林家(南家)と京都の林家(北家)に別れる。
 室町時代、1467年、京都の林家は、応仁・文明の乱(1467-1477)の戦火を逃れ、親戚のある三河国設楽郡塩瀬村に移る。この地の豪族・塩瀬(しおせ/しおぜ)家を頼り疎開し、姓も「塩瀬」に改めた。1477年、乱後、塩瀬家は京都に戻り、屋号を饅頭屋「塩瀬」として烏丸三条通下るに饅頭屋の店を構えた。
 新たに饅頭の皮に山芋を混ぜて膨らす、「薯蕷(じょじょ)饅頭(上用饅頭、塩瀬饅頭)」の製法を輸入する。宮中、将軍家に出入りを許され、繁盛する。周辺の町名は饅頭屋町と呼ばれた。室町時代の第103代・後土御門天皇に献上、8代将軍・足利義政より、「日本第一番 本饅頭所 林氏塩瀬」の看板を贈られた。饅頭は、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康にも愛されたという。
 江戸幕府開闢とともに、塩瀬家の源譽宋需は江戸に移る。徳川家康と林家(塩瀬家)は縁があったという。1615年の大坂夏の陣で、真田幸村に攻められた家康が逃げ込んだ先が、林浄因の奈良の居宅だったという。また、1659年、塩瀬清兵衛は江戸(日本橋一丁目)に店を出し、江戸城の御用を承る。近代、1868年、宮内省御用になった。
 江戸時代、1798年に京都の塩瀬家は廃絶した。江戸の「塩瀬総本家」は、いまも営業を続けている。林浄因は、奈良・漢国(かんごう)神社境内社の林神社に祀られた。林家後裔からは五山僧も多く輩出している。天正年間(1573-1592)、塩瀬家より、両足院住持を出している。
 なお、饅頭の日本での起源について、南宋より帰国した臨済宗の僧・円爾(えんに)によるともいう。鎌倉時代、1241年に博多・承天寺を創建した際に、茶屋主人に伝授したともいう。
◆仏像 本尊の木造阿弥陀如来立像は、鎌倉時代、13-14世紀頃の作、十一面観音菩薩立像は、桃山時代、江戸時代、16-17世紀頃の作。
◆建築 方丈、書院は江戸時代、寛永年間(1624-1643)に再建された。
◆毘沙門天 両足院の北に隣接する毘沙門天堂には、本尊の毘沙門、脇仏に魔王、不動明王が安置されている。
 毘沙門天像(7cm、5cmとも)は、かつて鞍馬寺毘沙門天の胎内仏だった。戦国時代、織田信長による比叡山焼き討ち(1571)の際に、鞍馬の僧が、室町将軍の茶家・比喜多養清宅に疎開させた。
 関ヶ原の戦(1600)では、関東方の黒田長政が出陣する際に、この尊像を内兜に納めて勝利したという。その後、黒田家代々で信仰された。近代以降、1877年頃、仏具類とともに当院に寄進された。
 毘沙門天は、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就などの功験がある。戦前は祇園の芸妓・舞妓に、「祇園の縁結び」としても知られていた。
 狛犬も寅、香炉にも寅が設えられ、寅年生まれの守り本尊となっている。1月8日に毘沙門講正月会、2月3日に毘沙門講節分会、10月 5日に毘沙門講秋季大祭が催される。
◆庭園 庭園は、300坪の広さがあり、四面ある。「方丈前庭(東庭)」は、桃山時代作庭の枯山水式、「唐門前庭」は白砂青松の庭、「閼伽井庭」は坪庭になっている。
 府指定名勝の「書院前庭」は、池泉回遊式観賞庭園で、10世・雲外東竺の元に参禅した茶道の薮内流5代・竹心紹智(1678-1745)の作庭による。また、茶室「臨池亭」「水月亭」の露地も兼ねている。水字形の細長い池があり、周囲にさまざまな植栽、石組、飛石、石橋が見られる。池を挟み2基の灯籠が呼応するように立てられている。
 ドクダミ科の植物、半夏生(はんげしょう)の庭として知られ、池傍に植栽されている。暦の半夏生は、七十二候の一つで、かつては夏至から11日目とされ、現在では7月2日頃にあたる。多年性植物のハンゲショウは、半夏生、半化粧とも記される。夏至を過ぎた頃に穂状の花をつけ、葉の表面が白くなり、花弁のように見せる。
◆茶室 左の茶室「水月亭(すいげつてい、暦の席)」がある。大名・茶人の織田有楽斎好みの正伝寺の茶室「如庵(じょあん)」(国宝)の写しになる。1912年(1910年とも)に建立された。東京に移された茶室を偲んで建てられている。三畳半台目下座床。腰張には中国の暦を使う。室内を広く見せるため、床の間の脇に三角形の鱗(うろこ)板を入れ、斜めの壁を作る。中柱に続く板壁の火灯形の刳り貫き、掛込天井が特徴になる。如庵との違いは、道庫がなく、有楽窓に代わり下地窓が開けられている。水屋(3畳)に物入、板間の流しがある。
 安土・桃山時代-江戸時代初期の織田有楽(うらく)は、織田信長の実弟で、利休七哲の一人だった。茶道有楽流を創始する。建仁寺の正伝院を再興、茶室「如庵」を建てた。
 右に隣接する「臨池亭(りんちてい)」は、近代の実業家・大村梅軒(彦太郎)好みの六畳席になる。1926年、高台寺別邸にあった同家の茶席「臨池亭」を寄進し移建した。広間の席(6畳)、控室(2畳)、水屋がある。
◆文化財 紙本墨書「両足院文書」(鎌倉時代-江戸時代)。
 紙本木版として、朝鮮時代「仏説預修十王生七経・仏説寿生経」、明時代「三国志伝」、南北朝時代(1358)「景徳伝燈録(五山版)」、南宋時代(13世紀)「東坡集」。
 室町時代(14-15世紀)、鹿苑院の絶海中津(1336-1405)賛の紙本著色「明庵栄西像」は現存最古の肖像画になる。
 室町時代(1407)の紙本淡彩「明庵栄西像」。
 室町時代(15世紀)の伝・如拙筆、紙本墨画「三教図 罕謄叟・正宗龍統賛(217世)」(重文)は、孔子、釈尊、老子を描き、いずれの教えも同じものであると説く。京都国立博物館寄託。
 1607年の長谷川等伯筆、紙本墨画「竹林七賢図屏風」六曲一双は、動乱を避け、竹林に集った7人の士大夫を描く。伝・長谷川等伯筆「水辺童子図」。
 江戸時代(18世紀)の伊藤若冲筆、絹本著色「雪梅雄鶏図」は冠雪した梅の木、寒椿と雪、雄鶏を赤(椿、鶏冠)と白(雪、羽)の対比で描いている。
 安土・桃山時代(17世紀)、雲谷等顔筆、紙本墨画「達磨図」。室町時代(1526)、紙本著色「布袋図 月舟寿桂賛」。
 漢籍、朝鮮本、「対馬行列図」など朝鮮通信使関連資料、陶磁器など多数。
◆障壁画 本堂に安土・桃山時代(17世紀)、長谷川等伯筆紙本墨画「松に童士図(水辺童子図襖)」。
◆墓 400坪の墓地がある。江戸時代初期の朱印船貿易商人・長崎代官、末次平蔵(政直、1546-1630)。江戸時代の朱子学・陽明学者の三輪執斎(1669-1748)。江戸時代の商人で、後に百貨店となる白木屋創業者の大村彦太郎(1635-1689)とその一族の墓。
 饅頭の始祖・林浄因、塩瀬家にちなみ、「饅頭屋町合塔碑」(1931)がある。
 藪内茶道の薮内家中興である5代・藪内竹心。
◆修行体験 定期坐禅会(水月会)(毎月第1日曜日の8:00-9:15)。
 ほかにも坐禅・精進料理、禅寺体験(修行僧体験、読経、作務・清掃)、坐禅・養生法(個人向け)、坐禅・ヨガ(個人向け)などが行われている。 
◆年間行事 本山開山忌(6月5日)、特別拝観(限定の御朱印が授与される。)(6月中旬)、菓匠会法要(9月彼岸)、饅頭祭(碑の前で紅白饅頭を配る)(10月初旬)、開山龍山徳見禅師忌(10月13日)、特別拝観(11月中旬より)。
 坐禅が体験できる。


*普段は非公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『建仁寺』『京都の禅寺散歩』『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』『京都古社寺辞典』『京都秘蔵の庭』『京の茶室 東山編』『京都府の歴史散歩 中』『京都はじまり物語』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京都の隠れた御朱印ブック』


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「臨池亭」

茶席で出される月星紋の饅頭

墓地入口

門前に立つ、江戸時代の朱子学・陽明学者の三輪執斎の墓の碑
 両足院 〒605-0811 京都市東山区小松町591,大和大路通四条下る4丁目  075-561-3216
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