|
|
善峯寺 (京都市西京区) Yoshimine-dera Temple |
|
善峯寺 | 善峯寺 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 常夜灯、石標 ![]() 山門(仁王門) ![]() ![]() 山門 ![]() 山門 ![]() 山門運慶作・金剛力士 ![]() 山門 ![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() 観音堂(本堂) ![]() ![]() 遊龍の松(天然記念物) ![]() 多宝塔(重文) ![]() 経堂(転輪蔵、絵馬堂) ![]() ![]() 桂昌院手植えという枝垂れ桜 ![]() 十三仏堂 ![]() 参道石段の紅葉 ![]() 護摩堂 ![]() 阿弥陀堂 ![]() 釈迦堂 ![]() 薬湯場 ![]() ![]() ![]() ![]() 奥の院薬師堂 ![]() 参道 ![]() 本坊 ![]() ![]() ![]() つりがね堂 ![]() 開山堂 ![]() ![]() ![]() 幸福(しあわせ)地蔵 ![]() 幸福地蔵、桂昌院が祈願したという300年前の地蔵。 ![]() ![]() ![]() ![]() 白山名水 ![]() 白山名水 ![]() 白山名水 ![]() 白山名水 ![]() 稲荷大明神 ![]() ![]() 蓮華寿院庭 ![]() 青蓮の滝 ![]() ![]() 紅葉の頃の境内 ![]() 京都市内の眺望 ![]() ![]() 中央が証空善恵上人墓 ![]() 開基源算ほか歴代住持の墓 ![]() ![]() 青蓮院の宮御廟、青蓮院の法親王で、後に善峰寺蓮華寿院住持となった歴代の墓。覚快、道覚、慈道、尊円、尊道の五法親王の墓。 ![]() 桂昌院廟所、江戸時代、1705年、遺髪を納める。 ![]() 桂昌院像、けいしょう殿 ![]() 本庄家一族の塔、桂昌院実弟、岡幡守宗資ほかの墓 ![]() 西山古道、三山を結ぶ信仰の道、案内図より ![]() 西山古道、柳谷観音へ向かう道。 |
善峯寺(よしみね-でら)は、釈迦岳(631m)の山頂、中腹に位置し、所有地36万坪(119万㎡)、境内地3万坪(10万㎡)の広大な敷地がある。 「善峯さん」「松の寺」とも呼ばれた。中世(鎌倉時代-室町時代)には「西山宮」「西山御坊」と呼ばれる門跡寺院であり、50余りの伽藍が建てられていたという。山号は西山(にし-やま/せい-ざん)という。 天台宗単立寺院、延暦寺町寺。本尊は十一面千手観世音菩薩。 「西山三山(ほかに光明寺、楊谷寺)」の一つ。千手観音は西国三十三所巡礼第20番札所。洛西三十三所観音霊場第1番札所。神仏霊場会第85番、京都第5番。 神経病平癒、腰痛平癒、入学成就、当選などの信仰も集める。御朱印(4種類)が授けられる。 ◆歴史年表 平安時代、1029年/1030年/1005年/1042年、天台僧・源算(げんさん)が夢告により西山に登り、小堂「阿智坂の法華院」を建てた。自刻の十一面千手観音を祀ったことに始まるという。(『西山善峯寺略縁起』『元亨釈書』) 1030年、竣工した。 1034年/1036年、第68代・後一条天皇より「良峯寺」の寺号を贈られ、鎮護国家の勅願所になった。 1042年/1043年、第69代・後朱雀天皇の夢告により、洛東・鷲尾寺に安置されていた本尊・千手観音が遷された。(『西山善峯寺略縁起』)。千手堂が建立され像を安置する。 1053年、第70代・後冷泉天皇皇子・尊仁親王(後の第71代・後三条天皇)の后・藤原茂子が、難産のために当寺の本尊に祈願した。貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生した。このため、後に後三条天皇は、報恩のために本堂ほか堂舎を建立した。寺は全盛になり、52の僧房堂塔(本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守社)を有する大寺院になる。 1068年、大旱魃があり、源算の祈祷と、本尊の霊験により慈雨が降ったとされる。第68代・後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されたという。 1176年、観性は蓮華寿院の傍らに法華堂を建て、一夏90日の読誦を行う。 鎌倉時代、1185年、源頼朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を当山の観性法橋が務めた。頼朝は、寺領、運慶仏師作、執金剛神像などを当寺に寄進した。 1192年、慈鎮の時、第82代・後鳥羽天皇により「良峯寺」を「善峯寺」と改められた。勅額宸筆を下賜し官寺になる。 1221年、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府に対して、討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱で、後鳥羽天皇皇子・道覚法親王が当山に逃れた。法親王は、天台座主、青蓮院門跡に就く。(『華頂要略』) 1243年、道覚法親王により、水無瀬離宮にあった後鳥羽上皇の御願寺・蓮華寿院の本尊、堂舎などは吉峯寺に移された。 第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)の勅願所になる。 第90代・亀山天皇皇子・慈道法親王(1282-1341)、第92代・伏見天皇皇子・尊円法親王(1298-1356)などが住持になる。この頃、西山宮(にしやま-の-みや)と呼ばれた。(『雍州府志』) 南北朝時代、1353年、武将・山名時氏、丹波守護・高師詮の合戦により焼失している。(『常楽記』) 室町時代、1399年、第100代・後小松天皇は乙訓郡坂本、長峯、灰谷などの地を施入した。 1418年、足利4代将軍・義持は寺領を安堵する。(「善峯寺文書」) 1432年、6代将軍・義教により寺領の安堵を受けた。(「善峯寺文書」) 1499年、第102代・後花園天皇は宸翰を下賜し、伽藍を改築し観世音菩薩を深く崇敬した。僧坊は52を数え、西山随一になったともいう。 応仁・文明の乱(1467-1477)で大半の坊舎が焼失した。その後、荒廃し、寺坊の多くを失う。7房にまで減じ荘園も失う。 安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉の庇護を受ける。 江戸時代、伽藍10ほど、7坊が復興される。 1621年、現在の多宝塔が再建された。 元禄年間(1688-1704)、5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院は当寺に帰依した。寺領寄進し、堂宇の再建を行う。現在の建物の多くはこの時に再建された。 1673年、阿弥陀堂が建立される。 1691年、桂昌院は本庄因幡守を監督役とし、善峯寺全山の伽藍を改築した。 1692年、桂昌院により山門が再建される。 1697年、綱吉より乙訓郡久世村上里村の200石・山林42万524坪の寺領朱印が出された。 1685年、桂昌院により釣鐘堂が再建された。 1701年、薬師堂が建てられる。 1705年、経堂が建てられた。 1857年、花山院前右大臣・家厚が「遊龍の松」と名付ける。 近代、明治期(1868-1912)、神仏分離令(1868)後に一坊に統合された。 1876年、神仏分離令(1868)後に、覚快・道覚・慈道・尊円・尊道五親王の尊牌が、吉峯寺より泉涌寺(東山区)に遷された。 1885年、釈迦堂が建立される。 大正期(1912-1926)-昭和期(1926-1989)、小川治兵衛により境内全体の庭園整備が行われる。 現代、1977年、多宝塔が重要文化財に指定された。 1987年、けいしょう殿が建立される。花山法皇中興千年記念として、西国三十三カ所巡礼が再興される。 1994年、遊龍の松の一部が松くい虫の被害により伐られる。 2000年、文殊寺宝館が建立された。 ◆源算 平安時代中期-後期の天台宗の僧・源算(げんさん、982/1000-1099/1107)。男性。俗姓は大中臣氏。因幡(島根県)の生まれ。月足らずで生まれ捨て子になる。3日経っても生を保っていたため、拾われ育てられたという。991年、9歳の時、 比叡山首楞厳院(しゅりょうごんいん)の恵心僧都・源信の徒弟に入り、 995年、13歳で剃髪受戒した。一時還俗した。45歳で、娘の死にあい、再び出家した。師の西方浄土の思想により、1029年/1030年、西山・良峰に小堂「法華院」を建て、良峯寺(善峯寺)の開山になる。1074年、比叡山の天台僧・源算が吉峯の北尾に草庵を結び、往生院(北尾往生院)とし隠遁生活を送った。117歳?。 ◆仁弘 平安時代後期の仏師・仁弘(?-?)。詳細不明。安居院(あぐい)仁弘法師。洛東・鷲尾(わしのお)寺の千手観世音菩薩像を造仏したという。1042年/1043年、観音像は吉峯寺に遷された。 ◆藤原茂子 平安時代後期の藤原茂子(ふじわら-の-もし/しげこ、?-1062)。女性。父・藤原公成(きんなり)。藤原能信(よしのぶ)の養女。第71代・後三条天皇の御息所(みやすどころ)になる。1046年、東宮妃になり、滋野井御息所と称された。第72代・白河天皇、聡子、俊子、佳子、篤子の4内親王を産む。後三条天皇の即位に先立ち死去した。 贈従二位、のち贈皇太后。 ◆慈円 平安時代後期-鎌倉時代前期の天台宗の僧・歌人・慈円(じえん、1155-1225)。男性。吉水僧正、諡号は慈鎮。父・公卿・藤原忠通、九条兼実の弟に当たる。覚快法親王に師事し、明雲、全玄に学ぶ。4度天台座主になり、無動寺検校、四天王寺別当などを歴任した。観性を頼った慈円が、吉峯寺の中尾・蓮華寿院に移っている。頼朝と親交あり、1192年、頼朝が征夷大将軍になると、天台座主になり、鳥羽上皇より「良峯寺」を「善峯寺」と改める寺額を贈られ官寺になる。頼朝より、越前国藤島庄の寺領を寄進された。71歳。 9歳の親鸞の得度に際して、その剃髪の師になる。晩年には吉水に、法華懺法の専門道場、大懺法院を開いた。歴史書『愚管抄』を著し、『新古今和歌集』に92首載る。善峯寺3世。遺命により善峯寺御陵に分骨埋葬された。 ◆観性 平安時代後期の天台宗の僧・観性(かんしょう/かんせい、?-?)。男性。父・美作守・藤原顕能、葉室(はむろ)中納言顕隆の孫、天台座主・権僧正顕真の弟。法橋と呼ばれた。1161年、往生院(三鈷寺)に仏眼曼荼羅、釈迦・阿弥陀如来像を安置し再興した。観性を頼った慈円が、当山中尾・蓮華寿院に移る。1185年/1189年、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、供養の導師を務めた。頼朝は観性を崇敬し、運慶仏師による二十八部衆金剛力士などを善峯寺に寄進している。 善峯寺を中興し、2世とされる。 ◆証空 平安時代後期-鎌倉時代中期の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。男性。房号は善恵、善恵房証空、鑑知国師、西山国師。父・加賀・源親季、内大臣・久我通親の猶子。1190年、14歳で出家し、浄土宗開祖・法然の弟子になる。浄土宗の教義を学び、円頓菩薩戒も相伝した。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が著した『選択本願念仏集』の勘文役の一人になる。1199年、師に代わり、関白・九条兼実に同書を講じた。日野の願蓮に天台学、政春に台密を学ぶ。1204年、法然が『七箇条起請文』を記した時、4番目に署名した。1207年、承元の法難の際に、兼実の弟・青蓮院門跡の慈円に預けられ遠流を免れた。1212年、法然の死去により、善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、やがて道覚法親王に譲る。慈円から北尾往生院(三鈷寺)を譲り受けて移った。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれる。1229年、奈良・当麻寺の観経曼陀羅に感得した。1243年、第88代・後嵯峨天皇に円頓戒を授け、その勅により歓喜心院を創建する。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。著『観門要義鈔』など。白河・遣迎院で亡くなる。70歳。 門弟により遺骸は西山三鈷寺の華台廟に葬られた。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院などがある。 善峯寺では宗風弘通に務め、流派は浄土宗西山派と呼ばれた。浄土宗西山(せいざん)義の派祖になる。西山四流には、高弟の法興浄音(ほっこう-じょうおん)、円空立信(えんくう-りゅうしん)、観鏡証入(かんきょう-しょうにゅう)、道観証慧(どうかん-しょうえ)がいる。 ◆道覚法親王 鎌倉時代中期の道覚法親王(どうかく-にゅうどう-しんのう、?-?) 。男性。西山宮。父・後鳥羽上皇(第82代)、母・尾張局。1221年、承久の乱後に吉峯寺に逃れた。天台座主、青蓮院門跡に就く。1243年、水無瀬離宮にあった上皇の御願寺・蓮華寿院の本尊、堂舎などを吉峯寺に移した。47歳。 ◆桂昌院 江戸時代前期の3代将軍・徳川家光の側室・桂昌院(けいしょういん、1627-1705)。女性。おたつ、おあき、お玉、宗子、光子など。京都・大徳寺付近の生まれ。堀川通西藪屋町の八百屋・仁左右衛門の次女ともいう。父没後、母・鍋田氏は二条家の家司(けいし)・本庄太郎兵衛に嫁した。本庄氏の養女になる。伊勢内宮・慶光院住持(六条有純の娘・お梅)付女中になり、江戸下向に同行する。1639年、3代将軍・徳川家光側室・お万の方に仕える。春日局の部屋子として家光に見初められ側室になる。1646年、徳松(綱吉)を産む。1651年、家光没後に落飾し、筑波山知足院に入る。桂昌院と称された。1680年、5代将軍に綱吉が就くと、江戸城三の丸へ入った。三丸殿と称された。1702年、女性最高位の従一位の官位、藤原光子(宗子)の名を賜る。神仏を尊崇し、仏教に帰依した。僧・亮賢、隆光を信頼し、江戸に護国寺・護持院を建立する。生類憐み令を発案したともいう。諸国の寺社再興を援助した。墓は善峯寺(西京区)にもある。79歳。 ◆本尊 観音堂(本堂)に、二体の「十一面千手観世音菩薩」が安置されている。本尊と脇立になる。 ◈脇本尊「十一面千手観世音菩薩」は、平安時代後期、1029年に源算が小堂に自刻し本尊として安置したという。現在は、本尊左の厨子内に納められている。洛西観音霊場1番の本尊になる。 ◈現在の本尊「十一面千手観世音菩薩」(175.5㎝)は、平安時代後期の仏師・仁弘法師作という。かつて、洛東・鷲尾(わしのお)寺に安置されていた。第69代・後朱雀天皇の夢に現れたため、綸旨により平安時代後期、1042年/1043年に当寺に遷された。千手堂を建て安置したという。翻波式衣文、寄木造、漆箔、彫眼。西国20番の本尊になる。光背、台座は後補による。 この時、源算作の十一面千手観音は、脇立にされたともいう。 ◈観音像にまつわる伝承がある。賀茂社境内の畑地の苗は、一夜にして槻(つき、欅)になり、夜に光明を放った。革堂(こうどう)の行円が、この霊木を材に求めて本尊にした。また、安居院(あぐい)の仏師・仁弘は、その余材で千手観音を刻み、鷲尾寺に安置したという。(『西山善峯寺略縁起』) 第71代・後三条天皇皇后・藤原茂子が、本尊の「千手観音」に祈り、貞仁親王(後の第72代・白河天皇)を産んだという。また、平安時代後期、1068年の大干ばつでは、源算の祈祷と、本尊の霊験により慈雨が降り、「良峰」の勅額が授けられたという。 ◆仏像・木像 ◈山門の楼上に本尊「文殊菩薩」、脇に運慶作の「金剛力士像」2体を安置する。いずれも源頼朝(1147-1199)の寄進という。現在は文殊寺宝館に遷されている。楼下には金剛力士を祀る。 ◈阿弥陀堂に、本尊「宝冠阿弥陀如来」、徳川家累代位牌、信者位牌を安置する。 ◈護摩堂に、本尊「不動明王五大尊(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)」が安置されている。 ◈多宝塔に、「愛染明王像」が安置されている。 ◈開山堂に、「源算上人像」が安置されている。117歳の最晩年の姿という。 ◈釈迦堂に、「釈迦如来像」を安置している。国内ではほかに例がないという合掌姿をしている。 かつて、2㎞ほど離れた釈迦堂南嶺の釈迦岳(650m)山上に安置されていた。像は、平安時代の源算(げんさん、982-1099)作とされる。当時の住職の夢告に釈迦が立ち、「汝により下山せん」と伝えたという。 近代、1880年、像を遷そうとした際に、像から玉の汗が流れた。当時の住職はこれを霊液として、薬湯と合わせ参詣者に供した。湯は神経痛・腰痛に薬効あるという。 ◈奥の院薬師堂に、「薬師如来(出世薬師仏/出世薬師如来)」を祀る。桂昌院の両親が祈願し、子宝(桂昌院)を授かったという。 ◈「聖観音菩薩立像」は、平安時代作になる。 ◆建築 仁王門、本堂(観音堂)、宝物館、経堂、多宝塔、護摩堂、開山堂、薬師堂、釈迦堂、薬湯場、阿弥陀堂、本坊、けいしょう殿、鎮守社などが建つ。 ◈「多宝塔」(重文)は、江戸時代前期、1621年に28代・賢弘法師により再建された。山内現存最古の建物になる。下層は方三間、上層は円形の二層塔婆、下層軸部中央に板唐戸、両脇に連子窓、勾欄の付いた縁を廻らす。軒は二重繁垂木。 ◈「阿弥陀堂」は、江戸時代前期、1673年に建立された。常行三昧の道場で「常行堂」とも呼ばれる。 ◈「釣鐘(つりがね)堂(鐘楼堂)」は、江戸時代前期、1686年/1685年/1687年の建立による。桂昌院が徳川綱吉の厄除けのために寄進し、「厄除けの鐘」といわれる。梵鐘は、江戸時代前期、1687年の銘がある。 ◈「山門(仁王門/楼門)」は、江戸時代前期、1692年に桂昌院の寄進により再建される。 ◈「観音堂(本堂)」は、江戸時代前期、1692年に桂昌院の寄進による。入母屋造、瓦葺(以前は杮葺)。 ◈「護摩堂」は、江戸時代前期、1692年の建立による。桂昌院の寄進による。宝形造。 ◈「開山堂」は、江戸時代前期、1685年/1692年の建立による。京都市内を一望できる。 ◈「薬師堂」は、江戸時代前期、1701年に建立された。桂昌院の寄進による。現代、1988年に現在の地に移築された。京都市内を一望できる。 ◈「奥の院薬師堂」は、江戸時代前期、1701年の建立による。現代、1988年に現在地に移された。京都市内を一望できる。 ◈「経堂(転輪蔵、絵馬堂)」は、江戸時代前期、1705年の建立による。桂昌院の寄進だった。祈願成就の絵馬堂、桂昌院は鉄眼の一切経を納めた。転輪蔵は回転する仕組みに造られていない。 傅大士(ふだいし、中国南北朝時代、6世紀の僧)を祀る。鉄眼版一切経を納める。現在は祈願成就の絵馬奉納所として用いられている。 六角六柱、二重屋根。 ◈「釈迦堂」は、近代、1885年に建立されたという。 ◈「けいしょう殿」は、現代、1987年に建立された。花山法皇西国札所中興一千年を記念している。京都市街・東山などが一望できる。 ◈「納札所 」は、現代、1961年の建立による。 西国巡礼の札打ち場になっている。 ◆鎮守社 ◈ 鎮守社 4社(十三仏堂・ 弁財天堂・ 毘沙門堂・ 護法堂)は、江戸時代前期、1692年の建立による。 桂昌院の寄進であり、当山の守護神になる。 ◈ 「白山社」は、白山権現を祀る。 ◈ 「稲荷社」は、正一位稲荷大明神を祀る。 ◈ 「阿智坂明神」は鎮守社であり、バス駐車場東の地に祀られている。 ◆文化財 平安時代以来の約300点の什物(仏像・絵画・書跡・染織・陶器など)、重要文化財を所有している。一部は文殊寺宝館で定期公開されている。 ◈「法華経安楽行品」は平安時代作になる。 ◈絹本著色「大元帥明王軸」(重文)は、鎌倉時代作になる。京都国立博物館寄託されている。 ◈室町時代の「善峰寺文書」、「善峯寺曼荼羅」2幅(京都府指定文化財)。 ◈「四季繁昌絵巻」は江戸時代作になる。徳川綱吉・桂昌院により寄進された。ほか、「如法三衣」、「梨子地葵・繋九目紋蒔絵膳具」など100点以上ある。 ◈「漁家観楽ノ図」は、富岡鉄斎(1836-1924)筆による。 ◈「古清水色絵透彫牡丹唐草七宝繋文六角壺」は江戸時代作になる。 ◈ほか神坂雪佳(1866-1942)、山元春挙(1871-1933)などの作品がある。 ◆障壁画 本坊襖絵は片岡鶴太郎(1954-)筆の「游鯉龍門図」による。 ◆庭園 境内からは西の眺望が開けており、京都市内はもとより、北より鞍馬山、東方三十六峰、奈良の葛城山、山崎・天王山なども見渡せる。古くより「絶無の勝地」とされた。 ◈「蓮華寿院の庭」は、近現代、大正期-昭和期の池泉回遊式になる。作庭家・7代目・小川治兵衛(1860-1933)により、境内全体3万坪の庭園整備が行われた。歴代の法親王が住持をしていた西山宮・蓮華寿院跡地だった。慈鎮、証空、道覚入道親王など、多くの親王祖師の住坊があった。 薬師堂の移築後に作庭され、青蓮の滝も造られた。竿石は、青蓮院門跡より贈られたという。四季を通じて様々な草木が花開く。 ◈本坊に小川治兵衛の作庭による前庭がある。池泉があり、石組、橋、灯籠、楓などの植栽がある。(非公開) ◈白山 桜あじさい苑では、春はしだれ桜、夏は紫陽花が一帯を彩る。 ◆遊龍の松 「遊龍(ゆうりゅう)の松」(国指定の天然記念物)は、マツ科のゴヨウマツで樹齢600年という。江戸時代前期、元禄年間(1688-1703)に桂昌院(1627-1705)の手植えという。樹齢数百年の松の盆栽を寄進し植えしたともいう。 岩上のわずかな土に根を張っている。枝は2方向に直角に伸び、主幹が地を這うように伸びる姿は龍に譬えられた。江戸時代後期、1857年に、花山前右大臣家厚により「遊龍」と名付けられた。ゴヨウマツで枝を伸ばすのは珍しいという。かつては、東西に54mの長さがあった。現代、1994年に、松くい虫の被害により15mが伐られる。 なお傍らの石標は、近代、1893年に鳥尾中将の書による。江戸時代後期-近代の尼僧・歌人・大田垣蓮月(1791-1875)は、「世々を経て 光いやます 善峯の その玉松の むかしをぞ思ふ」と詠んだ。近代、1932年に天然記念物に指定されている。 高さ2m、東西の水平支幹は横40m/37m、南北に24mある。幹周り1.5m。 ◆創建の伝承 善峯寺の創建にまつわる数々の伝承がある。 ◈平安時代後期、1029年7月1日に、源算は、夢告により霊地を求めて西の山に入った。石の上で七昼夜の坐禅を行った。また、岩上で40日近く観念坐禅したという。 山が険しいため源算が休憩していると、一人の翁神が現れた。この地の地主と名乗り、名を阿智坂という。この霊地に一宇を草創するようにと告げ、この地を与え永く仏法を守ると伝えて消えた。 源算は伽藍を建て、本尊の十一面観世音菩薩を安置したという。 この鎮守である阿智坂明神は、バス駐車場東の地に祀られている。坐禅石(仙翁石)は、善峯寺バス停から山門に至る参道にある。 ◈源算は開山にあたり、仏法の弘通を祈るため、しばらく岩屋に籠った。7日目の夜に天魔が現れ、源算を妨げようと暴風雷雨を起こした。源算は利剣と念珠を持ち、孔雀不動の真言を唱えて三昧の境地に入った。鬼神が現れ、仏法の威力によって邪心を改めて、仏法の善神になり守護することを誓って去ったという。 ◈伽藍の工事は困難を極めた。山が険しく、岩にも妨げられたという。ある夜、源算の夢枕に異僧が現れ、建立の援助を告げたという。次の夜、数千頭もの野猪が岩を穿ち、土を負い、地を成らして基壇を造ることに加勢したという。(『元亨釈書』)。この場所に堂が建立され、法華院と号した。 ◈源算は干ばつの時に請雨法を修した。その地は「西滝」と呼ばれ、青龍が現れ大雨を注いだ霊蹟という。この霊験から勅命により善神龍王社が建立され、近代、1870年には弁天堂と改名された。 現在、源算の開山時に鬼神の去った西の地は、善神龍王の住む「魔鬼の尾(槇尾)」と呼ばれている。この地で雨を乞い祈ると、忽ちこの山より雲が出て雨を注ぐとされている。 ◆蓮華寿院 源算は『妙法蓮華経』を一字三礼し、6年間にわたり無言の行により写経し、蓮華寿院を建立したという。この旧跡は現在の薬師堂の西側に位置した。 平安時代後期、善峯寺は隆盛し、三尾(南尾・中尾・北尾)に分けられた。現在の本堂(観音堂)付近に南尾・法華院、薬師堂付近に中尾・蓮華寿院、北尾(現在は三鈷寺境内地)に往生院を中心として52坊を有していた。 平安時代後期、1176年に、観性は、境内の蓮華寿院の傍らに法華堂を建て行法を行った。天台座主・慈円(慈鎮)も、観性の招きにより、蓮華寿院に移る。さらに、浄土宗西山派の祖になる証空上人善慧(ぜんえ)が入寺している。 以後、青蓮院関係の歴代法親王が、蓮華寿院で晩年を送った。西山宮道覚法親王(1204-1250)(第82代・後鳥羽天皇皇子)も籠居し、「西山宮」と号された。以来、蓮華寿院に住した親王も西山宮と尊称される。 尊快入道親王(1204-1246)(第82代・後鳥羽天皇皇子)、道玄僧正(1237-1304)(二条良実の子)、青蓮院宮慈道法親王(1282-1341)(第90代・亀山天皇皇子)、書道青蓮院流の祖で『門葉記』を著した大乗院宮尊円法親王(1298-1356)(第92代・伏見天皇皇子)、青龍院宮尊道法親王( 1332-1403)(第93代・後伏見天皇皇子)、尊證法親王(1651-1694)(第108代・後水尾天皇皇子)、尊祐入道法親王(1697-1747)(邦永親王王子)、尊真法親王(1744-1824)(貞建(さだたけ)親王王子)、尊宝法親王(1804-1832)(貞敬親王王子)などがいる。 このため、蓮華寿院は「御所屋敷」「西山宮門跡」とも呼ばれた。 ◆善峯寺 「善峯寺(善峰寺)」の山号は、全国唯一という。吉峯寺では、便宜上「峯」の字に統一している。 山号の由来について、「本名(善峯寺)は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる 諸善奉行の教を流布せんためなり」という。 平安時代後期、1068年に、大旱魃があり、源算の祈祷と本尊の霊験により慈雨が降ったという。龍王が雨を西山の峰より降らしたとされる。この時、第68代・後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されている。 鎌倉時代前期、1192年、慈鎮の時に、第82代・後鳥羽天皇により「良峯寺」を「善峯寺」に改められる。勅額宸筆が下賜され、以降は官寺になった。 ◆経塚(宝篋印塔) 多宝塔の上段に「宝篋印塔」が立つ。平安時代末-鎌倉時代初期に築造された。かつて、桂昌院の歯髪塔付近にあり、近年に移された。 以前は、鎌倉時代に、慈鎮自筆の如法経を納めたとされていた。包紙には「法の花 伝え教へし筆の跡 良峯寺の宝ともなれ」と記したという。また、伝教大師筆の法華経を納めた宝塔とされた。 近代、1925年に石室内部より、銅製経筒、陶製筒、瓦製筒、古銭、経巻などが見つかっている。 ◆薬湯場 薬湯場では薬用風呂に入ることができる。 かつて、釈迦岳山上に安置されていた釈迦如来像があった。当時の住職の夢告にこの釈迦が立ち、「汝により下山せん」と伝えたという。近代、1880年に、像を遷そうとした際に、像から玉の汗が流れた。住職はこれを霊液として、釈迦堂前で五右衛門風呂を沸かし、薬湯と合わせ参詣者に供したという。これが薬湯場の始まりという。 薬湯場では、5月-10月の第2日曜日に、「御釈迦様の風呂」に入浴できる。当山で採取された薬草(ヨモギ、マタタビ、ニワトコ、大根、紫蘇など10種ほど)による百草湯であり、神経痛、腰痛、諸病に効能があるという。 ◆歴代天皇 善峯寺は歴代天皇とのかかわり深い。 平安時代後期、1034年/1036年、第68代・後一条天皇より「良峯寺」の寺号を贈られ、鎮護国家の勅願所になっている。1042年/1043年、第69代・後朱雀天皇の夢告により、洛東・鷲尾寺に安置されていた本尊・千手観音が遷され、千手堂が建立され安置された。1053年、第70代・後冷泉天皇皇子・尊仁親王(後の第71代・後三条天皇)の后・藤原茂子が、難産のために当寺の本尊に祈願している。貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生したため、後に後三条天皇は、報恩のために本堂ほか堂舎を建立し、寺は隆盛した。後に白河天皇も諸堂を建立している。後朱雀天皇・後冷泉両天皇ともに観世音菩薩を信仰し、源算により帰依した。 1068年、大旱魃があり、源算の祈祷と、本尊の霊験により慈雨が降ったとされる。第68代・後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されたという。 鎌倉時代前期、1192年、慈鎮の時、第82代・後鳥羽天皇により「良峯寺」を「善峯寺」と改められた。勅額宸筆を下賜され官寺になる。第88代・後嵯峨天皇は証空住山の時に勅願所と定められ、第89代・後深草天皇は観世音菩薩を篤く信仰し帰依した。 室町時代前期、1399年、第100代・後小松天皇は乙訓郡坂本・長峯・灰谷などの地を施入している。室町時代後期、1499年、第102代・後花園天皇は宸翰を下賜し、伽藍を改築し観世音菩薩を深く崇敬した。僧坊は52を数え、西山随一になったともいう。 ◆桂昌院 吉峯寺には、桂昌院の遺髪を納めた桂昌院廟がある。 桂昌院(1627-1705)は、幼い頃、両親に連れられ、幾度か善峯寺に参詣したという。また、6歳の時に義兄・善峯寺成就坊賢海の許で、母・栄女とともに2年半ほど寺に住したともいう。寺伝によると、父・本庄氏が善峯寺の薬師如来に一女子の生誕を祈願し、すぐに女児(桂昌院)が生まれという。 1686年に桂昌院の寄進により善峯寺に鐘楼堂、薬師堂が建立された。翌1687年に子・綱吉(1646-1709)が42歳を迎えるにあたり、「厄除けの鐘」を寄進した。1691年に桂昌院は本庄因幡守を監督役とし、全山の伽藍改建を計画した。1692年に観音堂(本堂)、護摩堂、釣鐘(つりがね)堂(鐘楼堂)、鎮守社 4社(十三仏堂・ 弁財天堂・ 毘沙門堂・ 護法堂)を寄進し建立している。1697年に綱吉は乙訓郡久世村上里村の200石・山林42万524坪の寺領朱印を出した。1701年に桂昌院は薬師堂、1705年には経堂(転輪蔵、絵馬堂)を建てている。綱吉以降の徳川歴代将軍も、先例に従い朱印地を下した。 桂昌院の献歌碑には、「たらちを(父)の 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」と刻まれている。 ◆名水 ◈「お香水閼伽井」は、観音堂近くにある。仏前に供する水を汲む清浄な井戸で、長寿のご利益があるという。 ◈「白山名水(はくさん-めいすい、白山水)」は、境内を下った「あじさい苑」にある。開祖・源算が写経に用いた浄水という。付近は塔頭・実光坊の跡地になる。いまも湧水がある。 伝承が残る。源算は写経のための用紙を自作したという。平安時代後期、1042年2月1日の夜に、白山明神がこの地に示現した。源算に手本の法華経経巻と浄水を授けた。翌日、一帯に五色の雪が降ったという。以来、この地は「白山」と呼ばれ、源算は毎年この日に法楽したという。 ◆西山古道 かつて、西山三山の吉峯寺、光明寺、柳谷寺(柳谷観音)を結ぶ「西山古道」が通じていた。戦後、一時荒廃した。近年になり復活した。 ◆西国観音霊場三十三所 当寺は、「西国観音霊場三十三所」の第20番札所になっている。第1番の和歌山・青岸渡寺より、第33番の岐阜・華厳寺までを巡る近畿2府4県(1000km)の巡礼になる。 長谷寺を開いた飛鳥時代の徳道(とくどう、656-?)は、病により仮死し、冥途で閻魔に出遭った。閻魔は地獄に堕ちる者が多いとして、観音菩薩の慈悲を説き、33の霊場を参ると功徳を得られるとした。 観音菩薩は浄土に往生せず、現世で苦しむ人々を救済するために、聖観音、十一面観音、千手観音など33(無限)の姿に身を変えるとされる。徳道は、閻魔より33の宝印、起請文を授かり現世に戻る。徳道は兵庫・中山寺に宝印を納めたという。 巡礼は、奈良時代に始まる。その後、途絶したともいう。平安時代、花山法皇(第65代、968-1008)は、徳道の納めた宝印を掘り起こし、巡礼を再興したという。また、平安時代後期(12世紀)に再興されともいう。平安時代後期には天皇、公家が巡礼し、鎌倉時代-室町時代には、庶民にも広まった。江戸時代に最も盛んになる。周辺の伊勢神宮参り、熊野詣、善光寺参りとも結びついた。「三十三度行者」と呼ばれるのは、33所を33回も巡礼した人を意味した。御朱印、千社札の始まりにもなった。 ◆洛西三十三所観音霊場 吉峯寺は35の寺院で構成される洛西三十三所観音霊場(洛西三十三所)の第1番札所になる。 霊場は、本来は番外3カ所を含め36カ所になる。そのうち1か所は廃寺になった。 古くは「西の岡観音霊場」と呼ばれた。室町時代、また、江戸時代に始まったともいう。西国33カ所巡礼を模した。近代以降、廃仏毀釈により廃絶する。現代、1978年に西迎寺の長澤慧岳師の呼びかけにより復活した。 ◆御陵・墓 平安時代後期、1181年に慈鎮の師・覚快法親王が亡くなる。慈鎮の師・2祖・観性と法親王の親交により、住山しなかった法親王が吉峯寺に葬られ、御所墓(御陵)の始まりになる。 鎌倉時代には、道覚入道親王が、西山善峯寺の蓮華寿院に籠居し、「西山宮」と号された。その後、蓮華寿院に住した親王も西山宮と尊称される。青蓮院より慈道、尊円、尊道親王も住山し、没後は御陵に葬られた。 江戸時代には、善峯寺は青蓮院門跡寺務所になり、住山しなかった尊證、尊祐、尊真、尊寶各親王の供養塔が祀られた。 近代、1868年の神仏分離令後に1876年には、五親王(覚快・道覚・慈道・尊円・尊道)の尊牌が、御寺の泉涌寺(東山区)に遷された。 現在も五法親王の命日には供養が続けられている。御陵では吉峯寺住職参列のもと、宮内庁により正辰祭の儀が執り行われる。 ◈宮内省管轄の青蓮院宮御廟(青蓮院親王御陵)には、歴代門主の墓がある。五輪石塔は、覚快法親王(1134-1181、第74代・鳥羽天皇皇子)、道覚(1204-1250、第82代・後鳥羽天皇皇子)。 ◈石造宝塔は、慈道(1282-1341、第90代・亀山天皇皇子)。尊円(1298-1356、第92代・伏見天皇皇子)、尊道(1332-1403、第93代・後伏見天皇皇子)。 ◈遺髪塔として尊証(1651-1694、第93代・後水尾天皇皇子)、尊裕(1697-1747、邦永親王王子) 、尊真(1744-1824、伏見宮貞建親王皇子)、尊宝(1804-1832、伏見宮貞敬親王)などがある。 ◈その近くに当寺ゆかりの慈円(慈鎮)、観性、証空、実信房蓮生(宇都宮頼綱)、喜明、賢勝の墓がある。また、宮津藩主・本庄氏一族の墓がある。 ◈「桂昌院廟所」は、江戸時代前期、1705年に建立されその遺髪を納めた。 ◆花暦・樹木 ◈「桂昌院しだれ桜」、遊龍の松(ゴヨウマツ)の近くに植えられている。桂昌院の手植えという。樹齢300年のカエデとの合体木になる。 ◈ゴヨウマツは、「遊龍(ゆうりょう)松」(国指定天然記念物)と呼ばれている。樹齢600年以上、全長37m。 ◈イロハモミジ、コウヤマキ、カリン、ヒノキの大木がある。 ◈梅(3月上旬)、しだれ桜・山桜(4月上旬-下旬)、新緑(4月中旬-5月上旬)、平戸ツツジ・ボタン(5月上旬)、シャクヤク(5月中旬-下旬)、サツキ(6月上旬)、1万株のアジサイ(6月中旬-7月初旬)、タカサゴユリ・百日紅(8月)、シュウメイギク(9月中旬-10月下旬)、1000本の紅葉(11月中旬-12月上旬)、ナンテン・サザンカ・ツバキ(12月-1月)などが植えられている。 ◆野生生物 モロハヒラゴケ(蘚類、絶滅危惧種)がある。2015年現在。 ◆修行体験 仏画教室、写仏無料体験(第1・3土曜日)。第1・第3土曜日の月2回、13:00-15:00。(1・2・3月は休会)。 ◆年間行事 元旦特別早朝開門(6:30-8:00)(1月1日)、本尊開帳日(1月1日-3日)、修正会 大般若転読法要(1月2日) 、釈尊御生誕の日(4月8日)、薬師風呂(5月-10月の第2日曜日)、桂昌院忌(6月22日)、施餓鬼会・先祖供養(8月15日)、西国三十三所結縁開帳(10月1日-31日)、開運厄除け除夜の鐘(23:45-1:15に撞くことができる。先着で「しあわせ菓子」(紅白の干菓子)が授与される。)(12月31日)。 本尊開帳日(毎月第2日曜日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京の古都から 19 善峯寺』、『京都市の地名』、『京都大事典』、『京都古社寺辞典』、『事典 日本の名僧』、『京都府の歴史散歩 上』、『洛西歴史探訪』、『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都の寺社505を歩く 下』、『都市歴史博覧』、『京都 古都の庭をめぐる』 、『おんなの史跡を歩く』、『京都秘蔵の庭』、『京の寺 不思議見聞録』、『今月の寺 昭和58年11月号』、『京都 神社と寺院の森』、『京都洛西三十三カ所ガイド』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京のご利益めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『週刊 京都を歩く 39 大原野』、ウェブサイト「吉峯寺」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|