善峯寺 (京都市西京区)
Yoshimine-dera Temple
善峯寺 善峯寺
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常夜灯、石標


山門(仁王門)




山門


山門


山門運慶作・金剛力士


山門


山門








観音堂(本堂)


遊龍の松(天然記念物)


多宝塔(重文)


経堂(転輪蔵、絵馬堂)




桂昌院手植えという枝垂れ桜


十三仏堂



参道石段の紅葉


護摩堂


阿弥陀堂


釈迦堂


薬湯場









奥の院薬師堂


参道


本坊






つりがね堂


開山堂







幸福(しあわせ)地蔵



幸福地蔵、桂昌院が祈願したという300年前の地蔵。








白山名水



白山名水



白山名水



白山名水



稲荷大明神





蓮華寿院庭
 善峯寺(よしみねでら、吉峰寺)は、釈迦岳(631m)の山頂、中腹に位置し、3万坪(10万㎡)の広大な敷地がある。 
 「善峯さん」「松の寺」とも呼ばれた。中世(鎌倉時代-室町時代)には「西山宮」「西山御坊」と呼ばれる門跡寺院であり、50余りの伽藍が建てられていたという。山号は西山(せいざん)という。
 天台宗、延暦寺町寺。本尊は十一面千手観世音菩薩。
 「西山三山」(ほかに光明寺、楊谷寺)のひとつ。千手観音は西国三十三所巡礼第20番札所。洛西三十三所観音霊場第1番札所。神仏霊場会第85番、京都第5番。
 神経病平癒、腰痛平癒、入学成就、当選などの信仰も集める。御朱印(4種類)が授けられる。
歴史年表 平安時代、1029年、1030年、1005年、1042年とも、天台僧・源算(げんさん)が夢告により西山に登り、小堂「法華院」を建てた。自刻の十一面千手観音を祀ったことに始まるという。(『西山善峯寺略縁起』『元亨釈書』)
 1030年、竣工した。
 1034年、1036年とも、第68代・後一条天皇より「良峯寺」の寺号を贈られ、鎮護国家の勅願所になった。
 1042年、1043年とも、第69代・後朱雀天皇の夢告により、洛東・鷲尾寺に安置されていた本尊・千手観音が遷された。(『西山善峯寺略縁起』)。千手堂が建立され像を安置する。
 1053年、第70代・後冷泉天皇皇子・尊仁親王(のちの第71代・後三条天皇)の后・藤原茂子が、難産のために当寺の本尊に祈願した。貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生した。このため、後に後三条天皇は、報恩のために、本堂ほか堂舎を建立した。寺は全盛になり、52の僧房堂塔(本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守社)を有する大寺院になる。
 1068年、大旱魃があり、源算の祈祷と、本尊の霊験により慈雨が降ったとされる。「良峰」の勅額が授けられたという。
 1176年、観性は蓮華寿院の傍らに法華堂を建て、一夏90日の読誦を行う。
 1185年、源頼朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を当山の観性法橋が務めた。頼朝は、寺領、運慶仏師作、執金剛神像などを当寺に寄進した。
 鎌倉時代、1192年、第74代・鳥羽上皇により「良峯寺」を「善峯寺」と改められた。上皇自筆の寺額を贈られ、官寺になる。
 1221年、第82代・後鳥羽上皇が、鎌倉幕府に対して、討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱で、後鳥羽天皇皇子・道覚法親王が当山に逃れた。法親王は、天台座主、青蓮院門跡に就く。(『華頂要略』)
 1243年、道覚法親王により、水無瀬離宮にあった後鳥羽上皇の御願寺・蓮華寿院の本尊、堂舎などは吉峯寺に移された。
 第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)の勅願所になる。
 第90代・亀山天皇皇子・慈道法親王(1282-1341)、第92代・伏見天皇皇子尊円法親王(1298-1356)などが住持になる。この頃、西山宮(にしやまのみや)と呼ばれた。(『雍州府志』)
 室町時代、1353年、武将・山名時氏、丹波守護・高師詮の合戦により焼失している。(『常楽記』)
 第102代・後花園天皇(在位1428-1464)は、伽藍の改築を行う。僧坊は52を数え、西山随一になったともいう。
 1418年、足利4代将軍・義持は寺領を安堵する。(「善峯寺文書」)
 1432年、6代将軍・義教により寺領の安堵を受けた。(「善峯寺文書」)
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。その後、荒廃し、寺坊の多くを失う。7房にまで減じ荘園も失う。
 安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉の庇護を受ける。
 江戸時代、1621年、現在の多宝塔が再建された。
 元禄年間(1688-1704)、徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院は、当寺に帰依した。寺領寄進し、堂宇の再建を行う。現在の建物の多くはこの時再建された。
 1673年、阿弥陀堂が建立される。
 1692年、桂昌院により山門が再建される。
 1685年、桂昌院により釣鐘堂が再建された。
 1701年、薬師堂が建てられる。
 1705年、経堂が建てられた。
 1857年、花山院前右大臣・家厚が「遊龍の松」と名付ける。
 近代、1885年、釈迦堂が建立される。
 大正期-昭和期、小川治兵衛により境内全体の庭園整備が行われる。
 現代、1977年、多宝塔が重要文化財に指定された。
 1987年、けいしょう殿が建立される。花山法皇中興千年記念として、西国三十三か所巡礼が再興される。
 1994年、遊龍の松の一部が松くい虫の被害により伐られる。
◆源算 平安時代の僧・源算(げんさん、982-1099)。因幡に生まれた。月足らずで生まれ捨て子になる。三日経っても生を保っていたため、拾われ育てられたという。991年、9歳の時、 比叡山首楞厳院(しゅりょうごんいん)の恵心僧都・源信(942-1017)の徒弟に入り、 995年、13歳で剃髪受戒した。源算は、師の西方浄土の思想により、1029年、西山・良峰に道場建立を思い立つ。
◆慈円 平安時代後期-鎌倉時代の天台宗の僧・歌人・慈円(じえん、1155-1225)。公卿・藤原忠通の子、九条兼実の弟に当たる。吉水僧正、諡号は慈鎮といわれた。覚快法親王に師事、明雲、全玄に学ぶ。4度天台座主になり、無動寺検校、四天王寺別当などを歴任した。観性を頼った慈円が、当山の中尾・蓮華寿院に移っている。頼朝と親交あり、1192年、頼朝が征夷大将軍になると、天台座主になり、鳥羽上皇より「良峯寺」を「善峯寺」と改める寺額を贈られ官寺になる。頼朝より、越前国藤島庄の寺領を寄進された。
 9歳の親鸞の得度に際して、その剃髪の師になる。晩年には吉水に、法華懺法の専門道場、大懺法院を開いた。歴史書『愚管抄』を著し、「新古今和歌集」に92首載る。
◆観性 平安時代後期の天台宗の僧・観性(かんしょう/かんせい、?-?)。藤原顕能の子、葉室(はむろ)中納言顕隆の孫、天台座主・権僧正顕真の弟。法橋と呼ばれた。1161年、往生院(三鈷寺)に仏眼曼荼羅、釈迦・阿弥陀如来像を安置し再興した。観性を頼った慈円が、当山中尾・蓮華寿院に移る。1185年、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、供養の導師を務めた。頼朝は観性を崇敬し、運慶仏師による二十八部衆金剛力士などを善峯寺に寄進している。
◆証空 平安時代-鎌倉時代の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。善恵房証空。鑑知国師、西山国師。加賀・源親季の子、久我通親の猶子。1190年、14歳で出家、浄土宗開祖・法然の弟子になる。以後、法然臨終までの23年間師事した。日野の願蓮に天台学、政春に台密を学ぶ。1212年、法然の死去により、善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、やがて道覚法親王に譲り、北尾往生院(三鈷寺)に移った。1227年、嘉祿の法難に際して流罪を免がれる。1229年、奈良・当麻寺の「観経曼陀羅」に感得した。1243年、第88代・後嵯峨天皇の勅により、歓喜心院を創建する。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。白河・遣迎院で亡くなる。門弟により遺骸は西山三鈷寺の華台廟に葬られた。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院などがある。
 善峯寺において宗風弘通に務め、流派は浄土宗西山派と呼ばれた。浄土宗西山義の派祖。
◆道覚法親王 鎌倉時代の道覚法親王(どうかく にゅうどう しんのう、?-?) 。父は後鳥羽上皇、母は尾張局。1221年、承久の乱後に吉峯寺に逃れた。天台座主、青蓮院門跡に就く。1243年、水無瀬離宮にあった上皇の御願寺・蓮華寿院の本尊、堂舎などを吉峯寺に移した。
桂昌院 江戸時代の女性・桂昌院(けいしょういん、1627/1624-1705)。おたつ、おあき、お玉。京都堀川通西藪屋町の八百屋・仁左右衛門の子という。父没後、母・鍋田氏は二条家家司・本庄太郎兵衛に嫁した。本庄氏の養女になる。伊勢内宮・慶光院住持(六条有純の娘・お梅)付女中になり、江戸下向に同行する。1639年、御小姓として3代将軍・ 徳川家光側室・お万の方に仕える。春日局の部屋子として家光に見初められ側室となる。1646年、徳松(綱吉)を産む。1651年、家光没後、落飾し、筑波山・知足院に入る。桂昌院と称された。1680年、綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入った。従一位に叙された。生類憐み令を発案したともいう。神仏を尊崇し、諸国の寺社再興を援助した。
 吉峯寺には、桂昌院遺髪を納めた桂昌院廟がある。桂昌院は、幼い頃、両親に連れられ、幾度か善峯寺に参詣したという。また、母とともに2年半ほど寺に住したともいう。家光没後、山林、堂宇の多くを寄進した。桂昌院の献歌碑には、「たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」と刻まれている。
◆創建の伝承 善峯寺の創建にまつわる伝承がある。源算は、夢告により西山に登り、石の上で七昼夜の坐禅を行った。山の主・阪知板明神が現れ、この地、聖地に一宇を建立するようにと告げる。そのため、源算は伽藍を建て、本尊の十一面観世音菩薩を安置したという。
 伽藍の工事は困難を極めた。山が険しく、岩にも妨げられたという。ある夜、源算の夢枕に異僧が現れ、建立の援助を告げたという。次の夜、数千頭もの野猪が岩を穿ち、土を負い、地を成らして基壇を造ることに加勢したという。(『元亨釈書』)
◆蓮華寿院 平安時代後期、善峯寺は南尾、中尾、北尾の三尾に分けられ、現在の本堂付近に南尾・法華院、薬師堂付近に中尾・蓮華寿院、北尾に往生院があった。
 1176年、観性(かんせい、観性法橋)は、境内の蓮華寿院の傍らに法華堂を建て行法を行った。天台座主・慈円(慈鎮)も、観性の招きにより、蓮華寿院に移る。さらに、浄土宗西山派の祖となる証空上人善慧(ぜんえ)が入寺した。
 以後、青蓮院関係の歴代法親王が、蓮華寿院で晩年を送った。西山宮道覚法親王(第82代・後鳥羽天皇皇子)、尊快入道親王(第82代・後鳥羽天皇皇子)、青蓮院宮慈道法親王(第90代・亀山天皇皇子)、書道青蓮院流の祖で『門葉記』を著した大乗院宮尊円法親王(第92代・伏見天皇皇子)、青龍院宮尊道法親王(第93代・後伏見天皇皇子)、尊祐入道法親王(邦永親王王子)、尊真法親王(第96代・後醍醐天皇皇子)、尊宝法親王(貞敬親王王子)、尊證法親王(第108代・後水尾天皇皇子)などがいる。このため、「御所屋敷」「西山宮門跡」とも呼ばれた。 
◆本尊 観音堂(本堂)に、二体の「十一面千手観世音菩薩」が安置されている。本尊と脇立になる。
 ◈現在の本尊「十一面千手観世音菩薩」(175.5㎝)は、平安時代、1043年(1042年とも)に、洛東・鷲尾(わしのお)寺に安置されていた。第69代・後朱雀天皇の夢に現れたため、綸旨により当寺に遷した。千手堂を建て安置したという。翻波式衣文、光背、台座は後補、寄木造、漆箔、彫眼。
 この時、源算作の「十一面千手観音」は、脇立とされたともいう。現在は、本尊左の厨子内に納められている。
 ◈観音像にまつわる伝承がある。賀茂社境内の畑地の苗は、一夜にして槻(つき、欅)になり、夜に光明を放った。革堂(こうどう)の行円が、この霊木を材に求めて本尊にした。また、安居院(あぐい)の仏師・仁弘は、その余材で千手観音を刻み、鷲尾寺に安置したという。(『西山善峯寺略縁起』)
 第71代・後三条天皇皇后・藤原茂子が、本尊の「千手観音」に祈り、貞仁親王(後の第72代・白河天皇)を産んだという。また、1068年の大干ばつでは、源算の祈祷と、本尊の霊験により慈雨が降り、「良峰」の勅額が授けられたという。
◆仏像・木像 ◈山門の楼上に本尊「文殊菩薩」、脇に運慶作の「金剛力士像」2体を安置する。いずれも源頼朝(1147-1199)の寄進という。
 ◈阿弥陀堂に、本尊「宝冠阿弥陀如来」、徳川家累代位牌、信者位牌を安置する。
 
◈護摩堂に、本尊「不動明王五大尊」が安置されている。
 ◈多宝塔に、「愛染明王像」が安置されている。
 ◈開山堂に、「源算上人像」が安置されている。117歳の最晩年の姿という。
 
◈釈迦堂に、「釈迦如来像」を安置している。国内ではほかに例がないという合掌姿をしている。かつて、2㎞ほど離れた釈迦岳(650m)山上に安置されていた。像は、平安時代の源算(げんさん、982-1099)作とされる。当時の住職の夢告に釈迦が立ち、「汝により下山せん」と伝えたという。江戸時代、1880年、像を遷そうとした際に、像から玉の汗が流れた。住職はこれを霊液として、薬湯と合わせ参詣者に供した。湯は神経痛、腰痛に薬効あるという。
 
◈奥の院薬師堂には、桂昌院の両親が祈願し、子宝を授かったという薬師如来(出世薬師仏)を祀る。桂昌院の献歌、「たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」。
◆建築 仁王門、本堂(観音堂)、宝物館、経堂、多宝塔、護摩堂、開山堂、薬師堂、釈迦堂、薬湯場、阿弥陀堂、本坊、けいしょう殿、鎮守社などが建つ。 
 ◈「山門(仁王門)」は、江戸時代、1692年に桂昌院寄進により再建される。 
 ◈「観音堂(本堂)」は、江戸時代、1692年に桂昌院の寄進による。入母屋造、瓦葺(以前は杮葺)。
 ◈「経堂(転輪蔵、絵馬堂)」は、江戸時代、1705年の建立による。祈願成就の絵馬堂、桂昌院は鉄眼の一切経を納めた。転輪蔵は回転する仕組みに造られていない。六角六柱、二重屋根。
 ◈「多宝塔」(重文)は、江戸時代、1621年に28代・賢弘法師により再建された。山内現存最古の建物になる。下層は方三間、上層は円形の二層塔婆、下層軸部中央に板唐戸、両脇に連子窓、勾欄の付いた縁を廻らす。軒は二重繁垂木。 
 ◈「護摩堂」は、江戸時代、1692年の建立による。宝形造。
 ◈「釣鐘(つりがね)堂」は、江戸時代、1685年(1687年とも)の建立による。桂昌院が徳川綱吉の厄除けのために寄進し、「厄除けの鐘」といわれる。梵鐘は1687年の銘がある。
 ◈「開山堂」は、江戸時代、1692年の建立による。
 ◈「阿弥陀堂」は、江戸時代、1673年に建立された。常行三昧の道場で「常行堂」とも呼ばれる。
 ◈「奥の院薬師堂」は、江戸時代、1701年の建立による。 
 ◈「釈迦堂」は、江戸時代、1885年に建立されたという。
 ◈「けいしょう殿」は、1987年に建立された。 
 ◈「十三仏堂」は、江戸時代、1692年の建立による。 守護神を祀る。
◆文化財 鎌倉時代作の絹本著色「大元帥明王軸」(重文)は、京都国立博物館寄託。
 室町時代の「善峰寺文書」、「善峯寺曼荼羅」2幅(京都府指定文化財)。
 本坊襖絵は片岡鶴太郎筆「游鯉龍門図」。
◆庭園 大正期-昭和期の池泉回遊式の「蓮華寿院の庭」は、作庭家・7代目・小川治兵衛(1860-1933)により、境内全体の庭園整備が行われた。歴代の法親王が住持をしていた西山宮・蓮華寿院跡地になる。庭園は、青蓮の滝、竿石は、青蓮院門跡より贈られたものという。四季を通じて様々な草木が花開く。
 本坊に小川治兵衛の作庭による前庭がある。池泉があり、石組、橋、灯籠、楓などの植栽がある。(非公開)
◆遊龍の松 「遊龍(ゆうりゅう)の松」(国指定の天然記念物)は、マツ科のゴヨウマツで樹齢600年という。江戸時代、元禄年間(1688-1703)に桂昌院の手植えともいう。2方向に直角に伸び、姿は龍に譬えられる。江戸時代、1857年、花山前右大臣家厚により「遊龍の松」と名付けられた。
 江戸時代後期の尼僧・歌人・大田垣蓮月(1791-1875)は、「世々を経て光いやます善峯のその玉松のむかしをぞ思ふ」と詠んだ。1932年に天然記念物に指定されている。
 ゴヨウマツで枝を伸ばすのは珍しいという。高さ2m、東西の水平支幹は横40m、南北に24mある。幹周り1.5m。かつては、東西に54mの長さがあった。1994年に、松くい虫の被害により15mが伐られる。
◆経塚 多宝塔の上段に「宝篋印塔」が立つ。平安時代末-鎌倉時代初期に築造された。かつて、桂昌院の歯髪塔付近にあり、近年に移された。
 以前は、慈鎮自筆の如法経を納めたとされていた。1925年に石室内部より、銅製経筒、陶製筒、瓦製筒、古銭、経巻などが見つかっている。
◆薬湯場 薬湯場では薬用風呂に入ることができる。
 かつて、釈迦岳山上に安置されていた釈迦如来像があった。当時の住職の夢告にこの釈迦が立ち、「汝により下山せん」と伝えたという。1880年に、像を遷そうとした際に、像から玉の汗が流れた。住職はこれを霊液として、釈迦堂前で五右衛門風呂を沸かし、薬湯と合わせ参詣者に供したという。これが薬湯場の始まりという。
 薬湯場では、5月-10月の第2日曜日に、「御釈迦様の風呂」に入浴できる。当山で採取された薬草(ヨモギ、マタタビ、ニワトコ、大根、紫蘇など10種ほど)による百草湯であり、神経痛、腰痛、諸病に効能があるという。
◆坐禅石
 「坐禅石(仙翁石)」は、阿知坂の途中南側にある。源算が初めて登山した折に、この岩の上で観念坐禅したという。 
◆白山名水 「白山名水(はくさんめいすい、白山水)」は、境内を下った「あじさい苑」にある。開祖・源算が写経に用いた浄水という。付近は塔頭・実光坊の跡地になる。いまも湧水がある。
◆西山古道 かつて、西山三山の吉峯寺、光明寺、柳谷寺(柳谷観音)を結ぶ「西山古道」が通じていた。戦後、一時荒廃した。近年になり復活した。
◆西国観音霊場三十三所 当寺は、「西国観音霊場三十三所」の第20番札所になっている。第1番の和歌山・青岸渡寺より、第33番の岐阜・華厳寺までを巡る近畿2府4県(1000km)の巡礼になる。
 長谷寺を開いた飛鳥時代の徳道(とくどう、656-? )は、病により仮死し、冥途で閻魔に出あった。閻魔は地獄に堕ちる者が多いとして、観音菩薩の慈悲を説き、33の霊場を参ると功徳を得られるとした。
 観音菩薩は浄土に往生せず、現世で苦しむ人々を救済するために、聖観音、十一面観音、千手観音など33(無限)の姿に身を変えるとされる。徳道は、閻魔より33の宝印、起請文を授かり現世に戻る。徳道は兵庫・中山寺に宝印を納めたという。
 巡礼は、奈良時代に始まる。その後、途絶したともいう。平安時代、花山法皇(第65代、968-1008)は、徳道の納めた宝印を掘り起こし、巡礼を再興したという。また、平安時代後期(12世紀)に再興されともいう。平安時代後期には天皇、公家が巡礼し、鎌倉時代-室町時代には、庶民にも広まった。江戸時代に最も盛んになる。周辺の伊勢神宮参り、熊野詣、善光寺参りとも結びついた。「三十三度行者」と呼ばれるのは、33所を33回も巡礼した人を意味した。御朱印、千社札の始まりにもなった。
◆洛西三十三所観音霊場 吉峯寺は35の寺院で構成される洛西三十三所観音霊場(洛西三十三所)の第1番札所になる。
 霊場は、本来は番外3か所を含め36か所になる。そのうち1か所は廃寺になった。
 古くは「西の岡観音霊場」と呼ばれた。室町時代、また、江戸時代に始まったともいう。西国33か所巡礼を模した。近代以降、廃仏毀釈により廃絶する。1978年に西迎寺の長澤慧岳師の呼びかけにより復活した。
 宮内省管轄の青蓮院宮御廟には、歴代門主の墓がある。五輪石塔は、覚快法親王(1134-1181、第74代・鳥羽天皇皇子)、道覚(1204-1250、第82代・後鳥羽天皇皇子)。
 石造宝塔は、慈道(1282-1341、第90代・亀山天皇皇子)。尊円(1298-1356、第92代・伏見天皇皇子)、尊道(1332-1403、第93代・後伏見天皇皇子)。
 遺髪塔として尊証(1651-1694、第93代・後水尾天皇皇子)、尊裕(1697-1747、邦永親王王子) 、尊真(1744-1824、伏見宮貞建親王皇子)、尊宝(1804-1832、伏見宮貞敬親王)などがある。
 その近くに当寺ゆかりの慈円(慈鎮)、観性、証空、実信房蓮生(宇都宮頼綱)、喜明、賢勝の墓がある。また、宮津藩主・本庄氏一族の墓がある。
 
「桂昌院廟所」は、江戸時代、1705年に遺髪を納めた。
◆花暦・樹木 桂昌院手植えという樹齢300年のシダレザクラは、遊龍の松(ゴヨウマツ)の近くに植えられている。カエデとの合体木になる。
 ゴヨウマツは、「遊龍松」(国指定天然記念物)と呼ばれている。
 イロハモミジ、コウヤマキ、カリン、ヒノキの大木がある。
 ウメ、平戸ツツジ・ボタン・シャクヤク(5月)、サツキ(6月)、1万株のアジサイ(6月中旬-7月初旬)、タカサゴユリ(8月)、シュウメイギク(9月)、1000本の紅葉(11月)、ナンテン・サザンカ・ツバキ・ナンテン(12月)などが植えられている。
◆野生生物 モロハヒラゴケ(蘚類、絶滅危惧種)がある。2015年現在。
◆修行体験 仏画教室、写仏無料体験(第1・3土曜日)。第1・第3土曜日の月2回、13:00-15:00。(1・2・3月は休会)。
◆年間行事 特別早朝開門(6:30-)(1月1日)、本尊開帳日(1月1日-3日)、新年祈願・大般若会(1月2日)、釈尊御生誕の日(4月8日)、薬師風呂(5月-10月の第2日曜日)、桂昌院忌(6月22日)、施餓鬼会・先祖供養(8月15日)、西国三十三所結縁開帳(10月1日-31日)、開運厄除け除夜の鐘(12月31日)。
 本尊開帳日(毎月第2日曜日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京の古都から 19 善峯寺』『京都市の地名』『京都大事典』『京都古社寺辞典』『事典 日本の名僧』『京都府の歴史散歩 上』『洛西歴史探訪』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都の寺社505を歩く 下』『都市歴史博覧』『京都 古都の庭をめぐる』 『おんなの史跡を歩く』『京都秘蔵の庭』『京の寺 不思議見聞録』『今月の寺 昭和58年11月号』『京都 神社と寺院の森』『京都洛西三十三カ所ガイド』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京のご利益めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 京都を歩く 39 大原野』、サイト「コトバンク」


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青蓮の滝

紅葉の頃の境内

京都市内の眺望

中央が証空善恵上人墓

開基源算ほか歴代住持の墓

青蓮院の宮御廟、青蓮院の法親王で、後に善峰寺蓮華寿院住持となった歴代の墓。覚快、道覚、慈道、尊円、尊道の五法親王の墓。

桂昌院廟所、江戸時代、1705年、遺髪を納める。

桂昌院像、けいしょう殿は1987年建立。

本庄家一族の塔、桂昌院実弟、岡幡守宗資ほかの墓

西山古道、三山を結ぶ信仰の道、案内図より

西山古道、柳谷観音へ向かう道。
善峯寺 〒610-1133 京都市西京区大原野小塩町1372  075-331-0020  9:00-16:00
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