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船岡山 (舟岡山) (京都市北区)
Mt.Funaoka-yama
船岡山 船岡山  
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船岡山の遠景


船岡山の遠景(手前の小高い丘)


船岡山公園北側の登り口


北側の登り口




南側の登山道の一部


山道途中の地蔵尊


船岡山山頂


船岡山山頂の巨岩、磐座(いわくら)


磐座


冠雪した磐座


山頂の磐座のモニュメント?


市内の眺望(南側)、「舟岡のともべに立てる白雲の立分かるるも哀とぞ思ふ」(古今和歌六帖)


雪の朝


山頂の眺望案内板


山頂の石造




山頂の三等三角点


三等三角点


三角点


サイレン塔


サイレン塔の内部


山頂付近の東屋


山頂付近の蹲


北側の眺望、比叡山(左)、大文字山


広場


広場のモニュメント


広場のモニュメント


野外ステージ


旧ラジオ塔


山頂付近の猿舎跡


猿舎跡の文七かすみ櫻



旧国旗掲揚台





中腹(船岡山公園の南東)、「史跡 船岡山」


中腹、「応仁永正戦跡」の石碑


中腹、かつての山城の塹壕跡、山の中腹部に300mにわたりある空堀跡


空堀跡


故鹿野人詩警部補の顕彰碑


歌碑


左大文字山

五山送り火「左大文字」


【参照】平安京の船岡山、下に大蔵、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)説明板より 


【参照】「北舟岡山」の町名

 紫野の船岡山(ふなおか-やま、舟岡山、111.89m)は、独立丘状地になる。近年では「葛野(かどの、京都)三山(ほかに、吉田山、双ヶ岡)」の一つといわれている。
 船岡山公園と建勲神社(たけいさお-じんじゃ)からなり、全域が国史跡に指定されている。
◆歴史年表 古代(奈良時代-平安時代)、船岡山は、神の降臨する磐座(いわくら)として崇敬された。
 飛鳥時代、皇族・政治家の厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)は、船岡山が後に皇城の地になると予言したという。(『日要集覧』) 
 平安時代、794年、平安京遷都の際に、船岡山は北の基点になり、四神の玄武(北方の守護神)に当てられた。山は、「大地の生気がほとばしり出る地・玄武の小山」とされ、山の真南に大極殿が置かれ朱雀大路(幅85m)が引かれた。
 859年、陰陽寮により、五穀を食い荒らす虫害を祓う祭りが船岡山で行われている。
 994年、都で流行った疫病退散のための御霊会が船岡山で行われた。
 平安時代、景勝の地として王朝人の「禁野(しめの)」として遊宴・遊猟なども行われた。「七野」といわれ、菜の花、山菜の名所になる。
 藤原時代(平安時代中期-後記、894-1285)、邪気を祓うために、正月初子の日に野山に出て、小松、若菜を摘む「子(ね)の日の宴」という風習も行われた。
 第53代・淳和天皇(在位:823-833)の「紫野院」、賀茂社「紫野斎院」が置かれた。
 第64代・円融天皇(在位:969-984)の「円融院」も置かれた。
 985年、円融天皇は「子の日遊」を行う。
 1000年頃、「岡は船岡、片岡、鞆岡」と筆頭に記されている。(『枕草子』)
 1017年、三条上皇(第67代)は、この地で火葬にされた。ほか多くの皇室が続いた。山の南西に蓮台野火葬場(千本火葬場)が置かれ、近代に廃されるまで続く。天皇陵、庶民の墓地もあり、近代に他所へ移されるまで存在した。
 1156年、保元の乱では、源為義らがこの地で斬首される。 
 中世(鎌倉時代-室町時代)、丹波から長坂口を経て洛中へ入る、都の北の入口として注目された。山は軍事的な要衝として「船岡城」と呼ばれた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、西軍・山名宗全方の軍事拠点の一つになり城が築かれた。(『応仁記』)
 1468年、東軍・細川勝元が船岡山城を攻略し落城させる。
 1511年、細川高国・大内義興と細川澄元の間で船岡山合戦(船岡山永正の戦い)が起こる。
 安土・桃山時代、1582年、織田信長の没後、豊臣秀吉は山上に信長の菩提寺「天正寺」の建立計画を立てる。だが、実現しなかった。以後、寺地の大半は、大徳寺が領した。
 近代、1880年、9月1日、山の東に信長を祀る建勲神社が建立される。(『京都神社誌』)
 1903年、船岡山三等三角点が設置される。
 1932年、11月28日、山一帯が都市計画公園大号として船岡山公園に指定される。(「内務省告示」)
 1934年、9月、室戸台風で多くの倒木があった。
 1935年、船岡山公園が開園し、ラジオ塔が建てられる。
 現代、1968年、2月15日、国指定の史跡に指定された。
 1984年、9月4日、船岡山と大阪市都島区での2件の連続強盗殺人事件「京都・大阪連続強盗殺人事件」が起きた。
 2018年、8月、台風21号により多くの倒木があった。
◆淳和 天皇 奈良時代-平安時代前期の第53代・淳和天皇(じゅんな-てんのう、786-840)。男性。大伴(おおとも)、西院帝、日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとおのすめらみこと)、後太上天皇とも称された。父・第50代・桓武天皇、母・藤原百川の娘・松子(贈皇太后旅子[たびこ] )の第3皇子。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)により、兄・平城上皇(第51代)は失脚し、その皇子・高岳(たかおか)親王(真如)は廃太子された。第52代・嵯峨天皇の信頼篤く、皇太弟になる。823年、嵯峨天皇の譲位により即位した。冷然院(冷泉院)に住む嵯峨上皇は影響力を残し、皇太子に上皇の皇子・正良親王(後の第54代・仁明天皇)が立つ。大伴氏は、天皇への配慮から「伴氏」に改めた。824年、左右検非違使庁を設置し、制度を強化した。826年、上総、常陸、上野を親王任国に定める。833年、皇太弟時代の離宮南池院(西院とも)を整備した淳和院に移り、第54代・仁明天皇に譲位した。淳和上皇の皇子・恒貞(つねよ)親王が皇太子になる。
 治水事業、律令制再建、令外官の勘解由使(かげゆし)の復活、検非違使制度の強化を行う。勅旨田、親王任国を置き皇室財政を強化した。漢詩に長じた。詩文集『経国集』(827)、滋野貞主による百科事典『秘府略』(831)、清原夏野らの令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』(833)の編纂などに努めた。
 温厚な性格だったという。当初、上皇の称号、待遇を辞退する。上皇が二人のため、嵯峨上皇を「先(前)太上天皇」、淳和上皇は「後太上天皇」と称した。遺言により山陵は築かれず、大原野山中に天皇初の散骨が行われた。55歳。御陵は大原野西嶺上陵(西京区)になる。火葬塚(向日市)がある。
 なお、842年、嵯峨上皇没後、皇子・恒貞親王は廃位になった。(承和の変)。
◆円融 天皇 平安時代中期の第64代・円融天皇(えんゆう-てんのう、959-991)。男性。守平(もりひら)、法諱は金剛法。京都の生まれ。父・第62代・村上天皇、母・皇后・藤原安子(あんし、藤原師輔の娘)の第5皇子。第63代・冷泉天皇の同母弟。967年、兄の第4皇子・為平(ためひら)親王を差し置き、冷泉天皇の皇太弟になる。969年、安和の変で藤原氏が勝利後、冷泉天皇の譲位により、11歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、即位した。摂政は藤原実頼による。970年、師輔の没後、その子・伊尹(これただ、天皇の伯父)が摂政になる。972年、元服する。伊尹の没後、その弟・権中納言・兼通(かねみち、天皇の伯父)に内覧の宣旨を下し、関白にした。977年、辣腕だった兼通の没後、実頼の子・頼忠(よりただ)が関白になる。984年、第65代・花山天皇に譲位し、太上天皇と称せられる。985年、病により26歳で落飾し、金剛法と号した。御願寺の円融寺(右京区)を建立し、円融院に住した。その後も、第65代・花山天皇、第66代・一条天皇の政治に関与した。歌集に『円融院御集』がある。京都の円融寺で亡くなる。33歳。
 上皇として院庁に多くの別当を補任した。藤原氏が政治を支配し、摂政、関白を独占する。藤原氏内の兼通、兼家の兄弟間の政権争いが続く。天皇は、宇多源氏に近づき、兼家系の藤原氏と対立した。和歌、漢詩、管絃に嗜む。大堰川行幸、石清水社、石山寺、南都の諸寺などを巡礼した。
 火葬所(右京区)がある。陵墓は後村上陵(右京区)になる。
◆三条 天皇 平安時代中期の第 67代・三条天皇(さんじょう-てんのう、976-1017)。男性。居貞(おきさだ) 。法名は金剛浄。京都の生まれ。父・第63代・冷泉天皇、母・太政大臣・兼家の娘・贈皇太后・藤原超子(ちょうし/とおこ)の第2皇子。986年、従弟の第66代・一条天皇の即位により元服し、立太子になる。親王の方が年長のため、「さかさ儲けの君」と呼ばれた。1011 年、一条天皇の譲位により36歳で即位する。1012年、内覧(ないらん、太政官から天皇に奏上する文書をあらかじめ内見し、政務を代行する)になった藤原道長が権力を掌握する。天皇は道長をはばかり、その娘・妍子(けんし)を皇后にする。藤原済時の娘・女御・娍子(じようし)は中宮に立てた。天皇は、娍子を皇后にしようとする。道長は反発し、他の公卿とともに参内せず、立后の儀を妨害した。道長は娘・彰子の産んだ外孫・敦成(あつひら)親王の即位を望み、天皇の眼病を理由に譲位を迫る。天皇は皇女・禎子(ていし)内親王を道長の息・頼通(よりみち)に降嫁させることで懐柔しようとした。1016年、天皇は、娍子が産んだ第1皇子・敦明(あつあきら)親王を皇太子にすることを条件に、敦成親王(第68代・後一条天皇)に、道長の枇杷殿で譲位した。敦明親王は道長の圧力により辞退する。
 歌に優れ『百人一首』に「心にも あらでうき世に ながらへば恋しかるべき夜半の月かな」がある。ほとんど目の見えなかった天皇の眼病について、毒(仙丹、水銀)を服されたともいう。僧・賀静、藤原元方の怨霊によると噂された。京都で没した。42歳。
 1017年、死去し、船岡山で火葬にされ北山に埋納された。陵墓は北山陵(北区)になる。
◆源 為義 平安時代後期の武将・源 為義(みなもと-の-ためよし、1096-1156)。男性。通称は六条堀河に住み六条判官。父・源義親(よしちか)の4男。源義家の孫。1108年、父は乱行により平正盛に追討される。為義は、叔父・源義忠の養子になる。悪左府(あくさふ)・藤原頼長の従者になった。1109年、義忠が殺害され、朝命により義家の弟・義綱一族を追討し、その功で左衛門尉に任官した。祖父・義家を継ぎ、河内源氏の当主になる。白河法皇(第72代)から第74代・鳥羽天皇の警護に起用される。1135年、瀬戸内海の海賊追討使の候補になるものの、鳥羽上皇は為義を嫌い、平忠盛を任命した。為義は、次第に摂関家・藤原忠実に接近する。1143年、藤原頼長に臣従した。警護・家人取締り・興福寺悪僧の処罰・荘園の管理などを一族と共に担う。1146年、検非違使になった。1150年、忠実が長男・忠通を義絶した際に、東三条殿の警備に当たる。1154年/1155年、為義の子・為朝の九州での乱行により解官された。家督を長子・義朝に譲る。1156年、保元の乱で崇徳上皇(第75代)・藤原頼長方に子・頼賢・為朝らと加わる。第77代・後白河天皇方に付いた義朝と敵対した。夜襲の献策を頼長に退けられ敗北した。潜伏後、延暦寺で出家し義朝への助命嘆願も及ばず、旧7月、義朝により5人の子らと船岡山で斬首される。61歳。
◆源 義朝 平安時代後期の武将・源 義朝(みなもと-の-よしとも、1123-1106/1159)。男性。異名は上総御曹司。父・清和(せいわ)源氏の嫡流・源為義、母・淡路守・藤原忠清の娘の長男。父祖相伝の本拠・相模国鎌倉で成長したという。天養年間(1144-1145)、目代(もくだい)と結び、同国大庭御厨(おおばのみくりや)の押妨(おうぼう、他人の所領などに押し入り乱暴を働き、不当な課税を科す)を企てた。この頃、下総相馬御厨も掠領した。上京し、1153年、従五位下・下野守(しもつけのかみ)になり、1154年、家督を継ぐ。1156年、保元の乱で、崇徳上皇(第75代)方に与した父・為義、弟らとは反対に、一人、平清盛と第77代・後白河天皇方として戦い、夜襲を主張し勝利した。乱後、義朝の助命嘆願は許されず、信西(しんぜい、藤原通憲[みちのり])の命で、父・為義、兄弟以下、崇徳上皇方の源氏一族を処刑した。その恩賞により従五位上・左馬頭(さまのかみ)になる。権臣の少納言入道・信西(しんぜい(藤原通憲[みちのり])と組んだ清盛と不和になる。1159年、清盛が熊野参詣に赴いた留守をつき、藤原信頼と組み挙兵した。(平治の乱)。清盛の軍勢は急遽帰京し義朝らは敗れた。東国に敗走中、尾張国知多郡野間(現・愛知県知多郡)で家人・長田忠致(おさだ-ただむね)により浴室で謀殺された。38歳。
 墓は、上野間の大坊(だいぼう、大御堂寺)にある。義朝最期の無念を推量し、木太刀(こだち)を捧げる風習が残る。
◆源 頼仲 平安時代末期の武将・源 頼仲(みなもと-の-よりなか、?-1156)。男性。通称は五郎掃部助、掃部五郎。父・源為義、母・源基実の娘/文徳源氏の源資遠(資道)の娘の5男。 1156年、皇位継承の争いと藤原氏内部の勢力争が絡んだ保元の乱では、父・為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦敗北する。敵方の平清盛・後白河天皇方の兄・義朝に降参する。義朝によって助命嘆願されるが、義朝により父とともに船岡山で斬首された。
◆細川 勝元 室町時代中期-後期の武将・幕府管領・細川勝元(ほそかわ-かつもと、1430-1473)。男性。幼名は聡明丸、通称は六郎、法名は竜安寺宗宝、右京大夫、武蔵守。父・右京大夫・細川持之(もちゆき)。1441年、嘉吉の変の後、山名持豊(宗全)の女婿になる。1442年、父の病死により13歳で家督を継ぐ。叔父・細川持賢が後見した。1445年-1449年、畠山持国の後を受け管領になる。摂津、丹波、讃岐、土佐国守護になった。1452年-1464年、2度目の管領になる。1458年、赤松家再興問題で、嘉吉の乱後に没落した赤松氏を再興し、領国を接する山名氏を牽制しようとした。1460年、畠山義就を失脚させる。1465年、持豊の女婿・斯波(しば)義廉を退け、斯波義敏を立て持豊と対立した。将軍家の跡目を巡り、勝元は足利義視、持豊は足利義尚を支援し、応仁・文明の乱(1467-1477)の一因になる。勝元は東軍総帥になる。京都の東北に陣取り、畠山政長・義敏らを後援し、8代将軍・足利義政、第103代・後土御門天皇、第102代・後花園天皇を奉じ、西陣総帥・持豊と戦った。1468年-1473年、3度目の管領になる。乱の陣中に病没した。44歳。
 従四位下、管領には3度、21年間在任した。妙心寺の義天玄承、特芳禅傑に帰依する。京都・龍安寺、丹波・竜興寺を創建する。和歌、絵画、鷹狩、武芸の犬追物(いぬおうもの)、医術にも通じ医書『霊蘭集』を著した。
 墓は龍安寺(北区)にある。
◆細川 高国 室町時代後期の武将・細川 高国(ほそかわ-たかくに、1484-1531)。男性。通称六郎、法名は道永、常桓(じょうかん)、道号は松岳。官途は民部少輔、右京大夫、武蔵守など。父・備中(岡山県)守護・政春。管領・細川政元の養子になる。政元の家督相続を巡る養子・澄之と養子・澄元との争いで、1507年、政元が澄之に暗殺され、高国は澄元に就き澄之討伐に功を挙げた。その後、澄元と不和になり、大内義興(よしおき)、足利義稙(よしたね)を盛り立て、澄元、三好之長(ゆきなが)らに対抗した。1508年、伊丹元扶、内藤貞正らの国人を味方に将軍・義澄、澄元を近江に追う。周防に逃亡中の前将軍・足利義材(義稙)が義興に擁されて上洛し、将軍に復帰すると、右京大夫、管領に任じられ、左京大夫・義興と共に支えた。1518年、義興が帰国し、澄元を擁する三好之長に一時入京を許す。その後奪回した。1521年、義稙を廃し、義澄の子・義晴を擁立した。足利義維(よしつな)、三好元長と対立する。1526年、細川尹賢の讒言により香西元盛を殺害した。元盛の兄弟・波多野稙通、柳本賢治が挙兵し、阿波国から三好勝長・政長が堺に上陸する。之長の孫・元長が足利義維と細川晴元(澄元の子)を擁し堺に上陸し、高国政権は崩壊した。1528年、元長らに京都を追われ、1531年、摂津天王寺で元長らに敗れ、尼崎で捕らえられ、自刃した。48歳。
◆大内 義興
 室町時代後期の武将・大内 義興(おおうち-よしおき、1477-1529)。幼名は亀童(きどう)丸、六郎。法名は凌雲寺傑叟義秀。父・大内政弘。周防権介、のち左京大夫。1494年、家督を継ぎ、周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見の6カ国の守護になる。細川政元のために足利義稙 (よしたね) は将軍職を追われ、1499年/1500年、義興を頼り義稙 は山口に下り、義興は保護した。1508年、義稙を擁し、中国勢を率い上洛し、将軍・義澄、細川澄元を追う。義稙を将軍職に復させ、義興は細川高国とともに実権を握る。義興自らは管領代(かんれいだい)になり山城守護を兼ねた。1511年、京都・船岡山の戦に勝利し、澄元らの反撃を退けた。1514年、澄元らの反撃を船岡山で破り、従三位に叙された。勘合貿易をめぐり細川氏と争い、1516年以降、遣明船派遣の権利を得て貿易を独占する。大内氏の全盛期を築いた。留守中に領国が不安定になり、1518年、職を辞して山口に帰る。1519年、義稙より貿易の主導権を獲得した。長期の領国不在は安芸国人層の離反、出雲の尼子経久の進出を招く。1523年、寧波(ニンポー)の乱以後は勘合貿易を独占する。同年以降、尼子勢と戦う。1525年、毛利元就(もとなり)を配下に置く。1527年、大友氏の助けを得て経久と備後で戦った。1528年、安芸佐西郡門山城に在陣中に病になり、1529年、山口に帰り、病没した。52歳。
 大内氏最盛期の国主になった。伊勢貞久から『大内問答(おおうちもんどう)』の書を伝授され、武家には珍しく従三位(じゅさんみ)になった。
◆細川 澄元 室町時代後期の武将・細川 澄元(ほそかわ-すみもと、1489-1520)。男性。幼名は聡明丸、通称は六郎、法名は宗泰。父・阿波守護・細川義春(よしはる)。1503年、細川政元(まさもと)の養子になる。1506年、摂津守護になった。1507年、細川澄之(すみゆき)らが養父・政元を暗殺し家督をついだ。その際に近江へ逃亡した。澄元は、養子・細川高国(たかくに)らとともに澄之を滅ぼし、将軍・足利義澄のもとで実権をにぎる。澄之の没後に入京し、京兆家家督を相続した。1508年、家督相続をめぐり澄元は将軍・足利義澄と結託した。高国は前将軍・足利義稙(よしたね)を奉じた。澄元はこの争いに敗れ京都を追われる。澄元は三好之長(ゆきなが)の支援で上洛を目指す。家督再相続はならず、阿波で病没した。32歳。
◆内藤 貞正 室町時代後期の武将・内藤 貞正(ないとう-さだまさ、?-1525)。男性。父・内藤元貞。丹波内藤氏は代々、丹波守護の細川京兆家に仕え、守護代を務めた。1507年、主君・細川政元が暗殺される。(永正の錯乱)。貞正は細川澄之に与し、澄之の戦死後、崇福寺・遊初軒の戦いに参戦した。澄之の跡を細川澄元が継ぎ、貞正は細川家の細川高国、摂津国人の伊丹元扶らと前将軍・足利義稙を擁する大内義興の上洛軍を迎えた。1508年、澄元、三好之長、11代将軍・足利義澄を近江へ追う。貞正は高国に重用され、1512年、高国邸で行われた猿楽興行を主催した。1514年までに、子・国貞に守護代の地位を譲る。1520年、等持院の戦いで、伊丹国扶と共に高国を支援し、之長を敗死させた。
 丹波国守護代。丹波八木城主。
豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。62歳。 
 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明として祀られた。
◆古溪 宗陳 室町時代後期-安土・桃山時代の臨済宗の僧・古溪 宗陳(こけい-そうちん、1532-1597)。男性。俗姓は朝倉、諡号は大慈広照禅師、別号に蒲庵(ほあん)。 越前(福井県)の生まれ。朝倉氏の出身。驢雪鷹灞(ろせつ-ようは)を受業師として出家し、下野足利学校に学ぶ。大徳寺・江隠宗顕(こういん-そうけん)、笑嶺宗訢(しょうれい-そうきん)に師事した。宗訢の法をつぐ。1573年、大徳寺117世になる。1582年、織田信長の百ヶ日法要、秀吉による信長の葬儀で導師を務めた。豊臣秀吉により信長の菩提所の総見院開山に招請される。1585年、秀吉の堺・海会寺の再興をした。1588年、信長の新たな菩提寺になる予定の天正寺建立を巡り、石田三成と対立した。秀吉により一時、 博多・大同院に蟄居させられる。1589年、洛北市原・常楽庵、千利休の禅の師匠であり、1591年、三門の利休木像事件では、利休切腹を中止させようとした。秀吉の大徳寺破却に抗し、自らの命を賭して阻止したという。1592年、豊臣秀長の葬儀導師を務めた。大和・大光院に移る。66歳。
 大仙院第3世。諡号は1596年、大慈広照禅師。秀吉の計画した天正寺、方広寺の開山は実現しなかった。茶の湯をたしなみ、千利休の参禅の師であり、利休の居士号は宗陳が選んだという。一条戻橋に晒された利休の首を、夜陰に乗じて持ち帰ったとの伝承がある。弟子に玉甫紹琮(ぎょくほ-じょうそう)、月岑宗印(げっしん-そういん)がいる。
 墓は大徳寺・大仙院(北区)にある。
◆磐座・四神相応 船岡山は、標高111.89m、東西200m、南北100mある。かつて山の東と南は断崖であり、東端には大池があった。古来には、この部分を「唐鋤鼻(からすきのはな)」と呼んだ。山の東端が海に突き出した舳先に見えたため、「船岡山」と名付けられた。船岡には、水辺に臨み人を収容する容物の意味がある。池を利用して紫野院が営まれ、後に梶井宮御所の苑池になった。近代、昭和期(1926-1989)初期まで、「六兵衛池」という池が残っていたという。
 船岡山山頂には、かつての祭祀の場といわれる巨岩(チャート)が露呈している。磐座(いわくら)であり、神が降臨する場所ともされた。
 船岡山は、朱雀大路(横幅84m、現・千本通)の北にあたる。平安時代前期、794年の平安京造営に際し、山に縦(南北)の線、正中線(中心軸)を当てたといわれている。この時、北の船岡山とほぼ真南に位置している甘南備山(京田辺市)の2点が線上に結ばれたという。船岡山は国見山として機能した。さらに、平安京の横(東西)の線は、東が神楽岡(吉田山)、西が双ヶ岡だったともいう。これら、船岡山、神楽岡、双ヶ岡を総称して近年では「葛野三山(かどのさんざん)」と呼ぶ。
 平安京造営では、安定した「平安楽土」の地として山背国の地が選ばれた。土地の選定には、地勢の吉凶を占う、当時の最新技術である「風水」が取り入れられる。風水は、古代中国の陰陽思想、五行説に基づく道教思想により生まれた。「気」の集まる理想の地には、四方に霊獣が配された。
 東に青龍(せいりゅう)の河川(鴨川)、西に白虎(びゃっこ)の大道(山陽道、山陰道)、北に玄武(げんぶ、亀と蛇の合成)の山(船岡山)、南に朱雀(すざく、鳳凰)の池泉(巨椋池、おぐらいけ)が配された。この中央、黄龍(おうりゅう)の地に宮廷を置いた。
 なお、船岡山の山頂から眺望できる山々として、西から衣笠山、双ヶ岡、南に天王山、男山、生駒山、稲荷山がある。東には東山の山並みが一望でき、北東には比叡山がある。
◆御霊会 平安時代前期、859年、陰陽寮により、五穀を食い荒らす虫害を祓う祭りが船岡山で行われている。
 平安時代中期、994年、都で流行った疫病退散のための御霊会が船岡山で行われた。木工寮(もくよう)・修理職(しゆりしき)の作った神輿二基に、素盞鳴命の斎をこめて山に安置された。その後、人形(ひとがた)を乗せた神輿は、難波江の海に流された。この時、都の人々は山に登り、傘に風流を施し、囃しにあわて踊った。(『日本紀略』)。これは、疫神を神威により京中から追い払う、疫神鎮送の意味があった。紫野御霊会、今宮祭、出雲路御霊堂などの起源とされている。
 なお、平安時代に御霊会が営まれたのは、平安京の条坊に近い洛外・条坊端の場所が多かった。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・天安寺・東寺・西寺・城南寺・白川・祇園八坂・神泉苑などの地だった。
 それ以前の平城京では、「道饗祭(みちあえ-の-まつり、四境祭)」があり、旧6月・旧12月の晦日に、都の四境(東北・東南・西北・西南)の路上で、疫神に供物を饗応していた。同日に大内裏四隅では、「鎮火祭(ひしずめ-まつり)」が行われており、合わせて「四角四境祭」と呼ばれていた。
◆子の日の宴 藤原時代(平安時代中期-後記、894-1285)、初春の船岡山では「子(ね)の日の宴」という風習も行われていた。邪気を祓うために、正月初子の日に野山に出て、小松、若菜を摘んだ。
 古代中国では、正月初子の日に、丘に登り四方を望んだ。陰陽の生気を得て憂いを除くとされた。松の実を食べると邪気を払うといわれた。
◆戦場 ◈平安時代後期、1156年の保元の乱では、源為義(1096-1156)の子ら全員が船岡山で斬首されている。
 ◈軍事的要衝として戦場にもなった。室町時代後期の応仁・文明の乱(1467-1477)では、西軍の山名宗全方の軍事拠点のひとつになり、山に城が築かれた。1468年、東軍の細川勝元(1489-1520)は、西軍の留守を狙い、船岡山城を攻略し落城させた。以後、船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれる。
 ◈室町時代後期、1511年、船岡山合戦(船岡山永正の戦い)は、室町幕府の政権をめぐる戦いだった。足利義稙(よしたね)を擁立する細川高国・大内義興3万騎と、足利義澄を擁立する細川澄元の1万騎との間で起きた。細川・大内の軍勢は、丹波より長坂口を経て京都を攻めた。山は激戦地になり、内藤貞正・義興らの攻勢により澄元は敗北する。
◆天正寺
 安土・桃山時代、1582年の本能寺の変後、主君の仇をとった豊臣秀吉は、船岡山で織田信長の法要を行う。一体の信長木像を焼き、灰を、新しく建立した大徳寺の総見院に埋めて菩提寺にする。
 秀吉は、船岡山と大徳寺をつなぐ長廊を造り、船岡山東麓に「天正寺」という新しい信長の菩提寺を建立しようとした。もう一体の信長木像を寺に安置する予定だった。
 1584年末、第106代・正親町天皇から、元号寺院として「天正寺」の寺号を得ている。開山予定の大徳寺の古渓禅師が計画を進めた。だが、計画は石田三成により頓挫し、古渓宗陳(こけい-そうちん)禅師は秀吉により博多に配流された。信長木像は現在、大徳寺塔頭・総見院に祀られている。
◆船岡不動 船岡山の西側に「船岡不動」がある。大岩に不動尊が線彫りされ、「弘法大師爪彫りの像」ともいう。
◆三等三角点 山頂に設置の「船岡山三等三角点」は、近代、1903年に建設省国土地理院近畿地方測量部・京都府測量設計業協会により設置された。
 三角点は、全国を一様な相対精度と密度で覆うため、階層構造のネットワーク(網)を形成している。 網を形成する三角形を、大(一等)、中(二等)、小(三等、5万分1地形図作成に必要な密度)と順次作る。まず、一等三角網で日本列島の大枠の測量を実施し、近隣の一等三角点から二等、三等三角点の位置を決めた。三等三角点間の平均距離4km、設置数全国に約3万1600点になる。
 船岡山三等三角点は、標高111.89m、北緯35度2分、東経135度44分。
◆サイレン塔 「サイレン塔」は、山頂付近にある。詳細不明。近代、太平洋戦争(1941-1945)中に、サイレンにより空襲警報を発していたという。コンクリート造。
◆ラジオ塔 広場と野外演奏場の間の段上には、石造の「ラジオ塔」が建てられている。近代、1935年に公園開園に伴い建てられた。
 1925年に日本放送協会(現・NHK)が事業開始している。1930年6月に関西支部(BK 2)は、聴取加入者の拡大のために宣伝活動が重要として、大阪・天王寺公園の旧音楽堂跡に公共的なラジオ塔を完成させた。「常設拡大受信設備」と呼ばれ、据え置きであり、一般聴取者がスイッチを入れると10 分程度放送が流れた。1932年には全国で聴取加入者100万を達成している。 
 以後、ラジオ塔は太平洋戦争(1941-1945)まで全国で300基以上建造されたという。塔周りに多くの人々が集まり、ラジオ放送に合わせて体操をしたり、ニュースを聴いていた。
◆京都・大阪連続強盗殺人事件 現代、1984年9月に、山頂の南東に「顕彰」と刻まれた碑が立てられた。故鹿野人詩警部補の顕彰碑になる。
 1984年9月4日に、船岡山と大阪市都島区で発生した2件の連続強盗殺人事件「京都・大阪連続強盗殺人事件(広域重要事件115号)」で、殉職した警察官(30歳)を顕彰している。
 犯人(41歳)は、元京都府警の警察官であり、1978年に西陣署から盗んだ拳銃で強盗傷人などの事件を起こして懲戒免職になった。その後、懲役7年の刑に処され、事件5日前の8月30日に加古川刑務所を仮出所している。
 男は、事件当日に船岡山公園で、十二坊派出所(北区紫野)の鹿野巡査(当時)を誘い出し、包丁で刺殺、奪った拳銃で銃撃殺害した。その後、男は拳銃を所持し大阪市の消費者金融店舗を襲撃し、男性従業員(23歳)を射殺、現金60万円を奪った。男は、刑事裁判で無実を主張したものの、1998年に死刑判決が確定している。
 脇に小さな歌碑が立てられている。「舩岡の 山の歴史と とこしへに 職に殉ぜし 君を語らむ」と刻まれている。
◆文七かすみ櫻 現代、2019年12月9日に山頂付近の猿舎跡に「文七かすみ櫻」が植樹された。信楽高原鐵道列車事故現場付近で発見された桜という。
 事故は、1991年5月14日に、信楽高原鐵道車両と、直通運転で乗り入れていた西日本旅客鉄道(JR西日本)の車両が正面衝突した。死亡者42人、負傷者628人にのぼった。
 寄贈者は渡邉隆夫(渡文株式会社、代表取締役社長)による。渡文は、近代、1907年創業の西陣織老舗になる。協力は京都府立植物園、小林造園(株)、國忠征美(樹木医、日本さくらの会専門委員)による。
 文七かすみ櫻は、カスミザクラ(バラ科サクラ属の基本野生種の一つ)の一型とみられ、渡邉(1939-)が、滋賀県信楽町で見出したという。花弁の色は白色、花弁数5枚、一重咲き・大輪、花期4月上旬-中旬頃。
◆興津弥五右衛門の遺書 森鷗外(1862-1922)の『興津弥五右衛門の遺書』では、主人公が、山の西麓付近で主君・細川三斎忠興(1563-1646)の後を追い殉死する。第122代・明治天皇(1852-1912)の死に際し、夫婦で殉死した軍人・乃木希典(1849-1912)に物語が重ねられている。
 戦国・江戸時代前期の武将の忠興は、重臣・興津弥五右衛門を長崎に遣わし、舶来した香木・伽羅を手に入れようとする。五右衛門は、同じく香木を調達に来ていた仙台藩・伊達政宗(1567-1636)の家臣と争いになり、相手を討ってしまう。主君は、五右衛門を赦すが、五右衛門は忠興の三周忌を待って、船岡山の麓で殉職する。
◆文学 ◈平安時代中期-後期の清少納言(966?-1025?)は、「丘は船岡、片岡、鞆岡」(『枕草子』996頃-1008)と讃えた。
 ◈平安時代中期の官人・歌人の清原元輔(908-990)は、「船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ」と詠んだ。
 ◈鎌倉時代後期-南北朝時代の吉田兼好(1283頃-1352頃)の『徒然草』(1330-1331頃)には、船岡山は葬送地として描かれている。
 ◈平安時代後期-鎌倉時代前期の西行(1118-1190)も、その様を「波高き世を漕ぎ漕ぎて人はみな船岡山を泊りにぞする」と詠んだ。
 ◈小説『京都船岡山アストロロジー 1-4』 (望月麻衣、講談社文庫、2021-2024年)は、船岡山界隈を舞台にしている。
◆森・野生生物 現在、船岡山公園内の森は、京都盆地特有の丘陵部にアラカシなどの照葉樹の樹相が保たれている。樹種が多く、まだ、帰化植物もほとんど入り込んでいない貴重な森になる。
 現代、1997年の「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「船岡山」として選定された。
 ヤマトムチゴケ(苔類、準絶滅危惧種)が見られる。
◆アニメ ◈アニメーション『けいおん!(第1期)』『 けいおん!!(第2期)』(原作・かきふらい 、制作・京都アニメーション、第1期2009年4-6月、第2期2010年4月-9月、第1期全14話、第2期全27話)の舞台になった。第14話「ライブハウス」ラストで初日の出を見た。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都の地名検証』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『古代地名を歩くⅡ』、『京都府の歴史散歩 上』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都歩きの愉しみ』、『京都大事典』、『京 no.55』、『京都の自然ふしぎ見聞録』、『京都の災害をめぐる』、『京都の災害をめぐる』、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)、『京都の歴史10 年表・事典』、京都市の説明板、「市民しんぶん北区版 2025年8月15日」、ウェブサイト「建設省国土地理院」、ウェブサイト「『ラジオ塔』という メディア遺構-NHK」、ウェブサイト「京都市北区役所」、ウェブサイト「渡文株式会社」、ウェブサイト「このはなさくや図鑑」、ウェブサイト「アニメ旅」、ウェブサイト「コトバンク」


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